第九話 転落
それから何日か経ったけれど、私と加津子は、何となくギクシャクしたままだった。
私は、相変わらず迷っていた。が、誰かに相談するのはいけない気がして、一人で考え込むばかりだ。
思いついて、黒羽さんのいる劇団のサイトを見てみた。お芝居の動画が、少しだけ見られるようになっていたので、見てみることにした。
黒羽さんは、三十代くらいに見えたが、このお芝居では老女の役をやっていた。それが、その年齢の人にしか見えず、彼女の演技力に圧倒されてしまった。そして、これが本当に芝居で生きていきたい人の在り方のように思えた。
その役になりきる。そこにいるのは黒羽蜜ではなく、老女なのだ。黒羽蜜だと少しも思わせてはいけないのだ。
それは、覚悟だろう。私に、そんなことが出来るだろうか。今まで、そんなに強い気持ちでやってきたのだろうか。
私は、首を振った。そして、思った。黒羽蜜は、きっと私と誰かを間違えて評価してしまったのだ。
真実はどうであれ、私はそう考えることにした。
今の私には、全くそこまでの覚悟はない。迷うとは、そういうことだ。そんな気持ちのまま、チャンスだと思って飛び込んで、どうなると言うのだろう。そんなの、全然ダメだ。
ここ数日の、重くのしかかっていた物が、ようやく私の身から離れた。危うく、勘違いをするところだった。
劇団のサイトを閉じて、ニュースを見ていると、驚くべきものを見つけてしまった。
「え?」
光国のバンドのヴォーカル・中田強さんが、リハーサル中に舞台から落ちた。足を捻挫したものの、ライヴには差支えはないらしい。
「電話してみよう」
冷静に考えれば、今夜はこれからライヴなのだから、電話を掛けるなんて迷惑行為だとわかったはず。が、その時の私は、そんなことすら考えずに光国に電話を掛けてしまった。しかも、私のその電話に光国は出てくれてしまった。
「やあ、ミコ」
沈んだ声だった。
「光国。あの……ツヨシさんが舞台から落ちたって、本当に?」
光国は、溜息を吐いてから、
「本当だよ。すごいな。もうニュースになっちゃってるんだ。でも、読んだと思うけど、捻挫で済んだから。今夜のライヴは問題なく出来るし、大丈夫だから」
「何で落ちちゃったの?」
「考え事をしてたから、かな。最近あの人、ずっと憂鬱そうにしてたから。だから、バンドやめるって言ったんだ。ツヨシが苦しんでるのに、続ける意味はないだろうって思って」
鼓動が速くなった。そう言えば、この前電話で話した時、そんなことを言っていた、と思い出した。
「オレは、オレたちのバンドが好きだ。すごく大事だ。だけど、それを存続させることで、メンバーの誰かが苦しむなんて、おかしいだろ。オレにとって、バンドも大事だけど、ツヨシも同じくらい大事だ。だから、やめようって四人で決めた。だけど、あの人は、それを自分のせいだって、気に病んでるんだ。だから、ぼんやりとしちゃって、舞台から落ちた。オレは、どうしたらいいんだろうな」
「光国……」
「ああ。オレさ、もう、何にも考えないで、おまえと一緒にいたい。なーんにも考えないで」
声が、少し揺れた。泣いているのかもしれない。そばにいるなら、その涙を拭いてあげられるのに。そう思った。
「ごめん、ミコ。もう電話切るよ。また連絡する」
「ごめんね、忙しい時に。ライヴ、頑張ってね」
通話を切った。
光国が大事にしてきたバンドがなくなってしまう。
その現実が、少し軽くなっていた私の心を、また重くした。