第三十段 人のなきあとばかり悲しきは(2)
(原文)
年月へてもつゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなしごと言ひてうちも笑ひぬ。
からは、気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく卒塔婆も苔むし、木葉ふり埋みて、夕の嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
(舞夢訳)
その後、年月が経過しても、故人のことを全く忘れることはないけれど、
「故人は日々に、その面影を薄めていく」
という言葉の通りになっていく。
全く忘れてしまうとまではいかないけれど、亡くなった当時ほどの悲しさも薄れているので、故人についての冗談を言って笑うこともある。
亡骸については、人里離れた山の中におさめたので、特別の忌日にだけ詣でて見ると、早くも卒塔婆は苔むし、木の葉で埋まっている。
その故人を慰めるのは、夕方の嵐と、夜の月だけである。
その人が亡くなって、49日の法要までは、人々の想いもあるけれど、次第に故人の面影は薄れ、亡骸を埋めた卒塔婆は苔むし、落葉に埋もれてしまう。
生き残った人間には、日々の生活があるし、いつまでもこの世にいない人への感傷に浸ってはいられない、感傷に浸るのも限度がある。
これについては善悪も何もない。
全て、生き物として生まれてきた以上は、いつかは死ぬ。
他人の死はショックであっても、あくまでも「他人の死」なのであって、いつまでもショックなどは続かない。
人の身体も心も、やはり無常、ずっと同じことはない。
少しずつ変わる、あるいは急変もある。
苔むし、落葉に埋もれた卒塔婆を見た兼好氏の心には、「無常」という言葉が、浮かんでいたと思う。




