少年
「おはようございます、少年さんっ!」
ヘイムダルのキャンプは五階建てのオフィスビルだが、面積はそう大きくない。四十三人のシェルメンバーが寝る時は、二階と四階の居住フロアに分かれて眠る。
しかしリーダースズキの方針で、不死勇者には一階の個室が割り当てられていた。
『みんなを守る不死勇者は快眠も仕事のうちだよ』
そう言ってスズキは居住フロアに皆と雑魚寝し、少年とアンフィスバエナにだけ静かな寝室を提供してくれた。オリエも仕事柄ラボや医務室でそのまま眠っているらしい。二人とも若いが良い長だと、少年は感心していた。
「あれっ? あれっ? 少年さん、ですよね?」
そんなプライベートルームに元気よく入ってきた少女に、少年は見覚えがあった。
少年が救ったとは言いがたいが、結果的に似人アルラウネから救出したお下げ髪の女の子。確か名前はハナで、十歳だとスズキが言っていた。歳のわりには利発そうな印象を受ける。少年はハナを見て、手から滑り落ちる石鹸を連想した。
ずっと黙っている少年を見て、ハナがあたふたと手を動かす。
「あっ、あのっ、すみませんっ! もう一度お名前教えてくださいっ!」
ハナに名を尋ねられた瞬間、少年の脳に不思議な映像が浮かび上がった。
見知らぬ女がこちらに向かって「ハルくん」と呼びかけ微笑んでいる――。
そのイメージは一秒もたたずに途切れた。自分ではない誰かの追憶のようなシーンに、少年は奇妙な懐かしさを感じる。
今のは一体何だろうかと考えていると、目の前でハナが涙目になっていた。
慌てて「少年」と答えると、よかった~とハナが露骨に胸をなでおろす。初めて名前で笑われなかったので、少年も少し嬉しい。
「昨日は助けていただき、ありがとうございましたっ」
小さな頭がぺこりと下がり、二つに結んだお下げ髪がぴょこんと跳ねる。
「今日からしばらく少年さんのお世話をさせていただく、ハナ・リトマネンと言います。何でも命令してくださいっ!」
なんと答えたものかわからず、少年は無言で栗色のお下げ髪を見つめる。
「あの……少年さん、もしかして、怒って、ま、す……?」
ハナの声がみるみる小さくなっていく。少年は首を振って見せたが、ハナは命令されないと困る立場のようで、両目にじわりと涙を浮かべている。
「……空腹」
ぼそりと答えるとハナがぱあっと顔を輝かせ「ハイっ!」と元気よく返事した。
「お食事は食堂です。支度ができたらすぐにご案内しますねっ」
そうして少年が顔を洗っている間、ハナは鼻歌を歌いながらベッドのシーツを整え、小さな丸テーブルの上に花を活けていた。
少年はハナの手元に質素に咲いた、黄色い花をじっと見つめる。
「う……少年さん、お花、お嫌いですか?」
ハナの眉が悲しそうに下がる。少年はふるふると首を振り、ハナと花を指差し言った。
「似てる」
「えっ、えっ。わっ、わたしこんなに可愛くないですよっ!」
ハナが真っ赤な顔の前で手をブンブン横に振る。ブンブン振る。ブンブン――。
止めないといつまでも振り続けそうなので、少年は花を指差し名を尋ねた。
「これ、待宵草です。雑草なんですけど、煎じてお薬になったりもするんです。昔はもっと色んな花が咲いてたらしいんですけど、今はこの子くらいしか見かけなくて……あ」
再びハナが悲しそうな顔。
「もしかして、わたし、うるさい……ですか?」
正直に伝えたらハナはきっと泣き出すだろう。少年は渋々首を横に振る。
「よかった~。少年さん、ぶっきらぼうですけどいい人ですねっ。じゃあご飯食べに行きましょう!」
少年は小さくため息をつき、小さなハナの後をついていった。
***
少年とハナが部屋を出ると、廊下を挟んで目の前のドアには「ラボ」があった。
キャンプの一階にはオリエのラボの他、少年たちの寝室がある。五階には医務室とヘイムダルのメンバーが中心のマーケットがあり、四階は家族と子供世帯の居住区、二階居住区は単身者が多く、その間の三階が食堂になっているのだとハナが説明してくれた。
ハナと階段を上りながら、少年は二階の居住区に目をやる。狭い空間にこれでもかというほど大勢の人がいた。外にはもっと大きく居住に適したビルもあるはずだが、ハナによると、『大きいビルは目立つんです。ボーエー上の問題です』らしい。
三階の食堂に着く。ここも狭い空間に二十人前後の人間が集まっていた。ガヤガヤと賑やかな食堂に入り、ハナと二人でプレートを持って配給の列に並ぶ。
待っている間にキャンプの人々が、「よっ、噂の少年」、「期待してるぜワンダラー」などと気安く少年の肩を叩いていく。昨夜は遅かったため自己紹介はしていないが、少年の存在は既に周知されているようだ。
「大丈夫です。みんないい人ばかりですから、すぐに友達になれますよっ」
少年の無口を気遣ってか、ハナがぐっと拳を握って励ましてくる。
少年の目的は友達作りではない。似人を倒して人々を守ることだ――とわざわざハナに主張するのも憚られた。なんとも言えない気分で、少年は食事の配給を受け取る。
メニューはアルマイト皿一杯の白米に、冷凍食品のミニハンバーグが一つ。それにフリーズドライのワカメの味噌汁と、イチゴ模様の包装紙のキャンディが一粒ついてきた。
ンヌヴァロの感覚で言えば質素ではあるが、十年前に死んだ街の朝食であることを考慮すると随分豪華に思える。
「スズキさん、食べ物集めにはものすごく力を入れているんです。『楽しい食事は、文字通り人が生きる糧だからね』って」
ハナに言われて腑に落ちた。スズキの『人間らしさ』への執着は徹底しているようだ。
「おう少年。昨日はお疲れだったな。限りがあるから大盛りってわけにゃいかねぇが、俺の分のアメ玉持っていきな」
大鍋の向こうで味噌汁を注いでくれた大男がわははと破顔している。昨日鉄パイプの松葉杖でラボに駆け込んできたトレという男だ。トレはオリエ博士と同じくキャンプの機械類担当なのだとハナが教えてくれる。
「トレさん、昔はすっごい戦士だったんです。でも膝をケガして戦えなくなっちゃったから、いつもこうやってワンダラーさんを応援しているんですよ。顔は怖いけど、とってもいい人ですっ」
力強くトレを讃えたハナだが、目は少年のキャンディに釘付けだった。
少年がキャンディをつまんで左右に動かす。ハナの目も左右に揺れる。少年が大きく円を描いてみせると、少女の首もくるりと回る。遠くに投げたら走って取ってきそうな勢いだった。甘いモノは貴重なのだろう。
少年はハナの持つプレートにキャンディを二つ落としてやった。
ハナはえっ、えっと鼻息荒く興奮している。いいんですかっ、いいんですかっと目を輝かせる少女にうなずいて、少年は空いたテーブルの席に腰を下ろした。
さてと食事に口をつけた瞬間、少年はがっかりと肩を落とす。まずいわけではない。ンヌヴァロの自分には未知なる食事。密かに楽しみにしていたその味を、舌が既に知っていた。スズキが言うように人にとって食事は娯楽だ。戦乙女の力も痛し痒しかもしれない。
食事を終えた少年が人知れずため息をついていると、ハナが茶を入れてくれた。少し酸味を感じる茶を飲みながら、少年は聞くともなしに周囲の会話を耳で拾う。
「もう『冬』に入って十年経つが、俺はいまだに似人ってのがよくわからねぇよ。あいつらはどこからともなく湧いてきて、片っ端から人間を喰っちまう。いったい何なんだ」
「うちのおふくろは宇宙生物なんて言ってたが、俺は神が遣わした処刑人だと思うぜ。オリエの姐さんがよく言う『エクストラ』って呼び方も『特別』って意味だろ? 星を破壊する傲慢な人間への天罰さ」
「冗談じゃねえっての。核を落として『冬』を招いた奴らはとっくに死んだ。俺たちが何をしたってんだ」
「だから神はワンダラーも遣わしたのさ。もう一度だけ人間にチャンスをくれたんだよ」
会話をしていた緑髪の男と、ヘッドホンからアンテナを伸ばした男が、ふいに少年の方を向いてサムアップとウィンクを寄越す。
少年が大きくうなずいてみせると、男たちの視線を遮るように隣の席に誰かが座った。
「テメェが新しく来たワンダラーか? ……ふーん」
赤い髪をした派手な女が、無遠慮な目つきで少年をジロジロと見定めている。
「なぁ、あたいと遊んでけよ。初回は安くすんぞ? ワンダラー割引だ」
女が色目を流して少年のアゴを持ち上げる。その指先も爪が真っ赤に塗られていた。しかし顔に散ったそばかすは、無邪気な幼さを感じさせる。十代後半か二十歳になったばかり。そんな年頃のようだ。
「あたいはこう見えて武器屋だ。手作業には自信があるぞ。半値で試していくか?」
ニヤリと笑って輪を作る女の指はしなやかだった。だがよく見れば、細かい傷が無数についているのがわかる。爪の赤もよく見れば輝きがない。ペンキかインクのようだった。甘味と同じで化粧品も貴重なのだろう。
少年が解説を求めて向かいを見ると、ハナは顔を真赤にしてうつむいていた。
「んだよ、まだガキか。あたいを買わないかって聞いてんだ」
女からそう聞いても、少年にはやはり意味がわからない。ンヌヴァロには女を買うという文化はない。ンヌヴァロの女は皆の母であり、そこに所有の概念はない。
「キム。仕事熱心なのはいいけれど、少年はまだ未成年だよ」
そう言ってハナの隣に座ったのはスズキだった。メガネの奥の目を細めて笑っている。
「それに、少年にはまだお金を渡してないんだ」
スズキの言葉を聞くと、キムと呼ばれた赤髪女はチッと舌打ちして去っていった。
「堅物だと思ったけど、この男は意外と懐が広い。そんな顔だね、少年」
そんなことはまるで考えていなかったが、少年はスズキの言いたいに任せる。
「『ヒューマニズムにヒューマニティはない』。少々人の道を外れるくらいが、人間らしい生き方だと僕は思っている。少年には難しいかもしれないけれど、僕はこのキャンプを博愛のコミュニティにはしたくないんだ。だから経済活動を行うことを推奨している」
経済という概念はンヌヴァロにはない。しかし今は戦乙女の力である程度は理解はしている。それでもスズキの理念には少し腑に落ちないものを感じた。
「こんな時代に仲間から金を取るのかって言いたいんだろう?」
少年にもはっきりとはわからない。首を傾げながら曖昧にうなずいた。
「どんな小さなコミュニティでも、そこに貧富の差があれば競争が生まれる。誰だっていい暮らしをしたいからね。感覚的に納得できないかもしれないけれど、それはとても人間らしいことなんだよ。共生と自立。人間は両方の概念を持つ唯一の経済動物だからね」
言葉は少々難しかったが、おそらくスズキは「フィンブルの冬以前」と同じように暮らしたいのだろうと少年は受け取った。
「もちろん、僕のやり方に賛同できずにヘイムダルを出て行った人もいる。それもまた人間らしく生きることだと僕は思う。というわけで、少年にもお小遣いを渡しておくよ」
スズキが自分の財布から裸の紙幣を差し出してくる。
「暇な時にキムの店でも覗いてみるといい……あ、もちろん武器屋の方だよ!」
初対面では頭の回る参謀タイプだと思ったが、スズキはどちらかと言えば若い学者に似ている。理想と熱意は十二分だが、経験が足りない。良い長ではあるが、民が支えてやらねばならない長だ。
慌てて食事をかきこむスズキを見て、少年はそんなことを思った。
***
キャンプの中で「暇」という概念は何もしていないことを意味する。
不死勇者として似人と戦うのがヘイムダルにおける少年の仕事であり、それは戦乙女から告げられた唯一の使命でもある。
では似人が出現しない時は『暇』なのかというと、そういうわけでもないらしい。
『十五歳の少年は本来なら学生で、学生の本分は勉強だからね』
そう言って、スズキは少年を含むキャンプの子どもたちを「学校」に集めた。
食堂の会議テーブルに座っているのは、下は六歳、上は十八歳までの子供たち。全員が同じ授業を受けるのは当然無理だ。ゆえにヘイムダルの学校は、個々人が教科書の類を読み、わからないところを「教師」に質問するという勉強会スタイルをとっている。
その教師は二人いる。一人はもちろんスズキで、もう一人は――。
「ハナは本当に賢いわね。二年もすればあたしは教師の職を追われそう」
「めっ、滅相もごじゃりませんっ! リリィさんの教え方が上手だからっ!」
動揺してアリスのような口調になるハナに向け、黒ドレスの少女が微笑む。
リリィの態度は、昨日少年に向けた冷然としたものとはまるで違っていた。教師というより優しい姉の振る舞いで、子どもたちにも随分好かれているようだ。
「別にリリィは勉強が得意なわけじゃないんだ。どちらかといえば苦手な方だよ。ただ、彼女は子供に教えるのが好きなんだ。そのために陰で一生懸命努力する。誤解されやすい性格だけど、リリィは本当にいい子なんだよ」
少年の向かいに座ったスズキが、リリィを見ながらメガネの奥の目を細める。
「少年は勉強嫌いかな?」
嫌いではないが、座学よりは実践の方が学ぶことが多い。返事を保留する。
「今はオリエが何人か連れて水と食料の捜索に出ている。今日はアリスが護衛役をしているんだ。もちろん少年にもそのうち頼むことになるだろうけど、強制はしないよ。勉強と労働、好きな方を選んでくれて構わない」
スズキの話に「じゃあ働く!」と返したのは、少年の隣に座っていたレンジだった。昨日四階の居住区を走り回り、少年を変な名前と笑った子供だ。
「だって勉強なんてしてもしょーがないじゃん。いつ死ぬかわかんないだしさ。そんなことよりオレはみんなの役に立てるように早く働きたい。ショーネンもそう思うだろ?」
思う。が、歳下の子供に諸手を挙げて賛成するのもきまりが悪い。ンヌヴァロの頃とは違う、二つの相反する価値観が自分の中にあるように少年は感じる。
「ハァ? あんた何言ってんの?」
話が聞こえていたのか、リリィがつかつかとレンジに歩み寄った。
「学習能力はすべての動物に備わってんの。でも、『生きること』以外の技術を学ぼうとするのは人間だけ。人は学び続けるから人間でいられるのよ。あんたもいっちょまえの口聞きたいなら、勉強して人間になんなさい。今のところレンジの頭なんてサルよ、サル」
レンジの額に指を突きつけ、リリィがフンと鼻で笑う。
その時、少年はリリィの白い手首を見て違和感を覚えた。少年の視線に気づいたのか、リリィが慌ててドレスの袖を直す。
「何見てんのよ。いやらしい」
「……見てない」
むっとして言い返す。しかしツンケンと去っていくリリィの手首の刺青を、少年は確かに見ていた。それはキャンプのあちこちで見かける『二つに割れた角笛』の模様。ヘイムダルのシンボルになっているロゴマークだった。
少年は解説を期待してスズキを見る。
「リリィ、立派になって……」
スズキはメガネを外して目頭を押さえていた。