始まりの日2
「そういえば進くんは、何かサークルに入っているの?」
「1年生のうちは色々見て回って顔出してたんですけど、今は何もやってないです」
「そうなの。もったいない。どう? 映画とか興味ない? 私、映画研究会の副部長なの」
「やめとけ。やめとけ。いいか進。沙苗の映画の話はなげえぞ。下手に関わらない方がいい」
「ははは。うーん映画はあんまり見ないですね。それこそ有名な奴だけです」
などと、他愛もない会話をしながら僕と沙苗さんと良太さんの3人は廊下を歩いている。
もうすぐ共同スペースに着くとのことだ。
道中に、廊下まで溢れるゴミや回線ケーブルを目にした。
その空間は、このかすみ荘にあっても異常なものに見えた。
だが、前を歩く2人が当然のように話題にしなかったので、僕は何も見ていないことにした。
響き渡る大音量のハードロックも聞いていないことにした。
共同スペースには、ショートカットの女の子が1人立っていた。
何やら神妙な面持ちである。
呼吸を整え、瞑想を始めた。
「よし」
目を開けた少女がそう言うと、おもむろに振りかぶり始める。
今ではすっかりプロでも見なくなったワインドアップ。
その瞬間、僕は子供の頃父親に連れて行ってもらった神宮球場を思い出した。
女の子とは思えないほどきれいなフォームから、豪速球ならぬ豪速ダーツが放たれ、見事的の真ん中付近に当たった。
ダーツの音とは思えないほど甲高い音が響いた。
「よっし!」
重要な場面で三振を奪ったかのようなガッツポーズを少女が見せる。
「よし、じゃないわよ! 音羽ちゃん。何やってるの」
僕の隣の沙苗さんが叫ぶ。
僕が沙苗さんの叫び声を聞いた2度目の瞬間だ。
「あっ、沙苗さん。見てくれてました。今のめちゃくちゃイメージ通りに投げれたんですよ」
会話をしているはずの2人の表情は、驚くほどかみ合ってなかった。
音羽と呼ばれた女の子は、興奮が収まらない様子で、その目は輝いている。
「もう。ダーツをあんなスピードで投げちゃいけないよ。危ないんだから」
沙苗さんの声色は、年の離れた妹をあやす姉のもので、妹がいる僕にはなじみ深いものだった。
「すいません。でもこの時間は誰も来ないから。今がチャンスかなって。で、そちらの方は?」
「音羽ちゃんは本当にいい子なんだけど。集中すると周りが見えなくなるから。お姉さん、そこだけは心配よ。それと、こっちは東条 進君、今日越してきたの。大学2年生だから、音羽ちゃんにとってはお兄さんね」
「そうでしたか。いやーお恥ずかしいところを見られましたね。天音 音羽です。高校2年です。よろしくお願いします」
高校2年。ちょうど妹と同じ年齢か。
ショートカットのジャージの女の子、音羽ちゃんは非常に礼儀正しかった。
ダーツ前の瞑想時に纏っていたピリつくような雰囲気はすっかり消えている。
軽めの挨拶を済ませると、音羽ちゃんも交えた4人でお茶をすることになった。
備え付けのポットで音羽ちゃんがお茶を用意してくれると言い出し、沙苗さんもそれに付き添った。
「はあ〜。沙苗も音羽に対する時みたいに、俺にも注意してくれたらまだ可愛げがあるのにな」
良太さんの目線の先には、音羽ちゃんを優しく見守る沙苗さんの姿がある。
肘をテーブルにつき、何か物思いに耽っているような、そんな様子だ。
「……進もそう思わないか?」
「……そうですね」
僕が言える唯一の言葉だった。
褒めてほしいくらいだ。
今日来たばかりの僕は、この人たちの関係性について語れる言葉を持っていない。
「はい、進さん。紅茶です。砂糖とミルクも取ってきたので、よかったら使ってください」
戻ってきた音羽ちゃんから紅茶を受け取る。
自ら率先してお茶を用意してくれたこともそうだが、紅茶を一つずつ丁寧に運ぶところに好感が持てた。
間違いなくこの子はいい子だ。
「ありがとう。音羽ちゃん」
「はい。良太の分」
沙苗さんがぶっきらぼうな渡し方で良太さんにコーヒーを渡した。
そこには既に砂糖とミルクが入っていた。
その後、4人で30分程度話し、自室に戻った。
「今日からここに住むのか」
誰もいない部屋に僕の独り言がこぼれる。
一人になると余計に、この部屋のボロさが気になった。
先ほどまでの暖かい雰囲気はそこにはなく、今後への不安が急に押し寄せてくる。
1万5千円。その数字が頭によぎり、自分を納得させた。
「でも部屋は寂しいし、見た目もどうしようもないけど、みんな良い人そうだったな」
まだ必要最低限のモノしかない殺風景な自室を眺めつつ、僕は、今日の出来事と共同スペースでの4人の会話を思い返す。
なんだかんだと悪くない1日だったかもな。
そう思うと、不安の中からわずかな希望が芽生えた気がした。
さて、この部屋もどうしたものかな。
観葉植物でも置いたら部屋の雰囲気良くなるかな、意外にスペースはあるから。
……いらないな。絶対後で後悔する。
そんなどうでもいいことが次々と頭に浮かび、僕のかすみ荘での初めての夜が更けていった。