第四十七話【粘液状の化物】
日が沈んだ森林公園。
夜空に浮かぶ二つの月明かりがあるとはいえ、周囲は薄暗い。
その中であっても、ドス黒い粘液状の何かは異様な存在感を放っていた。
黒い粘液は、夜闇のそれよりもっと黒く。
わずかな月明かりも全て呑み尽くしてしまいそうな闇をたずさえ、不定形の体をグネグネと揺らしながらチーネ達の居る方へにじり寄ろうとしていた。
「な、何ですっ!?これ…は?」
これに気付いたリンカ達も、驚きを隠せない様子で唖然としている。
───これは一体何なのか?
聞きたいのはジューロの方だが、リンカ達の様子を見るに、普通のモンスターとは違う物怪なのだろう。
ジューロの故郷…日ノ本でも、このような姿をしたバケモノの話は聞いたことがない。
「リンカさん!グリン!皆を連れて逃げろ!!」
ジューロは再び叫んだ。
この黒い粘液から邪悪な敵意が発せられているのは確かだ。
ここに居ては危険だと直感する。
ジューロの直感に呼応するように、粘液のバケモノは不定形の体をボコボコと泡立たせ始めた。
そして、ジューロの嫌な予感は的中した、的中してしまった。
粘液のバケモノが、こちらの行動を待たずに攻撃を仕掛けてきたのだ。
泡立った場所が無数に隆起し始めた。
かと思えば、隆起した部位がツララのような槍に変わり、それが刺突してくる。
刺突してきた先の狙いは、チーネやリンカだったかもしれない。
警戒していたのが功を奏し、彼女達の前に立ち塞がるように陣取っていたジューロは、誰よりも素早く反応できた。
抜き放っていた長脇差を、鋭く伸びてきた槍に目掛けて振り回す───
「ぬうぅぅおぉぉぉッ!あぁアァァ!!!」
ガギン!ギキィン!という剣撃の音が響き、無数に伸びてきた槍がへし折れた。
しかしジューロは渡世人、侍のように武芸の心得があるワケでもない。いわゆる素人剣法である。
全てを捌ききる事は出来ず、急所に向かっていた攻撃こそ防げたものの、二の腕や太ももには、伸びてきた槍が突き刺さっていく。
鋭い痛みが体を駆け巡るが、それでも一心不乱に刃を振るう。
元々がグネグネとした粘液とは思えない程の硬度。
ガキン!ガキン!という剣劇が断続的に響く中、突如としてパキン!という音が聞こえた。
「なっ!?」
粘液のバケモノが伸ばしてきた攻撃に、長脇差が耐えきれず折れてしまった音だった。
ドスッ!という衝撃と共に、ジューロの脇腹をバケモノの槍が貫く。
「ぐぅっ…、にぎぃっ!!」
ジューロは歯を食い縛り、痛みを堪え、かろうじて意識を繋ぎ止めた。
刺された部位からジワリと、血で着物が染まっていく。
自分の血だが、気持ちのいいモノではない。
貫かれた部分の槍を、折れた長脇差で切り落とすと、粘液のバケモノは切り離された部位を引っ込め、身震いするような動きを見せた。
不定形の体をよく見ると、切り離された断面がジュア…っと音を立てて煙が上がっていて。切り落とされて地面に転がった槍状の部位は、消えるように溶けていく。
斬撃が通用するような見た目ではなかったが、ひょっとして効いているのか?
顔もない粘液状のバケモノだが、悶え苦しんでいるようにも見えた。
「ジューロさんっ!!!」
「ジューロ!!!」
リンカとグリンが駆け寄ってくるのが分かる。
「───来るなァっ!」
ジューロは焦り、かすれた声で再び叫んだ。
グリンは消耗しているし、リンカも魔力が残っているか分からない。
彼女達が来た所で、犠牲が増えるだけだ。
今やるべきは、粘液のバケモノを対処する事ではなく、逃げる事だろう。
しかし、ジューロが逃げるよう促しても…たとえ制止したとしても、こちらに来てしまうのが分かる…分かってしまう。
リンカ達は人が良すぎるのだ。
彼女達がこちらに向かってくるのも、ジューロを心配しての行動なのは間違いない。
そんな人達だから、怪我なんて負ってほしくないし、命にかかわる真似も止めてほしいと願う。
「ぐうッ…」
ジューロは視線を粘液のバケモノに移す。
不定形の体を震えさせ、悶えるような動きをしていたが、それが徐々に治まってきている。
同時に、不定形の体が再びボコボコと泡立ち始めていることに気付いた。
(…あの攻撃が来る!)
ジューロは覚悟を決める。一か八かでも粘液のバケモノに突撃し、カタを付けるのだ。
折れた長脇差を上段に構え、踏み込もうと脚に力を込める───
いや…、込めようと試みたが、気合いとは裏腹に脚がいうことを聞かない。
ジューロもまた、体力の限界が来ていたのだ。
心臓の鼓動と連動するように、ドクドクと傷口から血が溢れ、力が抜けていく…。
「ぐ…っうぅっ…」
膝こそ付かなかったが、ぐらりと姿勢を崩し、折れた長脇差を落としてしまう。
(ここまでか…、せめてリンカさん達は無事に…無事に逃げてほしい)
霞んだ目で、粘液のバケモノを見据えながらジューロはそんな事を祈った。
…次の瞬間だった。
何かが爆ぜるような炸裂音が聞こえてきたのは。
────ガガァン!!
…何の音だろうか?
粘液のバケモノがいる方向とは別の場所から聞こえた。
一瞬疑問を持ったが、今はどうでもいいことだろう。
目の前にいる粘液のバケモノの方が問題だからだ。
せめてリンカ達の肉盾くらいになれればと考え、ジューロは両腕を広げていたのだが。一向に攻撃が来ない。
何故だ?と思い。霞んだ目を凝らすと、粘液のバケモノに二つの大きな風穴が空いてるのが見えた。
視界はボヤけているが、見間違いではない。
粘液のバケモノ、その不定形の体に2つの大きな穴が空いている。
粘液のバケモノは泡立っていた体を大きくうねらせ、苦しんでのたうち回った後、やがてブルブルと体をうち振るわせると地面に溶けて無くなっていった。
何が起こったのかジューロには理解が出来なかったが、危機が去った事だけは確かだ。
これが都合の良い幻でなければだが…。
現実かどうか判断がつかないジューロに、聞き覚えのある声が届く。
「今の、撃っちまっても良かったんだよな?」
フレッドの声だ。
彼は拳銃を構え、微かな火薬の臭いを漂わせながら立っていた。
あの炸裂音はどうやら発砲音だったらしい。
「フレさん……助かり…やした…」
フレッドが来てくれるとは思ってもみなかった。
ギルドメンバーにでも事情を聞いて、駆け付けてくれたのだろうか?
何にせよ、今度こそ一件落着だとジューロは心底ほっとした。
リンカ達にも大きな怪我はないだろう。
(本当に良かった───)
緊張が解けた時、ジューロは不意に壁のようなものに正面衝突する錯覚に襲われた。
…冷静になると、それが壁ではなく、地面であることに気付く。
ジューロは前のめりに地面に倒れてしまったのだ。
「いやぁぁっ!ジューロさんっ!!!」
リンカの悲鳴が遠くで聞こえた。
いや、これも違う…自身の意識が遠くなってきているだけだと理解した。
リンカだけでなく、グリン達も倒れたジューロを見て慌てふためく。
フレッドも異常を察し、ジューロの元へ駆け寄ってきた。
リンカは特に取り乱し、ジューロにすがり付くように駆け寄ると、その体に触れ、魔法での治癒をこころみた。
だが、まるで上手くいかない。
魔力は既にカラッポだったのだ。
「ラ、ラティ姉さんっ!魔力…、魔力を分けて下さいっ!」
「リンカ…、私も…もう、魔力は…」
ラティの顔にも焦燥が滲み、どうすれば良いのか分からないといった感じで狼狽えている。
リンカとラティが冷静さを欠く中、真っ先に行動を起こしたのはグリンだった。
短剣を抜き、自分のマントを裂き始める。
「みんな!止血を!」
シャッ、ズバッ!と手早く切り裂くと、マントだったものが簡易的な包帯へと次々に変わっていく。
この長さがあれば胴体も止血することが出来るだろう。
「グリン、よこせ!俺がやる!リンカちゃんは傷口を押さえててくれ!」
「はっ…はいっ!!」
フレッドが指示を出し、慣れた手付きで包帯を巻き始める。
ジューロは既に震えが来ていて、それを見たリンカは不安で涙目になっていた。
それでも、たとえ魔力が無くても、今できることを精一杯やるしかない。
少ししてグリンも措置に加わり、みるみるうちにジューロが包帯に包まれていく。
「ジューロ、聞こえてるか?返事はいらねぇから、まばたきして返せ」
ジューロはかろうじて意識があった。
それを伝える為、ゆっくりとまばたきをしてみせる。
「なんとか意識は保っておけ、いいな?」
フレッドの言葉に対し、再びジューロがまばたきをして返す。
「よし、頑張れよジューロ!あとは病院だな?姐さん、この時間でも医者がいる病院はどこか分かるか?…姐さん?姐さん!」
フレッドがジューロを激励した後、ラティに病院のことを訊ねようとするが反応がない。
無理もないだろう。
ワケの分からない粘液のバケモノと遭遇しただけでなく、大量の血を流しているジューロを目の当たりにしているのだ。
その怪我も、ギルド前でチーネに襲われていたメンバー達の比ではないくらい酷い。
ラティはチーネを抱えたまま、顔を青ざめて動けずにいた。
「姐さ───ッ!…ラティっ!!!」
フレッドの一喝が響き、ラティがビクリと反応する。
その声にハッとし、ラティが視線を向けると彼と目が合い、ようやく我に返った。
「病院だ!今、近くで診てくれる病院は!?」
「え、衛生ギルドの緊急病院…!ここの森側から抜けるのが一番早いけれど、この暗さじゃ…」
ラティの声は少し震えていたが、それでもしっかりとフレッドに伝える。
「あそこか……分かった!」
「その場所なら僕も分かりますよ!森を抜けるにしても、僕なら嗅覚で真っ直ぐ行ける」
「グリンお前、見たところ消耗してるだろ?…そっちのが不安だ。俺が行く」
「でも、森を抜けるとなると」
「問題ない、コイツがある」
フレッドは腰に備えていたカーバイドランプを取り出すと、火を灯した。
オイルとは違った強い光りが煌々とし、足元と周囲がしっかりと見える。
「俺が行く方が確実だろ。グリンにはチーネを任せる。…何があったのかは、後で聞かせろよ?」
フレッドの言う通りだ。
グリンが無理に背負って行ってたとしても、力尽きては意味がない。
助かる命も助からなくなる。
「…分かりました、頼みます!」
背負う形に屈んだフレッドに、リンカとグリンはジューロを背負わせた。
「ジューロさん…、ジューロさんっ…」
「ジューロ…」
フレッドに背負わせる最中、心配そうな二人の声がジューロに届く。
ふと視線を送ると、その先には二人だけでなく、ラティとチーネも不安げな表情でこちらを見送る姿が見える。
「大丈夫、余裕でござんすよ…」
そう言葉にしたが、声が届いたかは分からなかった。
「フレッド、お願いね…」
ラティが弱々しく呟くと、フレッドは時間が惜しいとばかりに頷き返すだけに留め、ジューロを背負い森の中…緊急病院の方へと風のように消えて行くのであった────




