少年
『聞こえるかい、少年』
暗み始めた廃ビルの街。三車線の大通りを走る少年の耳元に、オリエの声が聞こえた。仕組みのほどはわからないが、「聞こえる」と返すときちんとオリエに伝わる。
『オーキードーキー。そのまままっすぐ走ればかつての駅前に着くよ。そこならトレが設置したカメラがある。あちらさんもそろそろ到着予定だね』
オリエの話を聞きながら少年は気づいた。かなりのスピードで走っていても、呼吸に苦しさがない。昨日アルラウネと戦った時も、優に二階の高さへと跳躍できた。不死勇者の驚異的な身体能力を少年は実感する。
走りながら空を見上げた。月が傘雲に隠れている。しかし道路はところどころに街灯が点いていてぼんやりと明るい。ソーラーシステムの効率化が進み、今でも電気だけは不自由しないのだとオリエが教えてくれた。
『駅前』と思しき場所に到着した。
半分、黒焦げ、横倒し。少年の眼前に巨人が暴れた跡のような倒壊したビル街が広がっている。バスロータリーのアスファルトには巨大な裂け目ができていた。高架の線路が崩落し、ひしゃげた車の上でたわんでいた。飴細工の如く捻れた歩道橋には、ところどころに赤黒いペンキがこびりついている。
人の姿はまったくないが、かつて大勢の人がいた気配があった。
ここも敗者の集落だ。少年はそう感じ取る。いまだ燻る灰の匂いと、乾いた大地に染みた涙を少年は鼻先で嗅いでいた。
そこに、生々しい血の匂いが漂ってきた。匂いをたどって少年は首を回す。
横倒しになったビルの上に、三体の奇妙な生き物がいた。
四つ足で熊よりは一回り大きい。体毛はなく、爛れたピンク色の肌は頭部を中心にボコボコと膨らんでいる。顔の構造は人間と同じだが、眼球の中に黒目がない。手足の先は靴下を履いたように、指と指が溶けてつながっていた。
空気入れで強引に膨らませた人間。その表面を強火でサッと炙ればこんな風になるかもしれない。そんな印象を持ちながら、少年はその生き物を観察する。
三体のうち、二体は獲物を探すようにぐるぐるとビルの上を徘徊していた。残り一体は持参した弁当に夢中だった。溶けた両手で器用にしゃぶっているのは、白い人間の右脚のようだ。血の臭いはそこから漂っている。耳元にオリエの声が聞こえた。
『見つけたね。そいつらがエクストラ《焼かれた男》だよ。アルラウネみたいに人間ぽいのは変種で、普通のエクストラはだいたいグロいフォルムだね。怖い? 少年』
少年は首を横に振った。恐怖を克服したンヌヴァロだけがプルシャになれる。
『頼もしいねぇ。まずは物陰を利用しておびき出そうか。その後に一匹ずつ確実に仕留めるよ。バーニィは強いエクストラじゃないけど、囲まれないように注意して』
少年は身を低くして走り出した。首抜き輪杖を下段に構え、底に車の引っかかった巨大なクレバスを一躍し、横倒しになったビルの上に飛び乗る。
バーナードたちが少年に気づいた。耳元に『人の話を聞け!』とオリエの罵声。脚をくわえたバーナードが、取られまいとして食事を口いっぱいに頬張る。
少年は一気に距離を詰め、飛んだ。
振りかぶった輪杖を打ち下ろす。三匹の焼かれた男が後方に散る。ドン、と音がしてビルの中央が抉れた。その衝撃に、かろうじて生き残っていた窓ガラスが一斉に弾ける。
空から隕石でも落ちたかのような一撃だった。
ビルに生じたクレーターを挟み、少年とバーナードたちが睨み合う。
中央の一体は、右の眼窩から左の白目が覗いていた。それだけの角度、顔の皮膚がずるりとずれていた。同じく半分ずれた口元が、笑ったように糸を引いて開く。
『少年、一旦退くんだ!』
耳元の端末でスズキが叫んだ。
少年はビルを飛び降りた。走る。再び巨大なクレバスを飛び越え、振り返る。
三体のバーナードたちが追ってくる。三匹がほとんど同時にクレバスを飛んだ。
少年は輪杖を構える。空を舞う三体へ向かって走る。バーナードたちの下をスライディングでくぐり抜け、少年は断裂した大地の裂け目の底へ落ちた。
『少年!』
クレバスに引っかかっていた車のボンネット。その上で、少年はスズキの声が煩わしいと思っていた。似人に止めをさせる武器――ギアさえあればこの程度のことはたやすい。
少年の足元を、バーナードの首がころころと奈落の底へ落ちていく。
『相手の突進を利用して、クレバスに落ちながら首を引っ掛けて一撃……。これはとんでもない逸材が来たね!』
耳元ではしゃぐオリエの声もうるさい。この耳栓は二度としないと少年は固く誓う。
二体のバーナードが顔を見合わせ、首を失った仲間を見捨てて逃走した。
『いける! 少年、追って!』
スズキに言われるまでもない。少年は車のボンネットから崖の上へ跳躍する。その拍子に、かろうじてクレバスにひっかかっていた車が奈落の底へ落ちていく。
廃墟の街、少年は逃げるバーナードを追走する。
爛れた似人たちは、膨らんだ図体の割に俊敏だった。性格も狡猾で、時折後ろを振り返りながら、瓦礫や、ポストや、ガードレールを、手当たり次第に少年に投げつけてくる。
少年は追う勢いを殺さぬまま、かわし、くぐり、撃ち落とし、走る。
肉色の二体の背中が、地下街入り口の階段を駆け下りた。オリエの声が耳で鳴る。
『こっちのカメラは地下鉄のホームまでしか追えない。線路で二手に別れられるとまずいね。少年、倒すより地上に追い返すことを優先できる?』
少年は階段を一気に飛び降りた。二体の似人と距離が縮まる。
迷路のような地下街に入り、バーナードは細い横道を四つ足で逃走していく。
二体の背中が大きく飛んだ。通路に開いた大穴を飛び越えた。
少年も続いて穴を飛び越えようとした時、バーナードたちが振り返る。
二体の似人が協力して、自動販売機を投げつけてきた。
少年が穴の直前に到達する。飛べば自販機に撃ち落とされる。後方へかわせば似人たちとの距離が広がる。
少年はためらうことなく加速した。巨大な穴、飛来する自販機、そのわずかな隙間を見つけると、少年は体と地面を並行にして壁を走り抜けた。
驚き戸惑う二体の似人。その背面に回りこむと、少年は右にいた耐久力の高そうな方を目掛け、首抜き輪杖を叩きつけた。
バーナードが慌てて振り返り、剣術の達人のような白刃取りを試みる。爛れた男は赤い栓抜きを両手でしかと挟み取った。
しかし輪杖の刃は既に頭部に達していた。少年が押す。似人がぎゃあぎゃあと喚きながら両手で輪杖を押し戻す。少年が押す。似人の額が割れて血が噴き出す。火のように熱く生臭い呼気が、少年の頭上から噴きつけてくる。
少年は足元の小石を蹴った。それは狙いすましたように黒目のない眼球に当たる。バーナードが白い両目を閉じた瞬間、その眉間に線が走った。熱のこもった叫びがやんだ。
少年の首抜き輪杖の斬撃は、似人の胸まで体を左右に引き裂いていた。
勢い良く噴き出した鮮血が、地下街の天井と表情のない少年を濡らす。
少年はバーナードの裂けた体を見る。テラテラと脂肪が輝く断面。その内側で剥き出しになった心臓が、最後に一度トクンと震えて脈打ちを停止した。
『少年! ラストだ! 追ってくれ!』
切迫したスズキの声。足元に散った肉片をびちゃりと踏みつけ、少年は走り出す。
焼かれた男とは言うが、逃走した最後のバーナードは雌のようだった。わずかに胸が膨れた雌の似人は、とにかく少年から離れようと来た道を必死に戻っていく。
少年も懸命に後を追う。しかし距離が離れすぎている。
バーナードが地上への階段を駆け上がった。三車線の通りを四つ足で飛ぶように駆ける。
再びの駅前。巨大なクレバスを飛び越えたところで、バーナードは突如動きを止めた。
追いついた少年がバーナードを見る。
包丁、ハサミ、カッター、アフリカ式投げナイフ、匕首、アイスピック、自転車のスポーク、ミキサーの刃がついた刀、鋼鉄のトランプなど、様々な刃物がまるで意志を持っているかのように次々と飛来し、爛れた体にめり込んでいく。
動きを止めたバーナードの頭上、水色のエプロンドレスを着た少女が浮いていた。少女が振り上げた両手の先に、けたたましいエンジン音を響かせるチェーンソーが見える。
「サイコキネシス十刀流奥義! 非剣・ツバメキャッシュバック!」
陰った月を背負った少女がチェーンソーを叩きつける。ギャラガガガと、バーナードの肩口に振動する刃がめり込む。獣の叫び声とともに、肉色の前足がはね飛ぶ。
少女は返すチェーンソーで三本足の似人の体を跳ね上げた。仰向けにひっくり返ったバーナードのおぞましい顔面。そこに切り飛ばされた自身の腕が落ちてくる。
その拳が、ぽこりと、顔を殴った。
「……フッ。またつまらぬものを面白い感じに切ってしまったでござるよ」
フハハハハと快活に笑う少女を見て、少年は思い出す。
不死勇者は身体能力に優れているだけでなく、ギフトと呼ばれる特殊な能力を扱える者もいるとスズキが言っていた。理屈のほどはわからないが、意思を持ったように複数の刃物を飛ばして操っていたのは、この少女のギフトなのだろう。
「いつまでフハハってんのよ。アリス、どきなさい」
高笑いするチェーンソー少女を押しのけ、黒いドレスの少女が現れた。黒の少女はかつかつと靴を鳴らして血だまりに近づくと、肩を押さえてのたうつ似人の腹に跨った。
「おめでとう」
バーナードに馬乗りになった黒の少女が、冷たく笑ってぼそりとつぶやく。
同時に、右手に握った折れた刀のような刃を、肉色の胸に振り下ろした。
異形の生物が血を吐き吠える。少女が狂気に満ちた目で笑い、再び「おめでとう」と刃を振り下ろす。いやいやをするように首を振るバーナードの貧しい乳房から、黒ずんだ血が張った乳のように迸る。
少女は埋めた宝物を掘り返すように、楽しげに似人の胸を突いていた。何度も何度も。「おめでとう」を繰り返しながら何度も。
ぎゃッ、ぎゃッとバーナードが悲鳴を上げる度、血しぶきが霧のように散っていく。
辺りに血の匂いが充満していた。その血はバーナードのものだけではなく、刃を直接握りしめた少女の手からも噴き出している。常人ならば直視に耐えない凄惨な光景だった。
「拙者の《名刀ムラタコウギョウ》は神をもバラバラにする破壊力でござる。がしかし、ギアではないゆえ似人はすぐに再生してしまうのでござるな。それゆえああしてリリィが《折れた魔剣》でとどめをさしてくれるわけでござる。拙者たち『アンフィスバエナ』は、二人一組の不死勇者でござるよ」
アリスと呼ばれたチェーンソーの少女が、少年を見てえへんと得意顔になる。
『アリス! 終わったらリリィと二人で僕のところに出頭!』
少年が耳に装着した端末が、爆発しそうなボリュームでがなった。アリスがうへぇと嘆いて肩を落とす。
「うう……スズキ殿のお説教はとっても長いでござるよ。あ、申し遅れたでござる。拙者の名は吉川アリス左衛門。貴殿の名をお尋ねしてもよいでござるか?」
少年が不承不承に「……少年」と答えると、聞いた瞬間アリスは噴き出した。
「あ、いや、笑ってないでござるよ、ブフッ、ええと、あっちの黒いのがリリィ・ノーペインでござる。拙者もリリィも十四歳。少年殿、ブフフッ、歳は近そうでござるな」
アリスが涙目で笑いをこらえているところに、リリィと呼ばれた少女が近づいてきた。
ゴシック調の黒いドレスが赤く斑に染まっている。返り血だけではないだろうと少年は匂いで感じていた。
「気にしなくてよいでござるよ。リリィは痛覚がないでござる。自分の指でタコさんウィンナーを作っても眉一つ動かさない、最強の不死勇者でござるよ」
アリスが自分のことのように誇らしげに言い、リリィの隣で再び胸をそらせた。
「……何そのダッサイピアス」
リリィが挑戦的な目で少年を見る。「生意気」という言葉が少年の脳裏に浮かぶ。
「戦士の証だ」
少年の答えにリリィは一瞬ハッとした顔を見せた。そしてすぐに「そういうことね……」と一人納得すると、再び少年を睨んでくる。
「あんた、バーニィ二体倒したくらいで、いい気になんじゃないわよ」
リリィは鋭い口調でそれだけ言うと、靴音を鳴らして去っていった。アリスが少年に頭を下げ、「しからばこれにて!」と慌てて血まみれ少女の後を追う。
『リリィはちょっと難しい子でね。少年、あまり嫌わないであげてほしい』
スズキの節介に、少年は黙したまま輪杖を振って血を払った。
『ほい。こちらオリエさんだよ。予定外だったけど、ヘイムダル戦闘班の面通しは済んだね。これで明日からは少年も戦力として計算できる。期待してるよ』
『ひとまずは食事にしよう。少年、おなかすいてるだろう? 早く戻っておいで』
スズキの言葉に少年はうなずき、足元に横たわるバーナードの死体を見た。そこに手を伸ばしかけ、思い直してヘイムダルのキャンプへ走り出す。
リリィとアリスがそうしなかったのに倣い、首を持ち帰るのはやめた。