第五段 不幸に愁にしづめる人の
(原文)
不幸に愁にしづめる人の、頭おろしなど、ふつつかに思ひとりたるにはあらで、有るかなきかに門さしこめて、待つこともなく明し暮したる、さるかたにあらまほし。
顕基中納言の言ひけん、配所の月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。
(舞夢訳)
不幸な状態となり、悲しみに沈んでいる人ではあるけれど、剃髪などを軽々しく決めるほどではなく、いるのかいないのか、わからないほどに、ひっそりと門を閉ざし、何の期待も抱くことがなく日々を送るような生活、そんな感じでいたいと思うことがある。
顕基中納言が語ったという「配所の月を罪が無い身で見たい」と言うようなこと、まさに、その通りと思う。
※顕基中納言:権中納言源顕基(1000~1047)。後一条天皇の側近として将来を期待されたけれど、天皇の死を受けて、37歳で遁世。大原、横川などで修行生活を送った。
「罪なくして、罪をかうぶりて、配所の月を見ばや」と、琵琶をひきつつ歌ったとされる。
※配所の月:流刑地で見る名月。
白楽天の左遷、菅原道真などの左遷も、高貴な魂を持った人物が、権力闘争に敗れる、あるいは冤罪に巻き込まれるというイメージがあり、当時の人々や後世の人々から、特段の関心を持って、とらえられたという経緯がある。
確かに、順風だけの人生では、味わえない生活である。
自閉的生活と言ってしまえば、それだけになる。
ただ、そういった寂しい生活であればこそ、月の光を愛でる、月の光に慰められるという実感が強くなるのではないだろうか。
暗い場所からは、明るい場所がよく見えるというように。
太陽が光り輝いていれば、月の光などは、見えることもない。
人は窮地に陥った時に、はじめて人生に、自分自身に向き合う。
そして、挫折は、人を、順境以上に成長させる。