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第七十段 元応の清暑堂の御遊に

(原文)

元応の清暑堂の御遊に、玄上は失せにしころ、菊亭大臣、牧馬を弾じ給ひけるに、座に着きて、先づ柱をさぐられたりければ、ひとつ落ちにけり。

御懐にそくひを持ち給ひたるにて、付けられにければ、神供の参るほどによく干て、ことゆゑなかりけり。

物見ける衣被の、寄りて放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ。


(舞夢訳)

元応元年の大嘗会に、清暑堂で行われた御遊の時のこと。

その当時、玄上は行方がわからなくなっていたので、菊亭の大臣が牧馬を弾じなされようとして着座、まず柱の調子を見ておられると、その一つが落ちてしまった。

しかし、大臣は懐に準備してあった飯糊で柱を取り付けられたのである。

そして、神への供物が上がるまでに、十分によく乾き、演奏には何の問題がなかった。

さて、どのようなトラブルがあったのだろうか、実は見物をしていた衣かずきの女が、牧馬に近寄って柱をはずし、もとのように置いておいたのだという。


※元応年間(1319-21)。後醍醐天皇の時代の年号。兼好氏は37歳から39歳。

※清暑堂の御遊:大内裏の豊楽院の九堂の一。ここで後醍醐天皇即位の際、大嘗会に続き催馬楽が催された。

※玄上:「玄象」とも。宮中の琵琶の名器。仁明天皇の時代、藤原貞敏が唐から持ち帰ったとされる。正和5年(1316年)盗まれ、三年後の元応元年五月に発見される。この話は玄上が盗まれて宮中になかった時期のこと。尚、建武三年(1336)内裏炎上の際に、消滅したらしい。

※菊亭大臣:太政大臣藤原兼李。琵琶の名手。菊花を好み菊亭大臣とされた。

※牧馬:玄上とともに宮中に伝わっていた琵琶の名器。これも藤原貞敏が唐から持ち帰ったという。撥面に小馬が二三頭描かれていたため「牧馬」と呼ばれる。

※柱:琵琶の堂の上に立て、弦を支える具。

※そくひ:飯糊。飯粒をつぶして練った糊。

※衣被:衣被を着た女性。「衣被」は女性が外出する時に頭からすっぽり覆う単衣の白の小袖。


後醍醐天皇の治世の始まりを祝うべき大嘗会で、正体不明の衣被の女が、名器牧馬の柱を外す。

後醍醐天皇に恨みがあるのか、あるいは演奏者の菊亭大臣に恨みがあるのか。

いずれにせよ、大嘗会でのお遊びに、失態を出現させようとする悪意を持った行為である。

その行為を予見していたのか、菊亭大臣は慌てず騒がず、懐に飯糊を準備済み、すぐに措置し、事なきを得る。

ただ、この日の事実として同じ御遊で、拍子の任を命じられていた綾小路有時が待賢門院前で下馬したところを狙われ、暗殺されている。


そうなると、菊亭大臣は、薄々不穏な動きを感知していたのではないだろうか。

それで、万が一の準備を怠らなかった。


建武の新政の後醍醐天皇の周囲には、危険な輩がうごめいていた。

そんな不穏な時代に、兼好氏が生きていた、それがよくわかる段である。

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