第一話 三日月
アルバイトを終えて、バイト仲間に「お先に」と声を掛けて店を出ると、オレは空を見上げた。三日月だった。青白い光を放っている。それを見て、ずっと昔に父と一緒に見た空を思い出した。父は笑顔でオレを見ると、
「今夜は、すごく月がきれいに見えるな。空気が澄んでるからかな」
父に言われて見上げたその空に見えたのが、今夜と同じ三日月だった。オレは父に視線を移し、
「い……父さんは、三日月が好きなの?」
つい、『飯田さん』と言いそうになってしまい、あわてて言い直した。まだ、自分が『飯田光国』であることに慣れていない時期だったのだ。父は、母の四番目の旦那さんだ。
父は、オレが言い間違えそうになったことを気にした様子もなく、相変わらず笑顔で、
「そう。なんだか小さい頃から好きなんだよな。何でだろう」
子供で、まだ身長が低かったオレは、父の横顔を見上げながら、
(優しい人。今までの人たちとは違う……)
そんなことを思っていた。父はオレの肩を抱き寄せると、
「こんなきれいな三日月を、光国と一緒に見られて嬉しいな」
父の大きく温かい手に触れられて、急に不安になった。それを感じ取ったのか、父は首を傾げた。
「どうした、光国。オレ、何か変なこと言ったか?」
オレはあわてて首を振り、「違います、父さん」と必死に言った。オレの言葉に、父は納得していないような顔をしていたが、それ以上は訊いてこなかった。オレは、思わず安堵の息を吐いた。
訊かれたら、いつか口にしてしまう。が、出来ればそれは避けたい。本当の気持ちは隠しておかなければならない。期待を持って絶望するのは、もうこりごりだ。今まで何回もそんなことがあった。
『飯田さん』が父になってくれてから、まだ二ヶ月。オレはこの人が好きだ。いつまでも父でいてほしい。そう願っている。が、そう願っていることを、自分で認めないようにしている。傷がよけいに広がることがわかっているから。これは自己防衛だ。
「光国。もうそろそろ帰ろう。汀子さんが帰ってくる時間だ」
『汀子さん』は、オレの母の名前だ。結婚してからも、二人はずっと名前で呼び合っている。
母が父を『光洋さん』と呼ぶ時、父と自分が何だか本当の親子のような気がする。同じ光の字があるからだ。
歩きながら、父が訊いた。
「光国が好きなのは満月か?」
まだ月の話が続いていた。オレは、少し考えてから首を振り、
「三日月がいいです」
父さんが好きだって言ったから、と付け加えたりはしなかった。父は笑顔になり、
「そうか。光国とオレは気が合うな。名前も似てるし。親子になるべくしてなったと思わないか?」
答えに詰まった。が、父は上機嫌のままだ。
「今夜は何だか気分がいいんだ」
父が、本当に嬉しそうだったのを覚えている。そして、その日からオレは、本当に三日月が好きになった。
昔を思い出しながら月を眺めていると、誰かがぶつかってきて転んだ。驚いてその人を見ると、小学生と思われる少女だった。
黒い髪は腰の辺りまでありそうなほど、長い。前髪は眉の上で切り揃えられている。目が大きく、肌の色は白い。人形のような、可愛らしい子だ。
アスファルトに膝を打ち、痛そうに顔を歪めている彼女は、オレのことは見てはおらず、遠くに目をやりながら、「待って……」と小さな声で言った。