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第十七段 山寺にかきこもりて

(原文)

山寺にかきこもりて、仏に仕うもつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まるここちすれ。


(舞夢訳)

山寺にこもって、御仏にお仕えしている時は、所在なさを感じることもなく、心の中の濁っていた部分が、浄められていくような感覚をおぼえる。


兼好氏がこもった山寺は、比叡山の横川と推定されている。

確かに山寺の静寂な雰囲気の中、世間の雑事などは忘れ、仏事だけに専念すれば、心の憂さや煩悩などは、消え去ってしまうのかもしれない。

ただ、兼好氏の場合は、普段の生活から離れて、一種の気分転換で山寺に参籠している。

それを迎える寺の僧侶は、参籠してくる人が違うくらいの気分転換はあるけれど、いつもの仕事をこなしていることになる、つまり普段の生活である。


旅もまた同じ、異世界に行くから、気分転換もあり、風景や見知らぬ人との交流に感動すれば、その喜びも一際大きいし、心の憂さも浄められるだろう。

旅人を迎える現地の人の生活は、普段と同じなのだけど。


維摩居士いわく、

「普通の生活の中で、仏になることが大切、尊い」

「天国や浄土は自分の心の中にある、また地獄も同じ心の中にある」

「世間から逃げて、清らかになるなど、滑稽極まりない」


本当は、山寺にこもらなくても、心の憂さははらせるはずなのだけど、なかなか難しい。

山寺にこもるようなことは、形式的なものかもしれないけれど、一定の効果があるのだろうか。

現代の世では、あまり、そういうことをする人を見かけないけれど、やはり時代で変わっていくのだろうか。

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