始まりの日1
その場所は、僕の大学生活を、いや人生をがらりと変えた。
かすみ荘、そこはバラバラな人生が交差する場所。
僕の名前は、東条 進。
大学2年生。175cm 65kg。
名前と違って、今の僕は前へ進むどころか、後退しているとしか思えなかった。
かすみ荘は、通う大学から徒歩で20分ほど掛かる。
ギリギリ東京23区内の、杉並区ど真ん中。
駅前の喧騒を離れ、閑静な住宅街にポツンと建っている。
その敷地内は、周りの世界から切り離され、まるで時代が巻き戻ったかのような錯覚を与える。
完全な木造二階建て。いたるところから雨漏りや隙間風がひどいらしい。
その家賃は、諸費用全て込みで、1万5千円。
全ての悪条件を跳ね返す値段だ。
「……今日からここに住むのか」
中に入る気持ちが湧いてこず、立ち尽くす僕。
どこを見ても褒めるところが一切ない外見。
覚悟はしていたが、初めて生で見るかすみ荘は、僕の最低基準を軽々と超えてきた。
これだけ古い建物だと、取り壊しの噂も後を絶たない。
また、「学生運動時代の怨念がとりつき、化けて出る」とか「集団自殺があった」などというオカルトな噂すらも流れている。
「文句は言えないな。もうここしかないから」
その言葉を無意識に呟く。
頭ではその言葉を理解しているが、身体が中々いうことを聞かず、僕は只々かすみ荘を眺めている。
「危ない!」
僕はそう叫んだ。
今にも取れそうな2階の窓から一人の男が飛び降りたのだ!
その男は全く躊躇していなかった。
しっかり着地を決めて、走り出し、僕の方に向かってくる。
僕には一連の流れがコマ送りに見えている。
人間って2階から飛べるもんなんだな。
飛ぶというより落ちてるだけか。
人間の脚は意外に丈夫だ。
「あーー!また逃げ出そうとして。そこの君、その男捕まえて」
続いて、女性の叫び声が聞こえた。
するとその声に反応したのか、僕の体が咄嗟に動き、見ず知らずの男性の手を掴んでいた。
「おっと、おたくはどちら様?」
「あっ、すいません。大学2年の東条 進です。今日からかすみ荘に引っ越してきました」
「あー、ここの入居者か。それじゃ邪険にもできないな」
2階から飛び降りた男は、ボサボサの髪でだぼだぼなズボンをはいている。足元はサンダルだ。
「俺は藤井 良太。大学3年。まあ適当に呼んでくれ。これからよろしく。で、もう逃げないから、手、放してくれる」
慌てて僕は手を放す。
最初の行動と違って、男の反応は至って常識的なものだった。
「じゃあ良太さん。こちらこそ、よろしくお願いします。それで、なんで2階から飛び降りたんですか?」
「こいっつたら、またパチンコ行こうとしてたのよ。そんな金あるなら、借りたお金返せって言ってるんだけどね」
良太さんじゃなく、先ほど叫んだ女性が代わりに答えた。
息が上がっているところを見ると、あの後走って追いかけてきたようだ。
その女性は、長い髪をサイドに結っており、大人のお姉さんといった雰囲気があった。
手にはフライパンが握られている。
目の前で行われている出来事に、理解が追いつかず、思考がまとまらない。
かろうじて、この2人の間に一悶着あったことは分かった。
「うるせーな。沙苗。今からお金を倍にしにいくんだよ。そうしたら、こんな端金さっさと返してやるよ」
「なによそれ。良太パチンコでまともに勝ったことないでしょ。あっ、君もありがとうね。良太は逃げ足だけは速いから。いつもはダラダラしかしてないのに」
「東条 進です。今日からこのかすみ荘でお世話になります。大学2年です。よろしくお願いします」
良太さんへの挨拶と同じように、僕は丁寧に頭を下げた。
「私は松本 沙苗。良太と一緒で3年ね。君が噂の新人君か。ボロいところだけど、まあ住んでみると悪くないところよ」
沙苗さんの「悪くないところ」という言葉が、僕には気になった。
何か含んだ言い回しと表情だったからだ。
それと、沙苗さんは薄いTシャツ一枚で今走ってきたためちょっと肩が露出している。
大学には行けないようなラフな格好だ。
その姿と上がった息が妙に色っぽかった。
「でも、入居が後期からなんて珍しいわよね」
「まあ、いろいろ事情がありまして」
「おっ、進もカネに縁がないタイプの人間か」
「絶対あんたとは違うでしょ」
会って間もない人たちに、僕は現在の情けない状況を説明することになった。
僕は基本的に自分の置かれている境遇を周りの人に話さない。
別にどうして欲しいわけでもないからだ。
何より、お金に困っている事を知られると、その人の態度が一変することが苦手だ。
だが、良太さんと沙苗さんからは、同情や憐みの類は一切感じなかった。
よく考えると、この人たちは既にこの寮に住んでいるのだ。
何かしらの事情があるに決まっている。
僕くらいの不幸はどうってことはないのだろう。
ちなみに、良太さんがお金がない理由はギャンブルだそうだ。
完全に自業自得だった。
自己紹介も済んだところで、僕は2人に寮の中を案内された。
通された自室の中は、想像していたよりかは広かった。
だがそんなことよりも、掃除はされているはずなのに、消えない使い込み具合が気になる。
古い神社の中みたいな独特な木造の匂いが鼻についた。
「半年間空いてた部屋だから、やっぱり、ほこりはたまっちゃってるわね。最初はこの古さに戸惑うかもしれないけど、まあそのうち慣れるよ。平気、平気」
沙苗さんが励ましなのかよく分からないことを言った。
ギャンブル狂いの良太さんはともかく、沙苗さんもだいぶアバウトな感じで生きているらしい。
「じゃあ、ちょっとお茶でも飲みに行きましょうか。ほら2人とも行くわよ」
僕はもう少し部屋をちゃんと見たかった。
だが沙苗さんに誘われた手前、中々そうもいかない。
すっかり沙苗さんのペースに巻き込まれている。
沙苗さんの指示通り、僕たち3人は共同スペースに向かうこととなる。
これがかすみ荘の距離感なのか、沙苗さんからはあっという間に仲間認定されたようだ。
最初沙苗さんと言い争っていた良太さんも、沙苗さんの少し強引な提案に何も言わなかった。