動き出す運命
「もう、行くのですか?」
宴が始まり、皆に笑顔が戻ったのを見届けてから、ナバはゆっくりと立ち上がった。その気配を敏く察したサキルが声をかける。
「ん? ああ、そうだな。火急を知らせる烽も上がっていないから何も起きてはいないと思うが、とはいえ、いつまでも自分の役目を他人に押し付けているわけにもいかんからな」
サキルたち戦争孤児を中心に構成された部隊は、約束された最後の戦いに勝利した。多くの犠牲を払った辛勝ではあったが、確かに勝った。それは、ゼルグ国第二将ナバ・セルフェウスが、自らの領地を離れ、単身で救援に駆けつけたことによる勝利でもある。
ゆえにナバは戻らねばならない。彼に与えられているのは、隣接する敵国への牽制という役目。攻勢に出ることは命じられていないが、彼の存在がそこにあるだけで大きな意味を持つ。だが戦乱の世において、何が起きるかは誰にもわからない。
今のところ、領地に残した直下軍から緊急の烽は上がっていないが、早急に戻るに越したことはない。加えて、リガイル軍単独での勝利という条件を破ってしまったという事情もある。ナバが派手に敵軍を滅した以上、上層部に知られていないはずがない。
それでも、できるだけ早く領地に戻り、「主が不在でも領地は問題なく治まっていた」と証明できれば、リガイル軍の功績が認められる可能性はある。最悪の事態――「主の不在により領地が壊滅」などという状況を回避することが、彼の責務であった。
「ナバ様……いえ、父上。あなたが急いで戻るべき理由は、すべて理解しています。でも……ほんの三分だけ、お待ちいただけませんか?」
その背景を、サキルはすべて理解しているようだった。戦地から拾い上げ、育ててきた中でも、彼は群を抜いて賢い子だったとナバは思い返す。リガイル軍ではフェインに次ぐ戦術理解者であり、実際の戦場では彼の臨機応変な判断が優勢を呼び込んだと聞いている。
今回の勝利も、サキルの働きがなければ、ナバが到着する前に軍は壊滅していたかもしれなかった——。
「父上?」
「いや、ちょっとな。サキルがいなければ、今回俺は何一つ救えなかった。お前を護って送り出してくれたリガイルにも深く感謝しているが……その想いに応えてくれたお前に、改めて礼を言いたくなったんだ」
戦の経過を思い返しながら、ナバはサキルの頭に手を置いて優しく笑った。
大切な人を、大切なものを喪うこと。それはこの戦乱の世では、もはや特別なことではない。国家が覇を争い戦に明け暮れるこの時代、直接的な戦死者はもとより、戦火に巻き込まれ命を落とす者も数知れず。村や町の崩壊も珍しくはなく、常にどこかで誰かが、悲劇の渦中にいる。
そんな地獄にも等しい現実の中で、今回のように死地を凌ぎ切り、なお援軍が間に合ったことは、まさしく奇跡だった。幾度も修羅場をくぐってきたナバだからこそ、その奇跡の重みを痛感していた。そして、その勝利の立役者たるサキルに、どれだけ感謝しても足りないと思った。亡きリガイルと同じく、深く、心から。
「……まだまだです」
「……?」
ぽつりと返されたその言葉は主語を欠き、すぐには意図が掴めなかった。だが、その声音からは強い意志が滲んでいた。
「まだこれからも、ずっとあなたの側で戦い続けたい。だから、今回のように大切な人を犠牲にして勝つだけでは、足りません」
「それは……」
どこか後ろ向きにも聞こえるその言葉。しかし、そこに込められた真意は別のところにある。これで満足していいのか。こんな戦いを、これからも繰り返していいのか。——そんな問いが潜んでいる。
今回は、敵がこれまでにない術を使い、感知をすり抜けてきた。だから仕方がない……そう言い訳もできるかもしれない。だが戦場において「仕方がない」で済むことなど一つとしてない。どんな状況であっても、守れなければ意味がない。
だが、それでも。
サキルの目はまっすぐだった。その声音も、陰を感じさせることなく、ただただ強く、真摯だった。
ナバは口を閉ざしたまま、その続きを待つ。
「……父上の言いたいことはわかります。もちろん今回の奇跡は、生涯忘れません。でも、私がどれだけ働こうと、結果として大切な人を失いました。もっと強ければ、あの悲劇は防げたかもしれない。だから私は、今の自分で満足するつもりはありません。これからも皆と共にこの世界を生きるために、もっと強くなります。必ず」
最後には笑顔を添えて、サキルは力強く言いきった。
弱気になっていたのは、むしろナバの方だったのだろう。無意識のうちに、未来への不安に囚われていた。
「……ああ、そうだな。お前にも、そして皆にも、これからさらに大きく躍進してもらわねばな」
再びサキルの頭を撫でる。その手に込められたのは、信頼と期待。いずれ至らぬ部分も出てくるだろうが、サキルたちはそれを補い合い、互いを支えてゆくだろう。
「ということで——先に行って、歓待の準備を整えておくぞ。我が子らよ」
ナバの最後の言葉は、宴の場にいる全員へと向けられた。
注がれる視線に、皆が気づいていた。ナバとサキルの対話に誰も口を挟まなかったのは、その真剣さを察し、敢えて空気を乱さぬようにしてくれていたのだろう。
彼らの優しさに、ナバは目を細めた。
「ヒュー、まさかここまでとはな。意外と胸もあって驚きだ。あの武器があれば天下無双のナバ様も落とせるかもな。頑張れよ!」
「残念美人かと思ってたけど、本気出したな!でもその男っぽい言動はもうやめとけよ。それさえなければいける!」
「うるさいぞスレッド、ケイル!次の作戦で無茶な戦場に放り込んでやるからな!」
「怖い怖い」
「まぁ次はナバ様の指揮下に入るんだから、フェインの命令で動くとは限らないけどな」
「お前ら……!」
どうやら何かが起きているようだった。フェインをからかいながら、皆が笑っている。
「まぁまぁ、フェイン。二人とも褒めてるんだ。僕も驚いたよ、こんなに綺麗になるなんて」
「そうですよ!本当に綺麗です!私は最初からわかってました!フェインはおめかしすればこんなにも美人だって!」
「ホーキフ……っていうかリセ、ちょっと口調が変だぞ。でも、そうか……それは、良かった……。いや、“良い”ね。問題はナバ様の反応だけど……」
——何をしているのだろう?
気になったが、フェインは皆に囲まれていて姿が見えない。
「見れば分かりますよ。いや、ぜひ見てあげてください」
サキルがこちらを見て、笑みを浮かべてそう言った。
「フェイン、恥ずかしがっても仕方ないぞ!」
その言葉が最後の一押しだったのだろう。フェインを囲んでいた者たちが左右に退くと、ついに彼女の姿が現れた。
——そこには、女神と見紛うほどに美しい女性がいた。
整った顔立ち、大きく丸い翡翠色の瞳、紅を引いた小さな唇が優雅な印象を添える。小柄ながらしなやかな肢体は華奢さを感じさせず、女性らしい曲線を宿していた。浅葱色に花模様をあしらった布衣がその美しさをさらに引き立て、白くきめ細かな肌が宴火のもとに浮かび上がるその姿は、もはや人ならざる美とさえ言えた。
「…………」
ナバは言葉を失っていた。口をパクパクと動かすだけで声が出ない。
「ど、どうですか?ナバ様……?」
フェインが恥じらいながらも、恐る恐る問いかける。
「ど、どうと言われてもな……た、ただただ綺麗としか……」
ナバは動揺しきっていた。決して女性慣れしていないわけではないが、これほどまでに常識を逸した美しさを前にしたことはなかった。しかも普段のフェインとの落差があまりにも大きかった。
彼女の普段の姿を知っていたからこそ、その変化に衝撃を受けたのだ。
「……ナバ様の好みに合いませんでしたか……?」
フェインはナバの動揺を誤解し、不安げに声を沈めた。普段なら彼の反応から察していたかもしれないが、今は自分も動揺していた。
「い、いや違う、そうじゃなくてだな……。いや、それも違う。すまん、フェインがあまりに綺麗で見惚れてしまって……言葉が出なかっただけだ。——とても、綺麗だよ」
「わ、私に……見惚れて……」
ナバは頭をガシガシと掻きながら、率直に惚けていたことを認めた。それを聞いたフェインは顔をさらに紅く染め、小さく呟いて俯く。ナバは再び、その姿に目を奪われた。
「…………」
「…………」
沈黙がふたりの間に流れる。初々しく、いじらしい時間だった。
だが、ふとフェインが息を呑み、真剣な表情へと変わる。
「ですが……ナバ様は国を背負う大将軍です。女性との関わりも多いでしょう……。その……既に、決まったお相手など……いらっしゃるのでしょうか……?なら私は後妻でも妾でも構いませんので……」
先ほどとはまるで違う意味で、フェインはおそるおそるナバの顔色をうかがいながら問うた。微かに震える腕が、彼女の不安と恐れを雄弁に語っている。
「いない……いるわけがない。あの日の約束を、今まで一度だって忘れたことはない」
だからこそ、今すぐにでも想いを伝えたかった。ずっと、ずっとこの瞬間を待っていたのだ。
「約束……覚えてくださったんですね……」
フェインは涙をこぼしながらも、精一杯の泣き笑いを浮かべた。その姿があまりにも美しく、ナバの中の理性は崩れ去った。——本当は、城に戻り正式に皆を迎えてから言うつもりだったのに。
「フェイン、俺の嫁になってくれるか?こんな三十半ばのオッサンですまないが、命に代えても必ず守ってみせる」
「……私が恋い慕うのは、ナバ様ただお一人です。だから……ずっと傍らにいさせてください」
距離は、もう息が触れるほど近い。そっと近づいたフェインからは、ほのかに甘い香りが漂い、大きな翡翠色の瞳に吸い込まれそうになる。彼女が目を閉じ、唇を寄せてくると、ナバもそれに応えるように顔を近づけ、唇を重ねた。
——柔らかく、とろけるような感触だった。
甘美なひとときを味わいながらも、ナバはふと気づく。
——周囲に、皆がいたのでは?
接吻を終えるや否や、慌てて辺りを見渡す。
ニヤニヤニヤニヤ。
全員が遠巻きにこちらを見ながら、にやついていた。
「お……お前ら、こ、これは見世物じゃないぞ!」
慌てて叫ぶも、どもったせいで威厳は台無し。完全に動揺しているのがバレバレで、無様を晒してしまった……と思ったが。
「うーん、でもフェインの幸せそうな顔を見たらなぁ。なぁ?」
「そうだな……本当に良かったって、素直に思えるよな」
皆は笑いを収め、温かく頷き合っていた。そして——
「素敵……」
「うんうん、フェインの想いが叶って良かったよ。ナバ様とフェイン、お似合いだよ」
「……ああ、良かったな、フェイン」
ホーキフもリセも、サキルも、心から祝福してくれている。
——けれど、それはそれでやっぱり恥ずかしい。
ナバは照れくさそうに頬をかきつつ、皆に向けて言った。
「ありがとう、皆。よし、式は皆の傷が癒えてからだ!その時は酒も飯も存分に振る舞うぞ!それまで楽しみにしておけ、我が子らよ!」
「おおおおおおおおおおおお!!!!!」
戦の鬨の声よりも力強く、皆の歓声が大地を揺らした。その現金な団結ぶりにナバは苦笑しつつ、少し落ち着いてから口を開いた。
「それでは——行ってくる。盛大に迎える準備と、式の準備を頼んだぞ」
本当はもっと皆と語り合いたかった。フェインに触れていたいという煩悩も、ほんの少しある。だが、またすぐに会える。今度は同じ釜の飯を食う仲間として、いくらでも話す時間があるのだ。
そう心に言い聞かせ、ナバは無数の歓声を背に、ラクス城の門を後にして駆け出していった。




