作戦開始!
菊池さんは教室を出ると右に曲がった。
どうやら階段に向かっているようだ。
この大学は生徒数が多いマンモス校。
移動時間の階段は混むし、絶対に人を追い抜くことなどできない。
つまり、このままではいつまで経っても菊池さんに追いつけないのだ。
開始早々、僕たちの作戦は座礁に乗り上げたかに思えた。
「俺が菊池を追いかけるから、お前はダッシュで裏の階段に回れ。行き先はスマホで連絡するから、ちゃんと確認しとけよ」
諦める口実ができて、冷静さを取り戻し掛けていた僕に、圭吾がそう耳打ちした。
なぜか圭吾の方が僕よりも真剣になっていた。
その言葉を受けて、僕は混んでいる中の階段ではなく、あまり人が使わない外付けの階段に急行する。
距離的にいうと明らかな遠回りだが、このルートなら走ることができ、菊池さんを先回りするためにはこの方法しかなかった。
久しぶりの全力疾走で僕の呼吸が苦しくなってきた頃、圭吾から報告が来た。
菊池さんの行き先は3階のようで、それも、今まさに僕が走っている階段がある方向に向かっているとのことだ。
幸運にもここまでの全てが僕の都合が良い方に動いていた。
僕も3階に着く。この廊下を急いで進めば、ちょうど教室に入る前の菊池さんが逆側から来るはずだ。
あれだけ無謀と思えたこの作戦の成功条件が、奇跡的に揃っていた。
だが、ここにきて僕に迷いが生じる。
足は動いているが、覚悟は決まっていない。
いざぶつかるとなると不安は増すばかりだ。
そこに菊池さんの姿が見えてきた。
走ってきた分の息もまだ整っていないなか、僕は未知の緊張感に襲われる。
今から普通ではないことをするのだ。
手が震えているのが分かる。
このままのルートではダメだ。
ぶつかれない。普通にすれ違ってしまう。
軌道修正しなければ、それも自然に。
結局、精一杯の勇気を振り絞っても、僕にできたのは肩と肩をぶつけることだけだった。
計画段階では深く考えなかったが、こんな見通しの良い廊下で、対抗者と正面衝突などできるはずもなかった。
「あっ、すいません。大丈夫ですか?」
見知らぬ人なら無視したであろう程度の接触で、僕が菊池さんに声をかける。
「全然平気です。こちらこそすいません」
菊池さんが申し訳なさそうな顔になり、丁寧に頭まで下げる。
時間にして僅か数秒。
文字にすると僅か数十文字。
ここまでやって、交わすことができた僕と菊池さんの会話の全てだ。
自らぶつかりに行って、相手を謝らせるという最低な結果だった。
菊池さんが頭を上げ、前を向き直して歩き始める姿を、僕は呆然と見ている。
周りの音が消え、その姿がやけにスローに見えた。
菊池さんが少し先の教室に入るのを確認した後、僕に後悔が押し寄せる。
「お前本当にやりやがったな」
そこに圭吾がやってきた。
その声はなぜか非常に興奮したものだ。
「俺がけしかけたんだけど、まさか本当にやるとはな。まあ想定していたのは、お互いが倒れるくらいの衝突だけど、肩ぶつけただけでもすげーよ」
僕と圭吾のテンションの差は広がるばかり。
「圭吾、これ本当に意味あるのか? 結果として菊池さんに迷惑をかけただけだし。むしろ僕の印象悪くなってないか?」
僕はそこまで言って、大きくため息をついた。
「お前は本当に何も分かってないな。よく聞けよ。相手に認識もされていないお前の印象が、これ以上悪くことなんてない! どんな形であれ、相手にお前のことを意識させることが大事なんだよ」
圭吾がそう断言した。
分かってはいたことだが、「相手に認識もされていない」と圭吾に面と向かって指摘されると、改めて現実を突きつけられた気がした。
「そう言う意味では、これくらいの会話でも作戦成功なんだよ。こういうのは継続が大事だ。相手の場所にお前から出向いて、なんとか会話に持ち込め。イベントを起こすんだ。選択肢が出るのはそこからだ」
ゲーム脳ここに極まれり、と圭吾を批判しようかとも思ったが、直前で言葉を飲み込んだ。
既に圭吾の案に乗せられている僕に、今更そんな資格はない気がしたのだ。
ここまで来たら圭吾を信じるしかない。
泥舟に乗ってしまったような感覚を必死に振り払い、やれるだけやってみよう、と自分を鼓舞する。
こんな惨めな結果でも、少しずつ前に進めているはずだ。
なんて、柄にもなく自分で自分を励ました。