第三話 光国
家に帰ってからも、彼のピアノの音が頭に鳴り続けていた。そして、東京行きの日を思っては、わくわくしていた。
と、急に気が付いた。その日は夜の九時頃までコンサートだ。その後ここまで帰ってくるとすると、夜中近くになってしまうだろう。どこかに泊った方がいいのではないだろうか。
東京と言えば飯田光国。十歳年上だが、四年前に出会って以来、付き合っている人だ。
が、彼は、私と出会って直後に東京に行ってしまい、しかも彼の属するロックバンドは、それからあまり日も経たない内に注目されるようになり、あっと言う間にプロになってしまった。そして、今や売れっ子バンドの一つになっている。
だから、付き合っていると言いながら、ほとんど会えていない。では、私たちの関係を何と言えばいいのだろう。
お互いの気持ちを告白しあって、彼は私の存在を大事だと言ってくれた。ずっと待ってる、と言ってくれた。
(恋人? 婚約者? それとも、ただの知り合い?)
私たちを表す適当な言葉が見つからない。だけど、私は彼を大好きで、彼も私を大好きだ。
東京に行くからには、光国に知らせておいた方がいいだろう。ミッコさんの同級生だったということは、光国の同級生でもあったはず。
連絡をしたところで、泊めてはくれないのはわかっている。泊まっていいと言われても戸惑うだろう。が、連絡しないわけにもいかない。思い切って電話を掛けてみる。
呼び出し音が三回鳴って、通話になった。緊張して鼓動が速くなった。
「ミコ?」
耳元で彼の声が聞こえる。それが、私の胸をよけいにドキドキさせた。私は呼吸を整えてから、
「はい、ミコです。元気にしてる?」
「元気だよ。ミコも、変わりない?」
「元気にしてます。今日もクラブ、頑張った。再来月に演劇の県大会があるから、みんな気合が入ってるの。えっと……話は変わるんだけど……あのね、光国。来月、東京に行くことになったの」
「え」
当然驚く。
「光国の同級生だった……のかな? 吉隅ワタルさんの演奏会を聞きに行くことになったの。アリスにチラシが貼ってあって、ミッコさんがチケットを取ってくれて。カセットに入ってた高校生の頃の演奏を聞かせてもらったんだけど、すごく良くって。えっと、『熱情』って曲。プロになって当然の音だった」
興奮気味に伝えると、「そうか。聞きに来るのか」と言った後、
「そう。オレとワタルは、中学一年の時、同級生だったよ。合唱コンクールの時、オレが指揮者であいつが伴奏者だった。懐かしいな。あいつの伴奏のおかげもあって、オレたちは優勝した」
その頃を思い出しているのか、光国はふっと笑ってから続けた。
「だけどさ、ワタルがピアノ弾いてるのって、その時しか聞いてないんだよね。何回か、発表会に来てって言われたんだけど、どうも都合が合わないんだ。最後は、熱を出して……いや。そんなことどうでもいいな。とにかく、オレはあいつに頑張ってほしいんだ。でも、オレその日は仕事なんだよね。残念。オケとやるなんて、めったにないことらしいのに。あー。聞きたかったな」
光国の声は、本当に心から残念がっている感じだった。
「仕事なのね。残念。泊めてもらおうと思ったのに」
冗談めかして言ってみたが、半分は本気だった。が、光国は予想通り、
「泊めません」
やや強い口調で言った。ああ、やっぱりと思った。答えはわかっていたが、溜息が出てしまう。
「えっと、それじゃあ、どこか適当な所を紹介してください。日帰りはちょっときついです。お願いします」
丁重にお願いをすると、「そうだな。訊いてみる」と言ってくれた。良かった。なんとかしてくれそうだ、と安心した。
「光国、ありがとう。頼りにしてます」
「はいはい。わかりました。ま、宿はともかくさ、次の日オレは暇なんだけど、ちょっと会おうよ」
光国の言葉に顔が赤くなった。鏡で見たわけではないが、絶対赤い、と確信している。
大好きな人に会えると思っただけで、こんな反応をしてしまう自分を、ちょっと可愛いかも、と思ってしまった。
「いいわよ。会いましょう。でも、あの……」
彼は有名人だ。カメラを持った人がねらっているかもしれない。撮られたら迷惑をかけてしまう。私はまだ中学三年生だ。ただの『恋人発覚』ではなく、犯罪的な取り上げられ方をする可能性さえある。
私がためらうと、その意味を察して、今度は光国が溜息をついた。
「ま、いいや。おまえの言いたいことはわかるよ。ありがとう、心配してくれて。また決まったら連絡するよ。じゃあね」
通話が切れた。名残惜しくて電話を見つめる。まだドキドキしている。出会ってから四年経つというのに。
翌日連絡が来て、同じバンドの中田強さんの家に泊らせてもらうことになった。中田さんは光国とお仕事で不在らしいけど、奥さんの里菜さんとお子さんの弥生ちゃんが私の相手をしてくれる。会えるのがすごく楽しみだ。
「仕事が終わったら、オレもそのままツヨシの家に行くから、ツヨシの家でデートだ。いいな」
「それならいいです」
二人きりになるのは緊張するから、その方がいいと本当に思った。出会った頃は平気だったのに、今は変に意識してしまう。
彼は絶対に問題になるようなことはしてこない。それはわかっている。でも、やっぱり意識しないわけにはいかなかった。