壁ドン
魔王城デルゾゲード。王命の間。
玉座に座った魔王アノスは、威厳と畏怖をもって言葉を発した。
「壁ドンというものがあるそうだな」
ミーシャとサーシャは黙って主君の言葉を聞いている。
一見すれば平常そのもの。
普通の者にはなんの変化も捉えられなかっただろう。
だが、魔王の恐るべき魔眼はサーシャがほんの僅か、ピクリと反応を示したのを見逃さなかった。
「サーシャ。知っているのか?」
「……し、知らない……」
嘘である。
壁ドンは人間の国アゼシオンで使われている言葉だ。
ある種の小説によく登場するのだが、サーシャはそれを呼んでいることを知られたくなかった。
「ぜ、全然、聞いたことないけど、ミーシャ知ってる?」
下手な演技で彼女は妹に丸投げした。
「たぶん、アゼシオンの言葉」
「どういう意味かしら?」
しれっとサーシャは質問した。
「二人一組で、片方がもう一人を壁際に追い詰める」
うんうん、とサーシャは相づちを打つ。
「追い詰めてどうするの?」
「ドンッてする」
ミーシャが壁に手をつくような素振りを見せる。
「ドンッてしてどうするの?」
ミーシャが小首をかしげた。
「…………終わり……?」
沈黙が王命の間を通り過ぎる。
ミーシャはあまり詳しくなかった。
「に、人間の考えることはわからないわ」
「だが一説によれば、壁ドンは青き春をもたらすと言われる」
アノスがそう告げる。
「そ、そうなんだ。壁に手をつくのと、青春となんの関係があるのかしら? 魔族にはあんまり関係ないんじゃない?」
サーシャは強引に話題を変えようとした――
「人間も魔族も、心の有り様はさして変わらぬ。人間にとって青き春ならば、魔族にとってもそうである可能性は高いだろう」
――が、できなかった。
「じゃ、じゃあ、もうちょっと詳しく調べてみる? レイなら知ってるんじゃないかしら?」
二千年前、アノスと戦った人間の勇者カノン。
その生まれ変わりがレイ・グランズドリィと呼ばれる少年であり、今はアノスの友である。
彼に聞けば、すべてが白日のもとに曝されるだろう。
だが――
「それではつまらぬ」
「……えーと、つまらないとかそういう問題じゃないと思うんだけど……調べないであれこれ考えてたって、絶対無駄でしょ」
「まあ、確かに、お前の言う通りではある」
一瞬、魔王は寂しげな表情を覗かせる。
魔眼に優れたミーシャはそれを見逃さなかった。
「なにかある?」
「なにか、というほどではない。せっかく見知らぬ時代に生まれ変わったことだしな。未知なる青き春に、心躍らせてみたいと思っただけだ」
戦乱の時代を生き抜いた暴虐の魔王。
二千年前の彼には、配下と民を守るため、未知を楽しむ機会など殆どなかったことだろう。
情報がないことは、すなわち死に直結する。
注意深く下調べを行い、事前にあらゆる情報を入手する。
責任と重圧が、彼に知らないことを楽しむことを許さなかった。
そう姉妹は考えた。
「だが、サーシャの言う通りだ。時には限りがある。お前たちを無駄に付き合わせるわけにもいかぬな」
「……馬鹿言わないで……」
肩を震わせ、サーシャが言う。
「魔王様の命令には絶対服従だわ。あなたがやれって言うなら、わたしはなんだってやってあげる」
だが、ある種の小説を読み込んでいることは口にできない。
「無駄じゃない」
優しくミーシャが微笑む。
きっとそれが彼にとって失われた青春なのだと二人は思ったのだ。
「よき配下に恵まれた」
玉座から魔王は立ち上がる。
「覚悟はよいか? どちらからだ?」
「来て」
壁を背に、ミーシャが言った。
アノスはこくりとうなずき、彼女の前まで歩を進めた。
二人は真剣そのものの表情で視線を交わす。
サーシャが固唾をのんで見守っていた。
かつてないほどの緊張感に包まれる王命の間。
そう、これから――魔王の壁ドンが始まろうとしているのだ。
「行くぞ」
すっと差し出した魔王の手は、ミーシャの顔付近を通過して、壁に触れた。
ドゴオオオオオオオオオオオォォォッとけたたましい音を鳴り響かせ、ミーシャ側の壁がいとも容易く崩壊した。
「それじゃ壁ドンじゃなくて、壁ドゴオオオオオオオオオオオォォォッでしょっ!!!」
たまらずサーシャが声を上げていた。
かつてないほどのつっこみである。
「では、こうか?」
魔王が壁を――小刻みに叩く。
「壁ドドドドン、ドドドドド、ドドドン、ドンでしょうがっ! なんでリズミカルなのっ!? 馬鹿なのっ!!」
「ふむ。違ったか?」
「違うなんてものじゃないわっ! いい? 壁ドンっていうのは、壁を壊すものじゃなくて、もっとこうスマートに手をつくの。それで強気な視線で、強引に奪ってやるっていう想いを込めて――」
「詳しいな、サーシャ。知らぬのではなかったか?」
「――って今ふとなにかが下りてきて思ったわっ!」
苦しい言い訳だった。
「わたしもそう思う」
ミーシャがそうフォローを入れる。
姉の困り果てた様子を、見逃さなかったのだ。
「なるほど」
アノスが踵を返し、サーシャの方向へ向かう。
「壁を壊さず、スマートだったな?」
「……う、うん……」
アノスが一歩を刻む度に、サーシャの心臓が高鳴った。
どうしよう。アノスに壁ドンされちゃう。わたしの魔王様に――などと青き春が、彼女の脳内で吹き荒ぶ。
アノスがサーシャの目の前で立ち止まる。
見つめられただけで、彼女はもうどうにかなってしまいそうだった。
壁ドンなんかされたら、気持ちを押さえられなくなるかもしれない。
だが、アノスは見つめたまま、手を動かそうとしない。
サーシャの頭に、再び妄想の嵐が吹き乱れる。
――アノスも緊張してる?
――でも、壁ドンの意味なんて知らないはず。
――だけど、アノスなら、わたしが口にした僅かな情報から、正解にたどり着いても不思議じゃない。
――だって、彼は暴虐の魔王なのだから。
――じゃ、もしかして、アノスも、わたしを――
「あの……アノス……? まだ……?」
上目遣いにサーシャが言う。
アノスは彼女の想いを察したかのようにフッと笑った。
「気づかなかったか、サーシャ?」
「え……?」
――気づかなかった? なにに? あなたの想いにってこと?――
「もう行った」
真顔で言ったアノスは右手をゆるりと上げる。
「どうやらスマートすぎて、見えなかったようだな」
「馬鹿なのっ!!」
超高速の壁ドンであった。
魔王の壁ドンは速すぎる――
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