さらば小さな石垣空港
―今はなき旧石垣空港に捧ぐ― 平成25年2月14日
海の方から入ってきた飛行機は急ブレーキを掛けて止まると、Uターンして滑走路を引き返し空港施設の方に向かってきた。僕は送迎デッキに立ってその様子を見守っていた。
やがて飛行機は送迎デッキの目と鼻の先までやってきた。乗客は古めかしいタラップから地面に降りるとそのまま歩いて空港の施設に入っていった。沖縄県八重山諸島の玄関口である石垣空港は信じられないほど小さな空港だ。滑走路が極端に短く、着陸は経験を積んだ機長にしか許されていない。東京からは直行便があるが、東京行きの直行便はない。東京までの燃料を積むと離陸が危ういからだ。長らく訪れることのなかった八重山諸島を急遽2月に訪れたのは、3月7日の新空港の開港と同時に今の石垣空港が閉鎖されるというニュースを聞いたからだ。
今まで何度も訪れたこの小さな石垣空港に僕は特別な思い入れがあった。美波と初めて出会ったのもこの石垣空港だった。正確に言えば見かけたに過ぎないが。あまりにも月並みだが、綺麗な人だなというのが彼女の第一印象だった。預けた荷物が流れてくるベルトコンベアーの前でたまたま隣にいたというだけで、もちろんその場は何もなく終わった。しかし、その日泊まった石垣島の民宿に彼女も泊まっていたのだ。これもまた陳腐な表現だが、それは僕にとって正に奇跡の出会いだった。それから僕たちは何度も一緒に八重山を訪れるようになった。
美波と初めて出会ったその旅の終わり、彼女は今僕がいる送迎デッキで大きく手を振って僕を見送ってくれた。しかしその美波はすでにこの世にいない。若年性の癌はあっという間に彼女の命を奪い去ってしまった。今回、僕は彼女への思いに区切りをつけるべく八重山へ来たのだ。美波が亡くなってすでに3年、夏には僕も三十になる。彼女と出会った場所、石垣空港がなくなろうとしている今こそ、区切りをつけるべき時だと思ったのだ。しかし旅が終わろうとしている今となっても、区切りがついたのかどうか正直よくわからなかった。亡くなった恋人への思いに積極的に区切りをつけようとするのは冷たいと思う人もいるかもしれないが、早く区切りをつけて欲しいと望んだのは美波の方だった。
「私がいなくなったら、なるべく早く区切りをつけて、新しい道を歩いてね。」
亡くなる少し前に病室で美波が言った。
「馬鹿な、僕は君を忘れることなんてできないよ。」
「そうね、忘れたくても一生忘れることはできないでしょうね。」
「だったらそれは君を裏切るってことじゃないか。」
「違うわ。あなたが新しい道を歩いてゆくことは決して裏切りでも何でもないわ。 だって私はいなくなるんだから。その後は早く区切りをつけて欲しい。」
「嘘だよそんなこと。」
「嘘なんかじゃないわ。もし私とあなたの立場が逆で、あなたがもうすぐ死ぬとし たらどう。私があなたのことだけを思い続けて、誰とも結婚しないまま、おばあちゃんになって、寂しく死んでいって欲しいと思う?そんなことあなたは望まないでしょ。」
「それはそうだけど。」
「そうよ、だからなるべく早く区切りをつけて新しい道を歩き始めてね。その時が来たら、私はあなたを笑顔で見送ってあげたいわ。できることならね。」
それが僕たちの最後の会話になった。
僕にとってこの石垣空港からの最後のフライトの時間が近づいてきた。僕は送迎デッキから1階に降りた。もうすぐ閉鎖されるとはいえ、まだまだ現役の石垣空港にはそんな気配はまるでなかった。何もかもが初めて美波と出会ったあの時のままだ。僕と美波はいったいどれだけこの場所に降り立ち、そしてこの場所から飛び立ったのだろうか。そんなことを思いながら僕は空港内を見回した。共に食事をした食堂、オリオンビールを飲んだスタンド、お土産を買った店、二度と来ることのない場所の群れ。それらに別れを告げて保安ゲートを通過した時、搭乗開始時刻まではもういくらもなかった。
搭乗開始のアナウンスが入り僕は搭乗待合室から最後のゲートを通過した。その先はすぐに施設外で飛行機はすぐそこに待機していた。僕は飛行機までのわずかな距離をゆっくりと歩いた。まだ2月だというのに暖かな夕暮れだった。タラップを登る前に振り向くと小さな空港の施設は夕日を浴びてどこか寂しげに見えた。あの日、美波が僕を見送ってくれた送迎デッキに今日は人影は見えなかった。最後の一人になるまで待った後、僕は観念してタラップを登った。僕が機内に入ると飛行機の扉はすぐに閉ざされてしまった。そして僕は空港の施設の方を向いた窓側の席に腰を下ろした。
「この飛行機は出発の準備が整いました。まもなく離陸いたします。」
キャビンアテンダントの声が機内に響いた。いよいよ石垣空港も見納めかと思い、ふと窓の外を見た時だった。心が大きく震えた。僕はすぐ傍の送迎デッキに美波の姿をみつけたのだ。ちょうどあの日と同じように飛行機に向かって大きく手を振っていた。表情まではよくわからなかったが、きっと晴れ晴れとした笑顔をしているはずだ。彼女は、旅立とうとする僕の最後の見送り来てくれたのだ。僕も小さく手を振ってはみたが、彼女にそれが見えるとは思えなかった。こみ上げてくる涙をハンカチで拭い、もう一度送迎デッキを見た時、美波はすでにそこにいなかった。
「ありがとう美波、さようなら。」心の中でそう呟いた時、僕はようやく区切りがついたような気がした。
やがて飛行機は僕がもう二度と戻ることのない道を勢いよく走り始めた。そして春の気配がする晴れた空に力強く飛び立っていった。
終