第十二話 夕食
「飯田さん。ご飯できました」
ドア越しにミコの声がした。布団から顔を出すと、「今行くよ」と返事した。「待ってますね」と言った後、足音がした。居間へ戻ったんだろう。体を起こし、伸びをする。頭がぼんやりしている。気分は晴れない。
居間に行くと、二人はローテーブルの前に座っていたが、食事に手をつけた様子はない。本当にオレのことを待ってくれていたようだ。
「ごめん。待たせたね。食べよう」
わざと明るい声で言った。二人は何も言わずに頷いた。光国は自分の椅子に腰を下ろすと、「いただきまーす」と言い食べ始めた。いつもよりも早いペースで口に運んでいる。向かいに座っているツヨシが小さく笑った。
「光国。そんなに急いで食べると、詰まりますよ」
「だってさ、二人の作ってくれたこの野菜炒め、すごくおいしいから」
「変わった物は入れてないんですけどね。気を付けて食べてくださいよ」
ツヨシはいつも食べ方がきれいだ。ちゃんとしつけを受けているんだなと思う。茶道の家で育っているのだから当然とも言える。
ミコもゆっくりとお上品に食べている。がつがつしているのはオレだけだ。しかし、今はこうするしかなかった。時々二人がこちらを見ているのを感じたが、何も言わずひたすら食べた。
一番に食事を終えると二人に向かって、「ごちそうさま。おいしかった」と言い、食器を流しに持って行って洗った。何かしないではいられない。じっとしていると、余計な事を考え始めてしまう。
やがて、二人も食事を終えて立ち上がったが、「いいよ。オレが洗うから」と言って、二人の食器をお盆に乗せ始めた。ミコは、オレの横に立ち、そのお盆の端をつかむと、「私が洗います。そのくらいします」と言い、お盆を奪おうとしたが、オレは首を振り、
「いいから、ミコは座ってな。ツヨシ。ミコに、お茶入れてあげれば。おまえのおいしいお茶、飲ませてあげなよ」
「あ、はい。じゃあ、そうしましょうか」
ツヨシが準備を始める。オレは流しに食器を持って行くと、また無心で洗った。
しばらくしてお茶の準備が整い、ふるまわれた。やはりおいしい。ミコの表情も明るい。
「えっと、結構なお点前で」
礼をしながら言った。さすがお嬢様だと思った。オレは、ツヨシに何度もお茶を点ててもらったが、一度だってそんな言葉を贈ったことはない。
時計を見ると、もう九時を回っていた。残念だが、そろそろ家に送ってやらなければならない。まだ何も話せていないのに。が、後悔しても始まらない。
「ミコ。そろそろ送ってくよ」
「あ、はい」
ミコは、返事をしてからツヨシの方に顔を向け、
「中田さん。ごちそうさまでした。食事もお茶も、本当においしかったです」
「それは良かったです」
微笑みながら言うツヨシをしばし見つめてから、ミコの腕を取った。ミコがオレを見上げる。
「飯田さん。よろしくお願いします」
「だから、光国って呼べって言ってるのに。まあいいや。行こう」
「気を付けて行ってきてくださいね。藤田さん、さようなら」
さようなら。ツヨシは、もうミコと会えない前提でそう言ったみたいだ。その現実が、オレを苦しめる。ツヨシのように、冷静にはなれない。
ミコの家まで送って行く道中、オレたちは黙り合っていた。ふざけたことを言う気力はない。が、そんな状態であるにもかかわらず、このままずっと、彼女の家に辿り着かなければいいのに、とも思っていた。
無情にも高級マンションが目の前に現れてしまった。もうこれで終わりだ。溜息が出掛かったが、無理矢理飲み込む。ミコはオレと視線を合わせた後、頭を下げて、「ありがとうございました」と言った。
「ああ」
それだけ言った。彼女は背を向けてエントランスに入って行こうとしていたが、
「ミコ」
思わず声を掛けてしまった。彼女は振り向いて、「はい」と返事をした。一瞬のためらいの後、オレは意を決して口を開いた。
「えっと……明日、喫茶店アリスに来てくれるか? 話したいことがあるんだ。今はちょっと、話せそうにもないから。一日時間をくれ。そうだな。三時頃。今日、ツヨシが出てきたお店の前で。待ってるから」
ミコの返事を待たずに、言うだけ言って歩き出した。来ても来なくてもいい。言うべきことは言った。そう思いながらも、胸が騒いで落ち着かない。ずっとそんな感じだ。
(明日こそちゃんとしないと)
自分に何度も言い聞かせた。
家の玄関に入るとツヨシが来て、
「話は出来ましたか」
神妙な顔つきだ。オレは首を振った。ツヨシが溜息をつく。
「でも、明日また会う事にした。明日こそ」
明日、いったい自分はどんな話をするつもりなんだろう? 話してどうするつもりなんだろう? 考え始めると胸がざわつく。
「どうしていいのか、わかんないけど。とにかく会うから」
「そうですか」
ツヨシの脇をすり抜けて、自分の部屋に向かった。戸を閉めて大きく息をつくと、布団にもぐった。何も考えたくなかった。