五七秒
王命の間を飛び出したサーシャは、脇目も振らずに走っていた。
頭の中を駆け巡るのは、彼女の主君である暴虐の魔王。
アノスが全裸で、全裸がアノスだった。
ワンセット五七秒の妄想が、サーシャの頭をどこまでも突き抜けていく。
相手が誰かなんて知りたくなくて、思わず飛び出してしまった彼女はどこかで気を落ち着かせなければならないと視線を巡らせた。
前方に扉がある。
普段は使われていない部屋だ。
迷わずサーシャはそこへ飛び込んだ。
その刹那、開けた扉の向こうに見えたのは、真っ赤な風景。
頭に魔剣を突き刺され、ぐったりと横たわっているアノスの姿だった。
魔力がない。
あれだけ強大な……世界の果てからでも感じ取れそうな魔力が、どれだけ魔眼を凝らしても、まったく見えなかった。
「……アノスッ…………!?」
顔面を蒼白にして、サーシャが叫ぶ。
ぐったりとしていたアノスが平然と目を開けた。
「なにをしているのだ、サーシャ?」
「こっっっっちの台詞だわっっっ!!!!」
喉が張り裂けんばかりの勢いでサーシャはつっこんだ。
「なに、青き春の仕込みをな」
サーシャがげんなりしたように頭に手をやる。
「……今度はなによ?」
「肝試しというものがあると聞いてな。完全に死んだと思っていた魔王が蘇り、襲ってきたならば怖いとは思わぬか?」
「魔王が襲ってくる恐怖に比べれば、他のことは些事だわ」
「ふむ」
いけそうだな、という表情でアノスは自らの頭に刺さった魔剣を抜く。
魔法で消していた魔力も元に戻った。
「それで? お前はなにをしていたのだ?」
「……え? あ、その…………」
突然問われ、言葉に詰まりながらもサーシャは俯く。
「えーと、その、王命の間に行ったら、シンがいて、ミサの心配してるみたいだったんだけど……」
「門限の話か」
アノスがくつくつと喉を鳴らす。
「アノスにも言ってたの?」
「親になるとはどうやらああいうことのようだな。あのシンが、娘のことになるとまるで回りが見えておらぬ。俺の父さんや母さんにもそんな節がある」
「あなたのご両親を基準にして欲しくないわ……」
「しかし、今の時代はあれを青き春というとはな。わからぬものだ」
サーシャの心臓がどくんと跳ねた。
「……え…………と……?」
「シンが心配していなかったか? 娘に青き春はまだ早いのではないか、と」
いきなりそんな話題を振られ、彼女はドギマギしてしまう。
「こ、この場合の青き春って、あれのことよね? その、男女が二人でやる……? イニシャルで言うと……S?」
「ああ」
社交ダンスのことだ、とアノスは思った。
やっぱり、とサーシャは別のことを考えていた。
「お前は得意そうな顔をしているな」
「顔でわかるのっ!?」
「さすがに顔だけではない。普段の身のこなしや所作を見ていれば、どのぐらいやれるかは大体わかる」
どのぐらいやれるかは大体わかるっ!? と、サーシャは衝撃を受けたような顔をした。
「シャッセが苦手だろう」
シャッセってなに!? とサーシャは思った。
「ああ、通じぬか。つまり、クイック・クイック・スローのリズムで、開く、閉じる、開くを行うあれだが」
クイック・クイック・スローのリズムで、開く、閉じる、開く!? 閉じるってなに!? と、サーシャは激しく動揺した。ステップの話である。
「教えてやろうか?」
「教えっ……えっ? ええええぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
「手を貸すといい」
「まっ……あぁっ……」
アノスがサーシャの手を取る。
「シャッセはまだ早いっ! シャッセはまだ早いっ!! シャッセは早いわっ!!」
心細そうな顔でサーシャは必死に訴える。
完全に動転していた。
「基礎の基礎だろうに」
「閉じるのにっ!?」
「そこが不得手か。心配するな。俺に身を委ねよ」
あまりに未知のことが多すぎて、サーシャはますます心細くなる。
「あの、あのあの、ま、待って、アノスっ……」
サーシャが涙目で訴えるので、アノスは静かに手を放した。
「どうした?」
「……その……わたし………………」
消えてしまいそうなほどか細い声だった。
「………………………………初めて、だから…………」
「ほう。二千年前には、その年で経験がないなど珍しかったが」
「だって……恋したこと、なかったんだもの……」
すねるようにサーシャが顔を背ける。
「恋など関係あるまい」
「関係ないのっ!?」
「恋をしてからでなくては踊れぬ方がおかしいだろう」
「お、踊るって……言い方……」
サーシャが恥ずかしげに俯く。
耳を塞ぐように逃げ出してまで聞きたくないと思っていたことだが、ここまできたら、もう確かめずにはいられない。
なにかの間違いであってほしい、と祈りながら、彼女は思いきって口を開いた。
「……アノスが、人前でしたことあるって……聞いたけど……?」
「むしろ、人前でするものだろう」
文化が違う!? とサーシャの心が絶叫した。
「どうした?」
うっかり顔に出してしまった動揺を、サーシャは咄嗟に取り繕おうとした。
「な、なんていうか、その……二千年前ってちょっと即物的ね……」
「そうやもしれぬな。元々は夜会などで相手が武器を持っていないか確かめるために発展していった技術だ」
技術!? と、サーシャは更に衝撃を受ける。
確かに、全裸にすれば簡単にわかるけど、と思い直す。
「……アノスは、その……五七秒で終わらせるって……?」
「早いに越したことはない」
武器を持っていないか確かめるならば、の話である。
「……五七秒……」
どうしよう……できるのかしら……とサーシャは思っていた。
五七秒がどれだけ早いのか、いや速いのか、想像もつかない。
「なにを心配している? お前とならば、どれだけかかっても構わぬ」
サーシャの心臓が激しく脈打ち、頬が自然と朱に染まる。
彼女はもう、なにがなんだかわからなかった。
「……わたしが……初めてだから?」
「俺はこの時代の踊り方を知らぬ。青き春と言われる踊り方をな。お前と二人で、一から覚えるのも悪くはあるまい」
サーシャの顔が自然と綻ぶ。
「無理強いはせぬがな」
「あ……」
アノスが自分のために、変わろうとしてくれているのだとサーシャは思った。
それなら、彼に歩み寄りたい。
大丈夫。怖くはない。
自らに言い聞かせ、勇気を振り絞って、サーシャは言った。
「……アノスは……わたしと、お……踊りたいのかしら……?」
「愚問だ」
「…………じゃ、待っててくれる……?」
震える手をぐっと握り、サーシャは言う。
「その……心の準備ができたら……」
「約束だ」
花が咲いたように、サーシャは笑う。
「うんっ!」
五七秒の誤解は、かくも深まるばかりであった。
すれ違う二人の心――
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