ボール‐改稿バージョン‐
ここは、独特の匂いが充満している。
その場所は、どこの学校でもほとんど同じ場所――校舎の隅にある、道具倉庫入れだ。その中には、石灰やフラフープ、様々な種類のボールが所狭しと、置かれていた。
道具倉庫入れに置かれている道具を使う時は、体育の授業と休み時間、そして、放課後のクラブの時間だ。
そして、今は、もう少しで放課後が訪れようとしていた。
放課後が近づくにつれて、道具倉庫入れの中が賑やかになってくる。だからといって、今、ここに人間がいて喋っているわけじゃない。人間は今、授業を受けている時間だ。人間がいないのに賑やかになる理由。それは、道具倉庫に置かれている道具達が、喋り始めるからだ。
道具にも意思はある。そして、道具達は道具同士で意思を伝えることができる。
そして、この〝声〟が人間達に聞こえる事はほとんどない。だから、道具達は安心して、自分たちの意思を交換し合う事ができる。
そして、その道具達の中でも、注意して聞いていないと聞き逃してしまいそうな〝声〟を発したのは、野球クラブで使われているボールだった。
「そろそろ……、だね……」
この言葉が聞こえたのは、この〝声〟を発した隣にいたボールだけ。
「そうだけど、クラブの時間がいやなのか?」
するとその質問を待っていましたと言わんばかりの感じで直ぐに返答が返ってきた。
「僕、野球のボールなのに速いスピードで投げられるのが苦手なんだ……」
だんだん、小さくなっていく声。どうにか聞き取れた「苦手」という言葉。自分達は、野球のボール。野球のボールじゃなくてもボールと名のつくものなら、投げられるのが仕事みたいなものだ。それをこのボールが「苦手」と言った。
「珍しいな……」
それしか言葉が出てこない。野球のボールは投げられてバットに打たれるのが宿命だ。それを「苦手」と言われた事に驚いた。だから苦手と言ったボールから「どう思ったら楽かな?」と、聞かれてもとっさに言葉が出てこなくて、黙ってしまった。そして、考えついた答えは代替え案でしかなかった。
「速く投げられるのが苦手なら、ノック専用のカゴに入る事ができればいいんじゃないか? それなら、軽く投げられるだけで済むんじゃないか?」
それを聞いた、速く投げられるのが苦手なボールは納得したように「そっか、ありがとう」と言ってくれた。
「どういたしまして。でも、今日だけは我慢だな。今いるこのカゴはノック専用じゃないから」
「……うん。我慢する……」
速いのが苦手なボールの覚悟が決まった頃に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。すると、道具倉庫入れの中の騒めきがピタリと止んだ。その代わりと言っては少しおかしいかもしれないが、子供達の嬉しそうな声が空気を伝わって感じることができた。
しばらくの間、静かだった道具倉庫入れの扉が開いた。すると、クラブで使う物を子供達や教師がどんどん運び出していく。
すると、速いのが苦手と言っていたボールが、醸し出す空気が変わった。その空気は、早くイヤな事が終わってほしい。そして、早くノック専用のカゴに入りたいという思いがひしひしと伝わってきた。
(がんばれよ)
心の中で、速いのが苦手なボールにエールを送っている内に、いつの間にかいつもの定位置に運び出されていた。
そして、子供たちの手によって速いのが苦手なボールが投げられ始める、つまりキャッチボールが始まるといつもの声が校庭に響き始めた。
「ギャァー、速いよー」
この声が、キャッチボールが終わるまで続く。最初の内、他のボール達は「うるさい」、「怖がるな」とか言っていたが、最近は違う。
「ガンバレ」
「そのうち慣れるさ」
ボール達が、速いのが苦手なボールを励まし始めた。そして、今も励ましている。
「そんなこと言ったって……」
「今日だけの我慢だ!」
カゴの中にいた時、速いのが苦手なボールの隣にいたボールが大きい声を出して、速いのが苦手なボールに喝を入れた。すると、そのボールは「……わかった」と言い、あまり叫ばなくなった。
そして、無事にクラブが終わり、ボール達がカゴに入れられ道具倉庫の中にしまわれると、速いボールがいない事に気が付いた。
「ノック専用のカゴに入れたんだな」
「うん。いろいろ、ありがとう」
それからクラブの時間に速いのが苦手なボールの叫び声は聞こえなくった。
だが、それも数日が経つと別の声が聞こえるようになっていた。
それは、うめき声。
キャッチボールをされない代わりに今度は、バットに勢いよく打たれ網にあたる。それが痛いらしく、何回かに1度うめき声が聞こえるようになった。
だけど、それを言っても仕方がないのがわかったのか、その事で相談はされていない。
だから、キャッチボール専用のカゴにいた時、速いのが苦手なボールの隣にいたボールは心の中で「どこにいっても、イヤな事はあるさ……」と呟いていた。
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