第6話 日高誠と白い子猫
もうあれから十日が経つのか……。
目覚ましのアラームを止めてから、そんな事をふと考えた。
俺はベッドから立ち上がり、八畳の殺風景な部屋を眺める。
朝日に照らされたガラス戸を開け、一息吐いた。
「あれから……って何だ?」
俺は高校を入学してから退屈で平穏な日常を過ごして来た。
思い当たる事は何も無い。
いや待てよ? 何かあったような……。
ダメだ。何も思い出せない。それは何故だ?
当然の話だ。
今の俺は魔法に関する記憶を完全に消されているのだ。
猫の様な瞳を持つ魔法使いの少女によって。
だから覚えているはずが無い。
だったら……だったら。
せめてパンツの色くらいは覚えていたかったよ!
「……水色だ!」
あ、思い出した。
完全に思い出した。
アイツの名前は水鞠コトリだ。
俺は謎のミッションを遂行していた。
魔法で引き寄せた物を持ち主に返す……そうだよな?
確か最後は志本のリップクリームを返して……。
その後の記憶が無い。
もしかして、そのタイミングで記憶が消える様になっていたのか?
だとしたら完全に魔法使いの掌の上だったって事だ。
「やられた……!」
でも何で今になって魔法が解けた? 訳が分からないぞ?
考えを巡らせてみたものの、頭にはハテナマークが生えるばかりだ。
……ま、いいか。
何かの間違いなら、近い内に水鞠コトリが現れるだろう。
それは俺にとって望む展開だ。
「よっしゃあ!」
ハイテンションで制服に着替えた後、部屋を出る。
魔法使いとお近付きになるにはどうしたらいい?
やはり漫画や映画みたいに弟子入り志願か?
それとも雑用係から始めればいいのか?
踊る様な足取りで階段を降り、広いリビングを通る。
真新しい五十五型テレビに流れているのは朝のニュース番組だ。
それを横目で見ながら、家族が待つ食卓の椅子に腰を下ろした。
「あれ……?」
……朝飯が無い。
今日は自分で用意する日だっけ?
まあまあ落ち着け。まずは確認だ。
俺の向かいの席には父さんが居る。
使い込まれた眼鏡を掛け、だらしなくシャツを着ている。
いつもと変わらない出勤前のスタイルだ。
そして硬めに焼いたハムエッグと白米を食べている。
隣の席に座るのはショートカットがよく似合う中学一年生の妹。
手前には美味そうなプリンと、妹のマイスプーンが置かれている。
「ちょ、それ昨日の夜にわざわざコンビニで買って来たプリンだろ。
それ俺のだし! 酷くね?」
「…………」
無視か。
……何か様子がおかしいぞ?
料理好きの母親が作った料理を美味そうに食べる。
それが親孝行だと思っていたのだが、俺の勘違いだったのかな?
俺は立ち上がり、キッチンへと向かう。
「母さん、俺のメシだけ無いんだけど」
返事が無い。
謎の海老柄エプロン着た小柄でやや丸めな身体を揺らしている。
いつもなら陽気な声が返って来るものだが。
もう一度試してみるか。
「母さん、俺のメシは?」
「…………」
完全に無視だ。
鼻歌混じりに洗い物を続けている。
俺の誕生日は三ヶ月近く先だ。
これから全員がダンスをしながら超豪華な朝食が出てくる……。
なんてサプライズは期待出来ないだろう。
テーブルへ戻り、改めて妹に話しかけてみる。
「美希。俺のプリンを勝手に食おうとするなよ。
昨日アイスを買ってやっただろ?」
「…………」
反応無し。
ならば父さんだ。
「父さん。貸してくれゲームが死ぬ程難しいんだけど。
本当にクリア出来るのかよ。鉄アレイが鬼畜過ぎない?」
「…………」
……やはり反応は無しか。
何でこうなったのかを考えるまでも無い。
俺は何かに巻き込まれている。
間違い無く魔法が関係する案件だ。
俺の存在が周りの人間から認識されていないって事でいいのか?
どうしてこうなった。
家族以外の奴と連絡はつくのか?
スマホを手に取り画面を開くが、アプリが全く起動しない。
「ダメだ……」
このピンチをどうやって水鞠コトリに知らせればいいんだよ。
考えても分かるはずがない。正解なんて見付からない。
「とりあえず学校だ……。学校へ行こう」
リビングから自分の部屋に移動。
用意していた自分の鞄を手に取る。
学校に行けば吉田が居る。
頼れるのはもう、アイツしかいない。
何か変化が起きれば道は開けるはずだ。
「行ってきます!」
既に意味を持たない挨拶だと分かっていた。
それでも言わずにいられなかった。
* * *
電車で二駅移動して東谷駅を降りる。
変わり映えしない登校風景の中を駆け足で進む。
駅や電車内、ここまでの移動時も周りから認識されていない。
まさか、このままずっと透明人間で生きる事になるのか?
最悪な結末を覚悟しつつ、東谷高校に到着した。
不気味な程に静まり返った校門の前で、膝に手を当てて息を整える。
「なるほどな。そう……来たか……」
俺以外は誰一人居ない。
ここに来ていきなり人間の存在がゼロになるとは予想外の展開だ。
吉田が俺に気付くかどうか以前の問題だった。
「本当に最悪じゃねーか」
引き返しても無駄かも知れない。
だが吉田に出会う奇跡を信じ、俺は校舎を背に駅へ向って走り出す。
既に体力は限界だ。足はパンパンで力が入らない。
こんな事が続くなら普段から鍛えておけば良かったよ!
「何だ!?」
突然目の前に何かが飛び込んで来た。
フラつく足を強引に止め、崩れた体勢をどうにか立て直す。
「猫……?」
その三十センチ程の物体は猫の様に見える。
だがよく見ると少し様子が変だ。
本物の猫じゃ無い。作り物……か。
現実の物とも思えない存在感。ならばコイツの正体は……。
「水鞠コトリなのか!?」
すると突然、白い子猫が軽やかな足取りで向かって来た。
俺の足元を通り過ぎ、学校の方向へと向かって行く。
そのまま校門から高校の敷地内に侵入。
立ち止まると、前足で「こっちへ来い」とジェスチャーを始めた。
「良かった……! 助けに来てくれたんだな!」
白猫は何も答えない。
その代わりに、校舎へ向かって走り出す。
「ちょ、待ってくれ!」
必死になってその後を追う俺。
何だか急にファンタジーっぽくなって来たな。
これが童話なら異世界へ繋がる穴へ案内される所だ。
構内へ入る。
別棟二階へ続く連絡通路を渡り、奥へと進む。
辿り着いたのは異世界じゃ無かった。
別棟の角にある、あまり馴染みの無い教室だ。
その閉じられた扉の前で、白い子猫が俺を待ち構えていた。
「科学室……」
この中に入れって言うのか?
俺がそんな表情で扉を指差すと、白猫はコクリと頷く。
「マジかよ……。ヤバいものとか出て来ないだろうな」
恐る恐る扉に手を掛け、ゆっくりと扉を開いた。
……パチン。
「痛っ!?」
身体に強烈な痛みと痺れが襲う。
次の瞬間。
扉から稲妻の様な光が大量発生し、俺の全身を覆い尽くした。
「イテテテテ!? 何だこれ!?」
このままじゃヤバい……!
意識が飛ぶ! 手を離さないと……って、離れねぇ!!
何でだ!? 魔法の力ってヤツか!?
手元を見ると、白猫が俺の腕にぶら下がった状態だ。
扉と手をしっかりと繋いで離れない様に固定している。
「イタタタ!? ちょ!? 離してくれ! 痛いって!」
小さな猫の姿のくせに凄まじい腕力だ。
謎の電撃よりも掴まれた箇所の方が痛え! 何かの罠なのかよこれは。
何が起きているんだよ!
「うおっ!?」
派手な爆発音を立てながら開かれる科学室の扉。
俺の身体はフワリと持ち上がり、稲光する入り口に吸い込まれる。
そして教室の中へと雑に放り投げられてしまった。
「おおお!?」
無様に倒れ込み、床をゴロゴロと転がり続ける俺。
回転が停止した後、全身の痛みに耐えながら蹲った。
「イテテテテ……」
フラフラとしながらも立ち上がる。
「戻って来たね」
鼻にかかる特徴的な声。
目の前に立つ少女を俺は知っている。
猫の様な不思議な瞳。
短く揃えられた前髪に、針金の様にまっすぐな長い髪。
こんな再会になるとは思わなかったぞ。
「水鞠コトリ……!」