6.森の外(3)
人で埋め尽くされる祭りの会場は、隣り合う人と人一人分の距離もないほどの盛況振りだった。風を防ぐための横幕のついた大型天幕や、天井だけに雨避けのある小ぶりな天幕がひしめき合っている。
祭りが最高潮に盛り上げっている中、突如大きな音を立てて数軒の天幕が倒壊した。悲鳴を上げて逃げまどう人の声。天幕の下敷きになった人が助けを求める声。露天の店主の怒号も辺りに響き渡る。何が起きたから判らない混乱の中、反対側の天幕も何かがぶつかった音を立てた後に倒壊した。
混乱の中多くの人々が広場から逃げてくる。ヘインズの後に続いていたアガトが、人波に流されてヘインズの視界から消えた。人の濁流の中では見失った小さな子供など捜しようもない。ヘインズは舌打ちするが、黒服の男に腕を支えられながら広場から早々に離れることにした。
ヘインズとはぐれたことに気づいたアガトは虚脱感に襲われ、両手で頭を抱えて壁際に倒れ込んだ。情けないほどに手が震えている。忘れたいと思うのに恐怖がそれを許してくれない。
冷たい地下牢。滴り落ちる雨水。満たされることのない空腹。忘れられない記憶が昨日のことのように蘇る。
左足を引きずったヘインズと呼ばれる男は、定期的にアガトの元へとやって来てアガトに鞭を打った。鞭は高速で振り上げられると耳を塞ぎたくなるくらい大きな音を立てる。ヘインズはアガトの恐怖心を煽るために、いつもわざと大きな音を立てていたぶった。
日の光さえ届かない真っ暗な闇の中で、死んでしまいたいと何度も願ったが、願いが叶うことはなかった。忘れることのできない忌まわしい記憶。
気温が下がるにはまだ早い夕暮れ時なのに、全身に鳥肌が立っている。背中や腹のとっくに塞がったはずの傷が開いてしまったかのように痛みが全身に走る。頭も見えない万力で締め付けられているかのように、ずきずきと痛みを訴えていた。
立ち上がることさえできずに座り込んでいると、さっきまで繋いでいたユリアーナの手の温もりにすがりつきたくなった。優しく頭を撫でてもらう時だけ恐怖から解放され、許されているような気持ちになれるのだ。
アガトは今でも真っ暗な闇は苦手だ。森の家の真っ暗な部屋で目を覚ました時、ユリアーナがアガトを覗き込んでいる時がある。そんな時はユリアーナの顔を見たとたん、全身の力が抜けて泣きたくなるくらいに安心する。
「ユリアーナ達を捜さないと」
ヘインズから逃れられるとは思えないが、ユリアーナを捜さなければこのまま立ち上がることができなくなると思った。
どうせ見つかって連れ戻されると分かっていても、もう一目だけ会いたかった。
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「ヘインズ様、あちらに馬車の用意ができております」
男に付き従う黒服の従者が恭しく頭を下げて馬車の扉を開く。ヘインズはゆっくりと階段を上り、座席に腰を下ろす。
「今まで居場所を掴むことができなかったのは、あの森の目眩ましのせいか?」
「目隠しの森は教会魔法士でも道を惑わされると申しておりました」
「森の近くで拾われたと言っていたな。すぐに人を遣れ。どうせあの紋がある限り逃げることはできないのだ」
「森の件は王宮へ報告なさいますか?」
「疑わしいのはあの森だけではない。こちらの全てを曝け出す必要はない。但し、聖下にはありのままをお伝えしろ。我らには次なる魔女が必要なのだ」
家紋のない馬車は車輪の音を鳴り響かせながら、賑わう祭りの会場から遠ざかってゆく。
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混乱から守ろうとアルファーに抱き抱えられたユリアーナの目には、天幕に体当たりしながら俊敏に動き回る小型の獣の姿が見えていた。
ユリアーナはアルファーに下ろすように言うと、止めるのも聞かずに走り出す。人々の混乱の中を走り回る獣の前に回り込むと、ユリアーナが一匹の猫を抱き上げる。
「いたずら猫ちゃん捕まえた!」
腕の中で体をよじりながら逃れようとする灰色の猫を、逃がさないように強く抱きしめる。
「君は目がいいんだね」
ふとユリアーナの頭上から声が聞こえたのでそちらを向くと、本の天幕で絵本を購入していた青年が立っていた。飾り気のないシャツとベストを着ているが、磨かれた靴や仕立ての良さそうな服が明らかに平民ではないことを物語っている。しかし外の世界を知らないユリアーナには到底分かるはずもなかった。
「目?」
「そう、その猫が視えたんだろう?」
「見えた」
「僕でも朧気にしか視えなかった。いい目をしている」
青年は垂れ目気味な茶色の目でユリアーナを値踏みするようにじっと見つめている。不意にユリアーナの腕から猫を取り上げて、急いで別の青年が運んできた木の箱の中に放り込んだ。
「いい子にはご褒美をあげよう。何がいい?銀貨でも金貨でも好きなものを言うといい」
なぜこの青年が褒美をくれるのかと疑問に思いながらも、ユリアーナの頭に浮かんだのはさっきの絵本だった。
「絵本!さっき買ってたあの絵本が欲しい」
「絵本?」
「さっき買ってたでしょう?あの本わたしも欲しいの。何かくれるんならあれがいい!」
「それだけでいいのかい?」
呆気にとられた青年がユリアーナを見ると期待に満ちた眼差しをして、嬉しそうに何度も頷いている。何を求められるかと身構えていたが、予想もしなかった答えに青年は脱力する。
「あの絵本からわたしの名前が付けられたの。わたしの名前の本が欲しいの」
「どうぞ」
笑いを噛み殺しながら青年がユリアーナに絵本を渡す。受け取ったユリアーナは満面の笑みでお礼を言うと、手を振りながら青年に別れを告げた。
「ルーカス殿下。王女への贈り物だったんじゃないですか?」
「王女には髪飾りも買ってあるから大丈夫だよ」
猫の収った木箱を持った、側近のデールが話しかける。
今年二十歳になるルーカスはこの国の第三王子だ。ある王命のために別の街へと赴き、収穫祭のことを聞いてこの街に立ち寄ったのだ。祭りへ来たのは予定外のことだったが、いいものを見つけたと目を輝かせる。
「あの子、王宮魔法士にできないかな」
「まだ子供ですよ?」
「魔力持ちは貴重なんだ。うかうかしているといつも教会に取られてしまう」
この国では魔力を持った人間は稀少である。魔力持ちはある程度の年齢になると、その特異性を活かして魔法士となることが多い。
魔法士には大きく分けて二種類あり、一つは王宮に属する王宮魔法士。もう一つは教会に属する教会魔法士だ。
教会は人々の生活に根付いていることもあり、魔力が発現すると各地区の教会へ報告されることが多く、結果として教会へ属する魔法士が多かった。王宮魔法士には親から魔力を継いで生まれやすい貴族の子が多く属している。
「なんとも無邪気な少女だったね」
「王女よりも年上に見えますが、随分と幼く感じますね」
「……何か変な感じがしたんだよね」
あの見事な赤髪のせいだろうかと、ルーカスは首をかしげて思い巡らす。
「変なと申されますと?」
「父上の魔力によく似ている気がしたんだ」




