第二話 ミッコさん
いつもの道を歩いていると、「ミコ」と呼ばれた。喫茶店アリスの斉藤美代子さん、通称ミッコさんだ。私は軽く会釈してから、
「いつものをお願いします」
中に入りもしない内に、いきなり注文してしまった。ミッコさんは笑って、
「はいはい。じゃ、中に入って」
ドアを開けてくれる。私は中に入ると、カウンター席に座った。マスターが、「いらっしゃい」と言った後、
「どうした。何か悩み事かな」
「わかりますか? そうです。ちょっと困ってます」
「光国と何かあったかい?」
光国は、私の恋人で、東京でプロのロックバンドをやっている。私は首を振ると、
「そうじゃないんです。えっと……進路のことで」
店の中に入ってきたミッコさんが、私の背中を軽く叩き、私の隣に座った。
「そっか。ミコも、そんなことを考える年齢になったんだね。出会った時は、小学生だったのにね」
「はい。高校二年生です。でも、今まで、全然将来のことを考えていなかったと気が付いたんです。ある意味、すごいですよね、私」
大きく息を吐き出した。ミッコさんは立ち上がり、カウンターの中に入って行った。イチゴのタルトをお皿に取ってくれながら、
「何かさ、やってみたいことってないの?」
訊かれて、首を傾げる。私は、ミッコさんを見つめると、
「ミッコさんは、今ここで働いてるけれど、迷ったりしなかったんですか?」
思い切って訊いてみる。ミッコさんは、私の視線を受け止めると、
「全く迷わなかったわよ。むしろ、一日でも早くここで働きたいと、ずっと思ってきたから、今ここで働けてるのは、本当に幸せなことなんだ」
「迷わなかったんですね」
「そう。迷わなかった」
イチゴのタルトを私の前に置くと、また私の隣に座った。頬杖をついて私を見ながら、
「先代みたいに、おいしいケーキを焼けるようになって、みんなに喜んでもらいたい。先代に楽をさせてあげたいって、それしかなかったから。先代は、私のおばあちゃん。このお店を始めた人。私が中学に上がったくらいから、少しずつ体調が悪くなっていって。私が今のミコと同じくらいの時、やっと納得出来るようなケーキを焼けるようになって、おばあちゃんも、『合格』って言ってくれたんだけど、それから割とすぐに、あの人は亡くなったの。だから、もう、私が焼くしかないってわかったから、やってるの。他の進路を考えたことは、本当に一度もないわ」
迷いのない瞳で、ミッコさんはそう言った。私は、その真っ直ぐさに、思わず目を見開いた。そんなにも強い思いが、私の中に何かあるだろうか。
「ミコ。お茶、飲みなさい。冷めるわよ」
「あ、はい」
紅茶を一口飲んで、タルトを口に運んだ。いつもの通り、おいしい。少しだけ、心が軽くなった。
「ミコ。どういう道に進むにしても、自分が本当にやりたい方に行きなさいね。人は関係ない。自分がどういう風に生きていきたいか、だよ」
「どういう風に……生きたいか」
思わず、ミッコさんの言葉を繰り返した。
「光国がいてもいなくても、ミコがどうしたいか、だからね。だって、ミコの人生なんだから。誰も責任、取ってくれないよ」
「私の人生……」
真顔で呟く私に、ミッコさんは微笑み、
「提出まで、何日かあるんでしょ。それに、その紙に書いたら、その通りにしなきゃいけない訳でもないし。大事なことなんだから、一生懸命考えなさいね」
髪を撫でてくれる。私は、小さく頷いてタルトを食べた。ミッコさんみたいに、これと思い込めるような何かに出会いたい、と強く思っていた。