相合い傘
魔王城デルゾゲード。王命の間。
玉座のアノスは足を組み、頬杖をついている。
ただ座しているだけにもかかわらず、見る者の心胆を寒からしめるような威厳と畏怖が滲んでいた。
ゆるり、と魔王は問う。
「青き春とは、相合い傘だそうだな、ミーシャ?」
こくりとうなずき、彼女は答えた。
「青春の一つ」
「では、問うが相合い傘とはなんだ?」
ぱちぱちとミーシャは瞬きをして、小首をかしげた。
「……なに……?」
「もしかして、相合い傘も知らないの?」
呆れたようにサーシャが言う。
魔王アノスが転生して数ヶ月。
彼がかつて生きていた神話の時代とこの魔法の時代とでは、二千年の文化的な隔たりがある。
「俺とて時代に学んでいる。仲睦まじい男女が雨の日に一本の傘に二人で入り、肩を寄せ合う。これが相合い傘だ」
「わかってるんなら――」
サーシャが皆まで口にするより先に、アノスは真理へ挑む探求者のように問うた。
「だが、果たして、本当にそうか?」
「アノスは考えすぎだと思う」
さらりとミーシャが断言する。
二千年前の大戦では、人間や神々が魔王アノスを討つべく深き謀略を巡らせ、十重二十重もの罠を張っていた。
魔族の国ディルヘイドを守るため、彼はあらゆる可能性に備え、どんな小さな芽をも見逃すわけにはいかなかった。ゆえに、彼の思考は余人には計りがたいほど遙か深淵に沈む。
その遠謀深慮が、平和な時代の青春を理解する上では仇となっていた。
「では、言い換えよう。いったい相合い傘のどこに、青き春が眠っているのだ?」
ミーシャが返事に窮し、サーシャが頭を捻った。
「……距離が縮まるところ?」
ぽつりとミーシャが言うと、アノスは大きくうなずいた。
「ならば、ミーシャ。よく考え、深淵を覗いてみろ」
深淵を覗く。
分析する、研究する、真理に迫る。言い方は様々あれど、それら全てを内包し、一番広く使われるのが深淵を覗くという言葉だ。
魔法の深淵を覗くことは、その真理を理解し、また体現できるようになることを指す。力の深淵を覗くことは、すなわち、相手の真価を知るということである。
すなわち――
「相合い傘とはなんだ? 救いか、絆か、自己犠牲か?」
「そんな大層な話じゃないわっ!」
たまらずサーシャが声を上げた。
「深淵を覗けと言ったはずだ。表層ではなく、相合い傘の深き箇所へと目を向けよ」
姉とは違い、素直なミーシャはじっと考え、言われた通り深淵を覗く。
「…………絆は、あると思う…………」
「まあ、絆と言えば、絆かしら……? 仲良くないとっていうのもあるし、それで仲良くなって、良い感じになったりするもの」
「……救いもある?」
「ずいぶん小さな救いだけど、一応傘を持ってなかった方にとったら救済よね。雨よけの魔法が苦手だったら、濡れて帰るしかないわけだし」
「自己犠牲は?」
「うーん……よく考えたら、ある気がしてきたわ。ほら、体が大きい人って相合い傘した分だけ濡れるでしょ。それでも、困ってる人のために傘を半分貸してあげるんだから、完全に自己犠牲よ」
刹那、息を吸う音が聞こえた。
「……すべてか……」
達観したかのような表情で、魔王アノスはそう言葉を漏らした。
戦乱の世を駆け抜けた修羅のような男が、あたかも希望の光を見たかの如く。
「素晴らしいものだ、相合い傘というのは。血にまみれた二千年前には、そうそうあることではなかった。これが平和の頂、青き春というわけか」
「そこまで感動するところだったっ!?」
サーシャが激しくつっこんだ。
「行くか」
ミーシャが不思議そうに首をかしげる。
「どこに?」
「無論、相合い傘だ」
三人は王命の間を後にして、デルゾゲード魔王城の外へやってきた。
サーシャの手には、彼女の傘がある。
「天気」
ミーシャが言う。
視線を空にやれば、快晴であった。
雨が降らなければ、相合い傘はできない。
「問題ない」
魔王アノスは悠然と空に魔法陣を描き、雨天魔法を使う。
みるみる雨雲が発生し、今にも降りそうな雰囲気を漂わせる。
「相合い傘に適した雨脚は?」
「え、えーと……適したって言われても、どっちでもいいんじゃないかしら……?」
考えながらも、サーシャが言う。
「もっとよく深淵を覗け」
すると、ミーシャがはっとしたように口を開いた。
「……強い方がいい?」
「……確かに、そうよね……小雨だったら、走って帰ればいいわけだし、けっこう強ければ強いほど、傘を忘れてた人は嬉しいわ」
サーシャが賛同し、アノスはうなずいた。
「決まりだな」
アノスが指先を黒い雲へ向ければ、魔力が送られ、ポツポツと雨が降り始める。
それは次第に強くなっていき、やがて豪雨に変わった。
「貸すがいい」
アノスは傘を受け取り、泰然と開く。
そうして、雨が降りしきる石畳へ歩き出そうとすると、
「あ、ちょっと待って。どっちがするの?」
サーシャが問う。
「どっちとは?」
「だって、相合い傘だから、どっちかしか……」
すると、ミーシャはサーシャの手を取った。
「え……?」
戸惑うサーシャに、ミーシャは優しく言った。
「三人の方がいい」
配下の出した答えに満足したよう、魔王アノスが笑みを見せる。
「よくわかっている」
「深淵を覗いた」
その言葉を聞いて、サーシャも呆れ半分で笑った。
「もう。絶対、濡れるわよ?」
「それも一興だ」
アノスの両隣へ、姉妹は近づいていく。
相合い傘の深淵は、救い、絆、自己犠牲。ならば、三人の内、一人が省かれることなどあってはならない。
通常は二人で行う相合い傘を、三人で行う、
これこそが、魔王アノスの求める平和な頂、青き春へと向かう一歩なのだ。
雨の中、三人は歩き出す。
平和を迎えた魔王に寄り添いながら、とびっきりの笑顔を向けて。
ズガガガガガガガガガガガガガガガッ!!!!
一瞬の出来事であった。
雨粒が傘を貫通し、それをズタズタに引き裂いた。
ボロボロになり、折れ曲がった骨という骨。最早、それは傘の役割をなしていない。
「ふむ」
神をも滅ぼす暴虐の魔王。天候を変えるだけの雨天魔法とはいえ、その威力は現代の傘で耐えきれるものではない。
「少し雨脚が強すぎたか」
「馬鹿なのっ!」
びしょ濡れの三人に、豪雨が強く打ちつける。
くく、くはは、と静かに笑い声が聞こえた。
いったい全体なにが彼の胸を躍らせたのか、魔王はそのまま雨の中を歩き出した。
「ちょっと……?」
「サーシャ。なかなか悪くはないものだな。たまには失敗するのも新鮮でよい」
ゆっくりと振り返り、アノスは笑う。
雨に濡れたその朗らかな笑みに、二人の視線が引きつけられた。
不用意に失敗をしようと、誰も死ぬことはない。
この平和な世が、彼は嬉しくてならなかったのだ。
「……もう。しょうがない魔王さまだわ」
ミーシャがうなずく。
「アノスらしい」
土砂降りの雨の中、三人は歩き出す。
意味もわからず、笑顔で。
それが青春だとは、誰も口にしなかった――
相合い傘とはままならないもの……。