絶対にバレないドーピング
それは、オリンピックを半年後に控え、米国ニューメキシコ州サンタフェの市街地から少し離れた、標高約二千五百メートルでの高地トレーニングを積んでいた時だった。
日本の女子マラソン代表選手だった柴田由美子のコーチは、彼女に向かって言った。
「ユミコ、色々と考えてみたんだけど、やっぱり、あれをやろう…」
「あれって?」
「ドーピングだよ…」
「ドーピングなんて、そんな違反行為は、レース後の検査で直ぐにバレてしまって…」
「だから、この前も言った血液ドーピングだよ。自分の血液をレース前に入れる訳だからバレる訳がない」
ユミコは、コーチの話を思い出していた。
血液ドーピングとは、選手自身の血液をレース前に何回かに分けて少しずつ採取保存し、それをレース直前に輸血するといったものだった。
輸血により一時的に体内の血液量が増え、酸素を運ぶ赤血球の数も急上昇する訳だから、酸素消費量の多いマラソンにおいては、持久力のアップ、すなわちレベルアップが期待できるのである。
その一方で、自分の血液を輸血するため薬物を投与する場合と異なり、レース後に尿検査されようが、血液検査されようが、何も薬物など検出されないし痕跡も残らない。もし、唯一残るとすれば注射痕だけだが、それだって疑わしいだけであって確証にはならないのである。
「本当にバレないのですか?」
「バレない。絶対にバレっこない!」
「注射痕は?」
「手の甲の静脈から注射するから、手袋をして走れば分からない。手袋をして走るランナーは決して少なくない。特に気温が低い時は…」
「それで、どの位タイムがアップするのですか?」
「分からない、やってみないことには…。IOCのドーピング禁止リストには血液ドーピング入っている。だから、やった例はあるかもしれないが、その結果は明らかになっていない」
「じゃ、もしバレたら、メダルを取ったとしても剥奪されて、選手生命も終りですね…」
「だから、バレる訳が無いって…」
ユミコは、日本の女子マラソン界に忽然と現れたきらめく新星であった。三年程前から頭角を現した彼女は、タイムをどんどん縮め、いくつかの国際大会で優勝するなどし、昨年は世界歴代第五位の記録も出していた。
その記録は、今度のオリンピック出場者の中で二番目の好タイムでもあった。
それ故、十分にメダル圏内であることは確かなのであるが、金メダルとなると、それは簡単には手が届きそうにはなかったのである。
その理由は、ロシアのラチェンコフ選手の存在であった。
ラチェンコフは、他の選手からはずば抜けて強かった。ユミコの記録からは二分以上も短いタイムの世界歴代第一位の記録を持っていた。
記録もそうであるが、レースの駆け引きにも優れ、最近彼女が出場した大会では必ず優勝していたのである。
従って、今度のオリンピックの金メダルはラチェンコフで決まり、あとのメダルを誰が取るかが焦点だったと言っても過言ではなかったのである。
もちろん、ユミコ自身も金メダルは最初からほとんど諦めて、銀メダルを狙ってコーチと毎日トレーニングに励んでいたと言ってもよかったのである。
おもむろに、コーチが言った。
「ユミコ、金メダルも夢ではないかもしれない…」
「えっ、ラチェンコフさんにはとても勝てないわ…」
「血液ドーピングをすれば、勝てるかもしれない」
「ほんと?」
「正直なところは、その効果の程は分からないが、金メダルと銀メダルでは大違いだ。ギャンブルに賭けてみないか。その次の四年後では遅すぎる。一つだけ言えるのは、血液ドーピングには悪影響が予想されないことだ。薬物と違って自分の血液を輸血する訳だから人体への害はまず有り得ない。だから、タイムが向上することはあっても低下することは考えられない」
「本当にだいじょうぶ?」
「だいじょうぶだ、害はない」
「そうじゃなくって、バレないかってことよ。金メダルが取れるんだったらもう走れなくなってもいいわ。体を壊したって…」
「もちろんバレない。オレを信じろ…」
「分かったわ、やるわ!」
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数日後、ユミコはコーチに連れられてサンタフェの街に行き、小さなクリニックに案内された。
全ての話はコーチが事前にしてあるのだろう。そこに現れた医師らしい男は、無言でユミコの腕を取るとゴムチューブを巻き、浮き出た血管に簡単にアルコール綿で消毒を済ませると、太い針を刺した。
ビニールチューブを通って自分の血液が流れ、ポリエチレン製のバッグに徐々に溜まっていくのがユミコには見えた。
結局、三か月の間に二百ミリリットルずつ五回に分けて、合計で千ミリリットルの採血が行われたのであった。
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オリンピックが始まった。
ユミコは、半年に及ぶ高地トレーニングにより赤血球も増え、持久力も十分に獲得したはずである。
この上に、以前に採取して冷蔵保存してある血液をレース直前に輸血すれば、さらに持久力がアップし、記録が大幅に向上するはずであった。
輸血のタイミングは、レース当日の朝と決められた。
その日の朝、ユミコは自分の赤い血液が右手甲の静脈から流れ込むのを見詰めていた。
ユミコは注射痕を隠すため、そこに絆創膏を貼り、さらに手袋をしてトラックに立っていた。
もし、レース中に気温が上昇するようなことがあれば手袋を取る必要があるかもしれなかったが、その時は、絆創膏がそれを覆い隠してくれるのだった。
スタートラインに並んだ時、直ぐ隣はラチェンコフだった。
彼女とは二度同じレースを戦ったことがあったが、いつも抜群に強かった。ユミコは、二回のレースとも彼女の後半のハイペースに全く付いて行けなかったことだけは忘れられなかったのである。
スタートの合図とともに各選手が飛び出して行った。
競技場のトラックを抜けて一般道に入った時には、もうラチェンコフを先頭とした三十人程度のトップ集団を形成していた。もちろん、その集団の中でユミコはラチェンコフの直ぐ後ろにぴったりと付いていた。
ユミコは思った。
「軽いわ! なんだかとっても体が軽いわ。血液ドーピングのお陰かしら? これなら行けそうだわ!」
既にユミコはペースアップを考えていた。この調子なら早いうちに揺さぶりをかけてみようと思った。これは、コーチの指示でもあった。
五キロメートル地点を過ぎた時、ユミコはスピードを上げた。無理なくどんどんスピードが上がって行く。
三十人程度の先頭集団だったものが、あっという間にばらけて、縦に長くつながった。
ユミコはスピードを緩めなかった。
血液ドーピングの効果は凄いと思った。苦しさなんか全く感じなかったのである。
これ以上ハイペースを続けることが後半に向けてやや不安を感じ、ユミコがペースを落とした時には、既に第一集団はレース前の予想どおり、ユミコとラチェンコフ、そしてセネガルのベイの三人だけだった。
残りのランナーは、その三人から二百メートル以上も引き離されていたのである。
ユミコは、まだコースの半分も過ぎていないことから暫く自重し、このまま走ろう考えた。
二十キロ地点を過ぎてからだった。今度はラチェンコフが突然ペースを上げた。
とうとう彼女が本領を発揮し、その牙を剥いたのである。
ユミコは、ぴったりと後ろに回り追走した。
相当のハイペースである。普段のユミコだったら到底付いていけなかったのかもしれない。ユミコ自身やはり血液ドーピングの効果が出ていると思っていた。
ベイは、この二回目のハイペースにはもう付いてこれなかった。徐々に遅れ、ラチェンコフがややスピードを落とした時には、トップ集団は二人だけになってしまっていた。
ユミコは、呟いた。
「とうとう、二人だけね。これで私とあなたの一騎打ちよ、ラチェンコフさん…」
ユミコには、なぜかこのレースだけは彼女と対等に戦えるような気がした。血液ドーピングの効果は、精神的にも良い方向に向かわせていたのかもしれない。
二十五キロ地点を過ぎると、ラチェンコフは再びスパートをかけてきた。
「ここで離されたらもう二度と追い付けないわ、絶対に離されないわよ…」
ユミコはそう思い、必死に付いて行った。
信じられないスピードであったが、当然そんなハイスピードが長時間続く訳がなく、二キロ程でラチェンコフのスピードは落ちてきた。
しかし、短時間とは言えそのハイスピードは、ユミコにはボディーブローのようにずっしりと堪えたのであった。
その後、落ち着いて走っていたが、三十キロを超えた時、三度目の猛スパートをラチェンコフはかけてきた。
「なに、なんなの、またスパートするの? やめてよ! まだ十キロ以上残っているのよ…、こんなハイスピードどうなっているの?」
ユミコは絶対に離されまいと、再び必死に後を追った。
「こんなスピード、ラチェンコフさんだって長続きする訳ないわ。絶対に落ちてくるから…。とにかく今は離されちゃダメ…」
そう思いながら、ユミコが限界を感じ始めていた時に、ラチェンコフのピッチはやっと低下し始めた。
ラチェンコフの凄い揺さぶりである。目まぐるしくスピードを上げたり、落としたり、揺さぶってくる。この様なレースは本当にきつくて辛い。
スピードが落ちたところで、ラチェンコフに並走しながらユミコは考えていた。
「とてもじゃないわ…。きっと血液ドーピングが効いているから何とか対応できているけど、普通じゃとても付いて行くことなんかできないわ…。でも、なんで? なんで五キロごとに、こんなにペースアップするの? 二十キロを過ぎてから五キロごとに…、そうすると、次は三十五キロでまたアップするの? もう、彼女の次のスパートには付いて行けないかもしれないわ…」
二人は三十五キロを過ぎた。
ユミコの予想どおりだった。その前までと同じく、ラチェンコフは給水ポイントで取ったドリンク容器をコース脇に投げ捨てると、四回目のスパートをかけた。
「ああ…、やっぱり、三十五キロを過ぎたらまた来たわ…、同じようにスパートよ、もう本当にダメよ…」
同じように、二キロほどでラチェンコフのスパートが収まった時、ユミコはどうにか彼女に付いていた。今回のスパートでも離されなかったのである。
ユミコは最後の気力を振り絞りながら考えていた。
「ラチェンコフさん、次のスパートはきっと四十キロ地点ね。これで最後ね。それとも競技場に入ってからかしら…。きっと最後はもっとハイスピードなんでしょうね。本当に付いていけないわ。もう私はダメよ。悔しいけどあなたの勝ちよ…。でも、なぜ五キロごとに計ったように規則正しくスパートするの? 作戦? コーチの指示? いつも、ドリンク容器を投げ捨てるのを合図のようにして、猛然とダッシュするのよね。最後の給水ポイントは四十キロ手前だから、また四十キロを過ぎたら…。あっ…、待って、待ってよ、あなたが猛然とスピードを上げるのは、いつも給水した直後よね。そして、二キロもダッシュするとスピードが落ちて、また給水ポイントを過ぎてしばらく経つとスピードが上がる…。そんな、まさか…、あなたは五キロごとにスパートしているんじゃなくて、給水した直後にスパートしているのよ。たまたま、給水ポイントが五キロごとにあるから、私はそう思っていたけど、キーは給水じゃないの? そうよ給水よ。何なの? いつも大きなドリンク容器を手にしているけど、何が入っているの? そのドリンクを飲むと、あなたはスピードが急にアップするのよ。何を飲んでいるの? 本当に何なの?」
ユミコは、さらに考えていた。
「ラチェンコフさん。あなたは四十キロ手前の最後の給水が終り、またドリンク容器を投げ捨てると、同じように猛烈にスピードを上げるのよね。それからは、ゴールまで二キロほどだからもう私は追いつかないわ。いったい何を飲んでいるの? 単なる栄養ドリンクなの? きっとそうじゃないわ…、そうよ、何か凄いものなのよ…。短時間で凄く効いて、二キロも走ればその効果がなくなるようなもの…。ドーピング剤? きっと普通のドーピング剤じゃないわよね。即効性があって痕跡の残らないようなもの。もし、痕跡が残ればドーピング検査に引っ掛かってしまうもの…。全く新しい薬剤なんだわ、きっと…」
四十キロ手前の給水ポイントが近付いてきた。
ユミコは猛烈に不安を感じ始めていた。ラチェンコフの最後のとどめの牙が、今まさに自分の心臓に付き刺さろうとしているように感じていた。
「ああー、どうしたらいいの、どうしたら…。あっ、そうだわ! そうよ! 私があなたのドリンクを取ってしまえばいいのよ! 私が先に取ってしまえば、あなたはもうそれを飲むことは出来ないわ…」
ユミコは、ラチェンコフが給水時に毎回手にするドリンク容器には、赤い三角の旗が付けてあることに気付いていた。
どの選手も自分のドリンクを間違わないように、それぞれ遠くからでも目立つような目印を付けていたのである。
ユミコも赤いリボンを付けていた。ただし、ユミコのドリンク容器は透明の細長いボトルであったが、ラチェンコフのそれは、色の黒いずんぐりしたものであった。
「そうだわ、間違ったことにすればいいわ。私が間違ってあなたのドリンクを手にして、そうしてしばらく走ってから間違ったことに気付いて遠くに投げ捨てれば、もうあなたは飲めないのよ。あとは本当の勝負だわ…。よし、負けないわ。絶対に先に取ってやるわ…」
ユミコは、少しピッチを上げた。
給水ポイントが見えてきた。白いテーブルに並べられた数多くのドリンク容器が光って見えた。
ユミコもラチェンコフもゼッケンが五十番台だったため、五番目のテーブルだった。
ユミコは、さらにスピードを上げるとラチェンコフの前に出た。
「あれだわ、彼女のドリンクは…、絶対に取るわ…」
背後からラチェンコフが手を伸ばすのをユミコは感じたが、それを押し退けるようにして、赤い三角の旗の付いたドリンクを素早く取った。
「やったわ!」
その時、後ろからラチェンコフが大声で怒鳴った。
ロシア語だったから、ユミコには全く理解出来なかった。でも、きっとドリンクを返せと言っていることくらいは予想が付いたが、分からない振りをして走った。
ラチェンコフが何度も怒鳴っているそれを無視しながら走っているうちに、ユミコはあることを思った。
「あんなに怒っているところをみると、やっぱり、このドリンクには何か特別なものが入っているんだわ。急にスピードの出る何かが…。もう絶対に渡さないわ…。待って…、そうだわ、私がこれを飲んだらどうなるの? 私のスピードがアップするんじゃないかしら。きっとそうだわ、彼女に効くんだったら私にだって、同じ人間じゃないの…。そうよ! 絶対に効くはずよ! 飲もう、飲んじゃえ…」
そのドリンク容器には、飲みやすいよう太くて短いストローが付いていた。
ユミコは、そのストローを口にくわえて吸った。
「あれっ…、どうしたの、何にも出てこない。どうなっているの…」
さらに、容器を上に向け逆さにして強く吸ったが、やはり何も出てこなかった。
「ダメだわ。飲み方が分からないわ。しょうがない、もう捨てるわ…、エイッ…」
ユミコは、遠くに向け投げ捨てた。そのドリンク容器は、カラコロと音を立てて歩道を越えて止まった。
その時、ラチェンコフは突如投げられたドリンク容器に向けて方向を変えて走った。そして、観衆を掻き分け歩道を越えると投げられたドリンク容器を掴み、また、コースに戻った。
「何なの、彼女は? いったいどうなっているの、ドリンクを取りに行ったわ…。そんなに大切なの、あのドリンクが…、いいわ、私は最後のスパートをするわ…」
ユミコがさらにスピードを上げ、ラチェンコフがドリンク容器を持ってコースに戻った時には、ユミコとは距離にして五十メートル近く差が開いてしまっていた。
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ユミコは、この時のことをレース後のインタビューでこう答えている。
「私は、最初ドリンクを間違って取ってしまったことには、全く気付きませんでした。もちろん、それがラチェンコフさんのものだったということも…。それを飲もうとした時に間違いに気付きましたが、本当に乾きを覚えていたので、誰のものでも良いから飲もうと努力しました。でも、飲めなかったのです。他人のドリンク容器だったので飲み方が分かりませんでした。悔しく思って、それを遠くに放り投げたのです。まさか、それがラチェンコフさんのもので、しかも、彼女がコースを外れてそれを取りに行くなんて…」
一方、ラチェンコフはこう言っている。
「彼女が私のドリンクを取った時には、本当にびっくりしました。私は大声で、私のよ! 返して! と叫びましたが、彼女には全く通じませんでした。ロシア語で叫んでも通じないのは当然ですが、それしか仕方なかったのです。彼女の腕を引っ張って取り返そうとも思いましたが、意図的に体に触れたりすると反則で失格になることが怖かったので出来ませんでした。彼女がそれを投げ捨てたのは、仕方ないと思っています。誰だって自分のドリンク以外は飲みたくありませんから。私だってそうしたと思います。コースを外れてそれを取りに行ったことですか? それは、とっても喉が乾いていたからです。その瞬間は、直ぐにコースに戻れるかどうか深く考えている余裕などありませでした。とにかく反射的にそのような行動をしてしまったのです」
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傍から見ている観衆の誰もが、四十キロを超えゴールまであと二キロ程しか残っていない状況でのこの五十メートル近い差は、ラチェンコフにとって致命傷と思った。
ラチェンコフは、取り戻したドリンクのストローをくわえると、ユミコを追走した。そうして、暫くしてそれを投げ捨てると、猛然とピッチを上げた。
ユミコは、残された最後の力を振り絞って走っていた。もう競技場の入口近くまで来ていた。しかし、ラチェンコフのスパートは驚異的なものだった。ユミコとラチェンコフとの差は次第に縮まっていた。
ユミコは、競技場入口ゲートをくぐる直前の右カーブで後ろを振り返って見た。
「えっ…、もう彼女がそこまで来ているわ。どうなっているの…」
トラックに入った時には、二人の差は既に十メートルを切っていた。
ユミコは渾身の思いで、ただ両手を振り、両足を前後に動かしていた。
いつものバランスの良いまともな走りになっていなかったのだろう。もう自分の体のような気がしなかった。体が左右に大きく揺れて、膝がガクガクし、トラック全体が大きく上下に波を打っているような感じがした。
ラチェンコフも必死の形相で追っていた。壮絶なデッドヒートだった。
第四コーナーを回り終え、最後の直線コースに入った時は、二人の差は二メートルも無かった。
「苦しい…。でも、最後よ、あのテープさえ切れば…」
ユミコは、もう血液ドーピングのことなどは、完全に忘れ去っていた。
「あと、ちょっと…、もうあと…」
本当にあとちょっとのところだった。
ゴール手前三メートルでラチェンコフはユミコに並ぶと、体半分程前に出た。そして、そのまま二人はゴールに倒れ込んだ。
ゴール手前三メートルで優勝者が入れ変わるというオリンピックのマラソン史上、類を見ない壮絶なレースだった。
トラックに倒れ込んだままのユミコには、自分が負けたことだけは、しっかりと理解できた。
「ああ…、なんで、なんでなの…、あと少し、あとほんの少しだったのに…」
これまでの世界記録を一挙に五分以上も短縮するといった快挙を残し、オリンピック女子マラソンは終了した。
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表彰式を前にして、コーチの忠告によりユミコは右手の甲にある絆創膏を目立たないように小さなものに貼り変えた。
その時、彼女はふと思った
「そうよね、血液ドーピングをしたからラチェンコフさんとあれ程のデッドヒートになったのよね。それがなければ、とてもラチェンコフさんに付いて行けなかったわ。やっぱり私は二番よ。彼女には到底かなわないわ…」
表彰式が始まった。
まず、最初にラチェンコフ選手の名が呼ばれ、彼女は軽やかに表彰台の一番高い位置に上った。
次はユミコだった。ユミコの名前が競技場にこだますと、彼女は笑顔で両手を上げて大きく左右に振り、表彰台に上った。
観衆の喚声が収まった時、ラチェンコフが握手を求めてきた。その時だった。
「あれっ…、ラチェンコフさんの右手の甲に絆創膏が…、どういうこと? まさか、彼女も…、そんな、うそよ…」
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そんな頃、ラチェンコフ選手のコーチは、マラソンコースの途中で車を止め、道路際の側溝を必死に調べていた。
「ああ、あった、あった、よかった…。本当にあと一つだけどうしても見付からなくて、一時はどうなるか心配したんだけど、これで五本全て回収できたよ。彼女には、あまり遠くに投げ捨てるなと言っておいたんだけど、しょうがないな…。もし、これを誰かが拾っても分からないとは思うけれど、テレビであれだけ映れば、これがラチェンコフのドリンク容器だと分かって、詳しく調べられたらバレちまうかもしれないよな…。しかし、本当によかったよ。今回ばかりは、いつものように血液ドーピングだけじゃ勝てなかったよな。あの日本人選手は強いよ。オリンピックの大舞台で、一か八かの新しい作戦を実行し、その成果がうまく現れたよ。でも、ラチェンコフも最後に捨てられたこれを良く取りに行ったよな。取りに行かずにあのまま走っても勝てたんじゃないのか。勝てたからいいようなものだけど…。まあ、いずれにせよ、この容器がボンベになっていて、中身が酸素だとは誰だって絶対に気付かないよな…。本当に日本人選手に間違ってこれを取られた時には、口から心臓が飛び出そうになるくらい驚いたよ。このボタンを押せば中からストローを伝って酸素が出たのに…、あの日本人選手は中身を飲もうとして焦っていたからよかったけど、逆に酸素を吸われていたなら完全にアウトだったよな…。まったく、よかった、よかった…」
ロシア語でそう呟いたコーチは、空いている助手席に向けて五本目のドリンク容器を無造作に投げ入れた。そして、勢いよくドアを閉めると選手村に向かって車を発進させた。
(おわり)
この小説を書いた後になりますが、マラソンルール上の給水ポイントの設置場所(設置間隔)について調べたところ、五キロメートルごとに設置するとのことでした。たまたま、ルールと一致していたので良かったのですが、現実には真夏のレースでもなければ五キロメートルごと毎回給水する選手なんていないでしょうし、実際にそのような選手がいれば、違和感があることは事実だと思います。
また、この作品の鍵となっている酸素吸入をすれば記録が向上するかどうかについては、小説ですからこう書きましたが、実際には良く分かりません。確かに息が苦しいといったような状況は改善され、短期的には向上しそうですが、その分、酸化代謝を急速に促進する訳ですので、何か悪い後遺症を残しそうな気もします。
当然、血液ドーピングも酸素吸入もIOCの禁止行為となっていることを付け加えておきます。
なお、血液ドーピングがバレないように、注射痕の上に絆創膏を貼りさらに手袋をする場面が出てきますが、読者の皆様には、手袋はともかく絆創膏を貼ることが、かえって怪しげに思えて、不正がバレる要因になるように思われなかったでしょうか?
その通りで、手袋を外したとしても、そんな小さな注射痕など目立たないでしょうし、この場面は当初は予定していなかったものです。この場面を後で入れたのは、ユミコにラチェンコフさんも同じ血液ドーピングをやっていたということを最後に気付かせるために仕方なく用意したものなのです。
さらに、この小説では、血液ドーピングなんて最初から無くても良いのではないか、とおっしゃる方もおられるかもしれません。オチだけを狙えば無くても小説として十分成り立ちます。
まあ、香辛料又は増量剤だと思って頂いてよろしいかも。あとは、オチが直ぐにはバレないように読者を混乱させるものだと思ってください。(忍者の煙幕やマキビシのようなものですか…。もしマキビシ踏んだならごめんなさい)
本作品は、2000年(平成12年)11月5日に作成したものです。