第十一話 来客
帰宅すると、もう六時になっていた。何もせずに一日終えてしまった。が、そんな日があってもいいか、と思い直す。父との幸せな記憶が、そんなふうに考えさせてくれた。何かしなければいけない、なんてことはないのだ。
「さ、じゃあ夕飯の準備でもするか。そろそろツヨシも帰ってくるだろう」
呟いて台所へ向かった。料理は、その時間にいた方が作ることにしている。冷蔵庫の中を見てメニューをだいたい決め、流しで手を洗っていると、チャイムが鳴った。玄関に向かいかけたが、ドアを開ける音と同時に、ツヨシの「ただいま帰りました」との声が聞こえて立ち止まった。
ツヨシは誰かに向かって、「どうぞ、入ってください」と声を掛けた。声を掛けられた人は、「お邪魔します」と丁寧に言う。その声を聞いて、胸がいきなり騒ぎ出した。
台所で立ち尽くすオレに、ツヨシが微笑み、
「光国。お客様です」
そう言ってツヨシは、彼の後ろに立っている少女に視線を送った。それにつられて、オレもその方を見た。やはり彼女だった。オレは一歩前に出ると、「ミコ」と呼び掛けた。彼女は小走りでオレのそばへ来ると、ためらいなく抱きついてきた。そうされて、オレも彼女をしっかりと抱きしめ返した。
「会いたかった。昨日会ったばかりなのにさ。本当に馬鹿みたいだ」
つい本音が口から出てしまった。今は、繕う余裕がない。ツヨシは、笑顔のまま説明を始めた。
「仕事を終えて店を出た所で、光国が言っていたような容姿の子が歩いてたので、つい声を掛けました。藤田さんでよかったです。違ってたら、私は変な人ですよね」
ツヨシの言葉にミコが笑う。それを見てオレは、今日は笑ってる、と安堵の息をついた。泣くよりも笑っていてほしい、と本当に心の底から思っていた。オレは、ミコの髪を撫でながら、訊いた。
「ミコ。お母さんは帰って来たか?」
「帰って来ないわ。やっぱり覚悟して出て行ったんだと思います」
十歳の少女が言うには、あまりふさわしくない気がした。さっきまでの笑顔は、当然消えてしまっている。ミコは、憂鬱な顔で、
「仕方ないんだと思います。だって、その方が幸せなんだから」
呟くように言った。自分で話を振ったものの、失敗した、と後悔した。オレはミコから少し距離を取って、彼女の瞳を見つめながら、言った。
「ごめん。訊かない方がよかったな。ごめん」
「飯田さんは悪くないです」
「そうだ。ミコ。オレのこと、光国って呼べ。オレの友人はみんなそう呼んでるから」
ミコは、目を見開いてオレを見た。そんなにも驚くようなことを言っただろうか、と思っていると、ミコが小さな声で、
「そんな。大人に向かって呼び捨てなんて、私には出来ません」
「そんなこと、気にするな。それとも、友達になってくれないのか」
ミコが顔を伏せてしまったが、そうされても、オレはミコをじっと見ていた。お互いに黙ってしまい、部屋は静まり返ったが、その空気を破るように、ツヨシが静かに笑い、
「まあ、呼び方なんていいじゃないですか。それより、光国。夕飯作りましょう。藤田さんはどうしますか。一緒に食べたらどうですか。お父さんは何時頃帰られるのですか」
ツヨシの言葉にミコは、「わかりません」と答えた。
「いつも遅いんです。だいたい十時は過ぎると思います」
「じゃあ、お父さんに光国から電話したらいいでしょう。ちゃんと家まで送りますって言うんですよ」
ツヨシの提案を受けて、光国はミコに番号を聞いて彼女の父親に連絡することにした。電話を掛けると出てはくれたが、その声に戸惑いが感じられた。知らない番号からだったからだろうと察せられる。オレは、なるべく丁重を心掛けながら、
「藤田さんですか。昨夜お会いした飯田です。先ほど町でミコさんに会って、うちに来てもらっています。夕飯を一緒に、と思っています。帰りはお送りしますので、よろしいでしょうか」
一気に話した。藤田氏は一拍間をおいてから、「お願いします」と言った。電話を切るとオレは二人に、ガッツポーズをしてみせた。
「いいって。じゃ、夕飯、何にしようか。お嬢様の口に合う物、作れるかな」
おどけた調子で言った。ふざけていないとやっていられないような気持ちだった。
「ミコは何でも大丈夫です。手伝いますね」
そう言って、ミコは流しで手を洗い始めた。オレは、その後ろ姿を見ながら、抱きしめたい気持ちにかられた。重症って言うか犯罪だな、と自虐的に思い、溜息が出た。と、その時、ツヨシがオレの肩を軽く叩いた。その目は、オレをいたわってくれているような感じだった。ツヨシは、静かな声で言った。
「光国。調子が良くないんじゃないですか? ここはいいですから、ちょっと休んできたらどうですか」
ツヨシの言葉に乗っかることにした。冷静でいられる気がしない。少し休もう。
部屋に戻るとすぐに布団に横になった。一体自分はどうしてしまったのだろう。小学生の少女を本気で好きらしい。そんな自分に戸惑うばかりだ。
(もうすぐここから出て行かなきゃいけないのに)
混乱する心を隠すように、布団を頭までかぶった。