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第四十九段 老来りて、始めて道を行ぜん

(原文)

老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。

古き墳、多くはこれ少年の人なり。

はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬるかたのあやまれる事は知らるなれ。

あやまりといふは、他の事にあらず、速かにすべき事をゆるくし、ゆるくすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。

その時悔ゆとも、かひあらんや。

人はただ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、つかのまも忘るまじきなり。

さらば、などかこの世の濁りも薄く、仏道をつとむる心もまめやかならざらん。

「昔ありける聖は、人来りて自他の要事をいふ時、答へて言はく、今火急の事ありて、既に朝夕にせまれりとて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因に侍り。

心戒といひける聖は、あまりにこの世のかりそめなる事を思ひて、しづかにいゐけることだになく、常はうずくまりてのみぞありける。



※禅林の十因:禅林寺(京都市左京区)中興の祖として知られる永観(1033~1111)。「往生要因」は念仏の行に往生の要因が十種あると説く日本浄土経の聖典の一つ。また禅林寺永観堂は、京都の紅葉の名所。

※心戒:生没年未詳。平宗盛の養子、屋島から一門を離れて高野山に入った。その後、各地で修行した。



年老いてから、はじめて仏道の修行をしようなどと、後回しにするべきではない。

古い墓の多くは、年若くして亡くなった人のものである。

予期せぬ時に重い病気を患い、あっと言う間にこの世から去る時になって、はじめて自分の過去が誤っていたこと理解すると言われている。

その誤りというのは、他の事ではない。

まず行うべきことを後回しにして、後に行うべきことを先に行ったりしているので、一生を誤って過ごして来てしまったことを後悔してしまうのである。

実際、その時に後悔しても、何の意味も無い。

人間は、ただ「いつ何時何が起こるか、その身に迫っているのかわからない」ということを、常に心がけて束の間も、それを忘れてはならない。

そう思って生きていけば、この世への執着も薄れ、仏道に取り組む心も、しっかりとしたものになるはずである。

「昔の聖者は、来客があった際に、お互いの要件を語りかけると『今は、急を要することがあって、目の前に迫っている』と言って、耳をふさいで念仏をして、ついに往生を遂げた」と、永観の「往生要因」に書かれている。

また、心戒という聖は、とにかくこの世の無常を思い続けて、ゆっくりと膝を降ろすこともなく、常にうずくまっていたと言う。



この世への執着を捨てよなどと教える仏道の修行など、年取ってからとか、後回しで十分。

そんな気持ちを持つ多くの人に対する兼好氏の諭しである。

とにかく、いつ何時、どうなるかわからない、命だって突然落とすこともあるから、仏道修行は早くから取り組んだほうがいいということ。


ただ、御仏としては、聖とか求道者、高僧と執着にまみれた人々を差別することはない。

阿弥陀如来は、その名を唱える全ての人を、漏らさず把握し、救い取るのだから。

それも、「修行をせよ」とは言っていない。

「ただ、阿弥陀の名前を唱えて欲しい、そうすれば、必ず救いましょう」と、誓いの言葉を述べているだけ。

仏道修行に取り組んだから往生するわけではなく、阿弥陀如来を唱えることにより、阿弥陀如来の意思として、浄土に救い取られるのである。


兼好氏がどこまで考えてこの段を書いたのか、あの世に行ったら、聞いてみたいことの一つである。

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