絶対に負けられない戦争⑤ 決着
「報告!ホーキフかサキル、どちらかがこちらに向かっています……いや、サキルです!サキルが接近中!」
「……なぜだ、なぜ戻ってきた……」
フェインは感知部隊のレイグからの報告を聞き、理解できぬまま唇を噛み締める。
ホーキフとリセを送り出し、戦況の優位を確保したはずだ。ならばなぜ、今サキルは本陣へ戻って来ようとしているのか。
「……まさか理解できなかったわけじゃあるまい。いや、サキルが誤った判断を下したとしても、ホーキフが止めたはずだ……。なのに、なぜだ……」
サキルは戦術理解に長け、常に最適解を導き出す。
今回も、追撃してくる敵軍への迎撃策は彼の助言を元に立案された。ホーキフもまた同等の信頼を置く仲間だ。そんな二人が無策に行動するはずがない。
「……となると、何かを――俺が見落としているというのか」
フェインは静かに息を吸い、盤面を再構築する。敵の動き、自軍の動き、全てをもう一度なぞり、読み直す。
そして、ある一つの仮説が脳裏に浮かびかけた。
「まさか……いや、だがそれをサキルが“感知”するのは不可能なはずだ。感知できないからこそ脅威なのだ」
最悪の仮定――敵軍が再び感知をすり抜け、背後から襲来したという推論は、理論上破綻していた。
しかし、ふと胸裏をよぎるもう一つの可能性があった。
「本能……そうだ、サキルは何度も“夢”や“予感”を的中させてきた。偶然とは思えない」
論理ではない。だがこの理不尽な世界で、すべてが理詰めで動くはずがない。
「だとすれば……!」
フェインは恐る恐る背後を振り向いた。そして、遠くに、確かにそこにある――
幻ではない、感知をすり抜けた敵軍の姿。
「くっ……背後に敵影!全軍、備えよ!」
このタイミングで背後を取るなど、こちらの動きを事前に読んでいたとしか思えない。
――いや、読まれていたのだ。形成不利を覆すことばかりに囚われ、敵の次の一手に気を払えなかった。
「“感知無効化は一度きり”など、誰が決めた……」
悔しさが胸を焼く。あの人に会うための最後の戦で、何という失態。
だが嘆いている暇はない。敵軍との距離は百メートル――まだ間に合う。
「まだ下を向くには早い!前後に注意を払い、九時方向に退避!今すぐだ!」
ようやく本陣に漂う絶望の空気に気づき、声を張り上げて味方を鼓舞する。
動揺を抑えるには困難があったが、ナバの想いを背負ったこの戦において、怯むわけにはいかなかった。
「第一、第二部隊、遠距離魔術隊、術式構え!」
退却陣形への切り替えを完了した、その直後――不気味な声が新たに現れた敵軍から響く。
空気が揺れ、魔力の膨張と共に大規模術式の気配が迫る。
「まさか……後方に防壁を!」
「撃てぇ!!」
「しまっ……!?」
命令を叫ぶが、それよりも早く敵の術式が解き放たれた。
大地がうねり、怒涛のごとき土砂が津波のように押し寄せる。
「早く、防壁をっ!」
百メートル以上離れていたはずの距離が、わずか数秒で縮められる。
眼前に迫る圧力に皆が思考を奪われ、誰一人として動けない。
フェイン自身が防壁を張る選択肢もあった。だが、今となっては――もう、遅かった。
――ごめん、ホーキフ。ごめん、リセ。ごめん、サキル。ごめん、リガイル。ごめん、みんな。そして……ナバ様、ごめんなさい。また、あなたに会いたかった。
その想いは赦されるだろうか。大切な人々への謝罪、走馬灯のように浮かぶ光景、それらすべてを、怒涛の土石流が容赦なく飲み込んでゆく。
フェインは、目を閉じた。
――だが。
「……なっ、サキル!?」
次に来るはずの衝撃が訪れず、不思議に思って目を開けたその時、彼女の視界に飛び込んできたのは、一人の青年の背だった。彼が土石流とフェインたちの間に立ちふさがり、圧倒的な破壊を防ぎきっていたのだ。
「よく来てくれた。本当に……助かった」
どのような方法を用いたかはともかく、まずは礼を述べるべきだった。彼が駆けつけなければ、敗北は確実。敵の策謀に気づくことすらできなかった。
「間に合ってよかった……と言いたいところだけど……ぐっ、長くは保たない」
「いや、十分だ。待っていろ。――皆の者、サキルの奮闘を無駄にするな!今すぐ防御術式を準備せよ!」
フェインの声が響くと、呆然としていた兵たちが我に返り、次々と術式の構築を開始する。フェイン自身も、指揮を執りながら術式を組み上げていた。
「サキルの前面には防壁を展開するな。その一箇所を除き、彼が張った防壁の背後に密着して多重の土壁を形成しろ!」
的確な命令が飛ぶ中、左右に幾重もの土壁が隆起する。サキルはそれを確認し、静かに後退。そしてすぐさまフェインが隙間を埋めるように術式を発動し、前線を覆う重厚な壁が完成した。
「どんな手を使って防壁を展開したのか、聞きたいところだが……今は後にしておこう」
「いや、単純だ。新たな力を得たばかりだよ。ホーキフはまだ知らないが……制御は難しい。慣れていないからな。……それと、リガイルのことだけど……」
「……それは後にしてくれ。すでにすべて理解している。それよりも、今のでサキル、お前の力がよくわかった。お前が何かを秘めていることは……信じていた」
その時、背後の破砕音がようやく止んだのを確認し、フェインは即座に後方の感知部隊へ指示を飛ばす。
「レイグ、敵の数は感知できるか?」
「はい!背後から接近中の敵兵はおよそ五百!十時から二時方向まで、すでに包囲網が完成されています!」
「やはり……こちらが敵の存在を認知すれば感知できる仕掛けか。何か術式による妨害か……いや、今は後手に回る暇はない。左へ逃げるぞ!サキルは三十名を率いて、リセとホーキフを連れてこい!」
だが。
「駄目です!敵の包囲の方が早い、逃げきれません!」
――遅すぎた。もはや後方は半円状に囲まれており、前方にはホーキフやリセが必死に応戦している最中。万が一前進しても、敵軍が挟撃に転じれば戦場は混乱の極みに至る。
さらに奥にはリガイルが孤軍奮闘している。今はまだ持ち堪えているとしても、それも時間の問題だ。あるいは、すでに――
こうなれば、強引に道を開くしかない。
だがフェインは自覚していた。今、自分がリガイルに代わり、皆の精神的な支柱となっていることを。ここで自らが離れれば、軍の統制は崩壊する。できることなら命を賭して道を切り開きたかったが、それは許されない。
――いや、もう一人いる。支柱になれる存在が。
圧倒的な本能による感知能力でこの場に駆けつけ、新たな力で皆を救った青年。敗北寸前だった軍を再び立たせた、サキルが。
ならば、自分が囮にならずとも、軍は崩れない。そう判断しかけた、その瞬間だった。
「フェイン、俺が囮になる。この能力があれば、ある程度は耐えられる。この中で、俺が一番適任だ」
「――……」
思索の末に出した答えを、まさかの形で否定され、フェインは思わず言葉を失った。サキルの言葉に、迷いは一切ない。
「待て、早まるな! お前は力を得たばかりだ。ナバ様のもとに戻れば、いくらでも伸ばすことができる。それに……サキル、お前には俺には持てない大きな夢がある。それを、リガイルもお前に託したんだ」
「それでも、聞けない。確かにリガイルは俺に希望を託した。でも、それは『託された』だけだ。次は、俺が希望を渡す番だ。フェイン――お前に。それに、ナバ様への想いは、フェインのほうが何倍も強い」
「それは……」
咄嗟に反論できなかった。彼の言葉が正鵠を射ていたからだ。諦めきれない――その想いを、否定できなかったから。
「もう時間がない。早い者勝ちってやつだ。……気休めは言わない。けど、生き残るために、全力を尽くす」
「ま、待て、せめて兵を何人か――」
「頼む、フェイン。行かせてくれ」
背を向けて走り出そうとするサキルに、フェインは思わず手を伸ばす。だが、彼の意志はあまりにも固かった。
「それが最善じゃないことくらい、フェインもわかってるはずだ。だから、一人で行かせてくれ。壁で敵の意識を俺に集中させて、時間を稼ぐ」
フェインが囮となるのが悪手であることは、少し考えれば明白だった。
サキルの力は防御に特化している。壁を生み、敵の攻撃を防ぐことに秀でてはいるが、攻め手は自分自身しかいない。別の攻撃手が共にいれば、攻守のバランスは取れるだろう。だが、五百の軍勢に立ち向かう中で「一」が「二」や「三」になったところで状況は大きくは変わらない。
加えて、誰かが同行すれば彼はその者を護ろうとし、結果として判断や行動を鈍らせてしまう。優しすぎるがゆえに――それが彼の長所であり、弱点でもあった。
「生きて……戻ってきてくれ……」
フェインは願いを込めて背を見送る。だが、サキルはその場で立ち止まり、虚空を見据えるように敵軍の後方へと鋭く視線を向けた。
「何を……」
「なっ、この反応……まさか……」
言葉を継ごうとしたその時、隣にいたレイグが何かを感知したように同じ方角を振り向いた――その瞬間、
「――!!??」
轟音とともに戦場を切り裂く圧倒的な豪炎が迸り、敵軍を朱に染め上げた。肉が焼け、焦げ落ちる匂いが一気に立ち込める。
そして、刹那の後に現れたのは、命を奪われ損ねた哀れな兵たちが地を這い、苦悶に喘ぎ、世界を呪うかのような壮絶な光景だった。
まさしく地獄絵図。
だが対照的に、フェインたちには一切の被害がなかった。炎は敵軍だけを焼き尽くし、そして一瞬で消え去ったのである。
この圧倒的な火属性魔術を放てる者など、サキルの知る限り――ただ一人。
「来てくれたんですね……ナバ様……」
呟くフェインの声は、あまりの安堵と感動に満ちていた。思わず口調が女に戻ってしまうほどに。
ハッとしてサキルを見れば、彼は静かに微笑みを浮かべてこちらを見ていた。
そして左隣に首を向けた次の瞬間――
そこに、一人の男の姿が飛び込んできた。
「無事そうだな、サキル。間に合ってよかった」
——その声は、狂おしいほどに愛おしかった。低く、深く、強く、優しく、すべてを包み込んで、フェインの胸に巣くっていた緊張と絶望を一瞬で安堵へと変えていく。
サキルにかけられたその声は、離れたフェインの耳にもはっきり届いた。
剛毅な顔立ちに刻まれた無数の小さな刀傷。無表情でいるだけで威圧感を与える男が、わずかに微笑みを見せただけで、そのすべてが絶対的な安心感に変わるのだから不思議だった。漆黒の軽鎧が放つ鈍い光さえも、今は頼もしさを宿しているように見える。
「来てくれてありがとう、父さん。本陣は……何とか無事だよ。でも、前方ではまだホーキフとリセが戦ってる。すぐに助けに行かないと」
感謝と共に、サキルは端的に状況を伝える。言葉の節々が震えていたのは、もう二度と会えないかもしれなかった最愛の人との再会に、込み上げるものを必死に堪えていたからかもしれない。
フェインの位置からは表情こそ見えなかったが、きっと安堵に頬を緩め、嬉し涙を堪えていたに違いない——この本陣の誰もが、同じ表情をしていたように。
「状況はわかった。だが……リガイルはどうした?あいつの気配が感じられないのは不自然だ」
その問いに、サキルは一瞬俯く。遠目にもその沈痛な空気は伝わった。しかし彼はすぐに顔を上げ、正面からナバを見据える。
「リガイルは……フェインとリセが戦っている地点から、さらに前方で敵の大軍を相手に時間を稼いでくれている。あの“命を削る力”を使ってまで……」
「……わかった。ならば急がねばな」
ナバは静かに頷くと、サキルの頭に手を添えた。すべての責任を一人で背負うな——その仕草は、そう語っていた。
続けて彼は本陣全体を見渡し、状況を確認する。その過程でフェインと視線が交わり、彼は微笑みと共に頷いてみせた。不覚にもフェインの頬は熱を帯びた。
だが今は、その熱を力に変える時だった。
ナバは素早く左腰の長剣を抜き、剣先を天へと掲げる——その一動作だけで、周囲の意識が一気に彼へと集中する。自然と心が昂ぶるのを、誰もが感じていた。
数々の死地を潜り抜け、数えきれぬ敵を屠り、「大将軍」の座に上り詰めた男。言葉に頼らずとも、存在そのものが他者を鼓舞する。
まして今回は、まだ檄すら飛ばしていないのだ。
ナバは大きく息を吸い、そして——
「遅くなってすまない、待たせたな我が子らよ!だが、俺が来たからには、これ以上の犠牲は絶対に出させない。今なお窮地にあるホーキフやリセ、皆を救うのが俺の役目だ!だが俺だけでは手が足りん。だからこそ、皆の力を貸してほしい!今ここにいる全員が己の為すべきことを為せ!ゼルグ国第二将、ナバ・セルフェウスの名の下に、勝利を確約する!さあ、行くぞ——全軍、突撃!」
「おおおおおおおおっ!」
その声には力があった。包容があり、慈しみがあり、そして何よりも——勝利の確信があった。
ナバの声は広く、深く、戦場の隅々にまで響き渡り、全リガイル軍の士気を爆発的に高めた。その熱気は敵の心を凍えさせ、瞬く間に士気の高低を逆転させる。
そしてリガイル軍は、再び突撃を開始する。
もはや敵がどのような策を講じようとも無意味だった。あまりに圧倒的な力の前には、知略も数も霞んでしまう。
いつもは常に冷静に、相手の立場に立って思考していたフェインも、この時ばかりはすべてを忘れた。胸にあるのはただ一つ——確信だった。
——たった一人の存在で、すべてが変わる。
フェインは改めて思い知る。戦において、策も兵も確かに重要だ。だが最後に勝敗を決するのは、やはり“力”なのだと。
まだまだ未熟だ。それでも、大切な人の隣に立ち、役に立ち、共に戦えるなら——
この想いを糧に、どこまでも強くなってやろう。
「もう……迷わない!全員、ナバ様に続け!」
そう叫んで、フェインは皆と共に勝利への進軍を開始した。
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「ホーキフ……今のって……」
「……ああ、間違いない……はぁ、はぁ……ナバ様の声だ」
息も絶え絶えに、ホーキフとリセは互いに言葉を確かめ合う。ホーキフがリセに合流し、数にして五倍以上の敵軍を相手に、魔術の限界を超えて戦い抜いた。身体は疲弊し、魔力も尽き、兵の数はもはや三分の二以下。それでも、敵軍の半数以上を討ち減らし、今は完全に囲まれている。
だがその絶望の淵で、確かな救いの声が届いた。強く、雄々しく、そして深い慈しみに満ちた声――ナバ・セルフェウスの檄だった。
ゼルグ国の第二将である彼が来たならば、この程度の敵など脅威ではない。
「……でも」
「駆けつけてくるまでには、まだ時間がかかる。皆、気を抜かないで! ナバ様が来られるまで、持ちこたえるのよ!」
ホーキフの言葉の続きを、リセが引き取り、皆に告げる。ホーキフはなお荒い息をついているが、リセは幾分呼吸を整えつつあった。
「あの声は間違いなく《大焼炙》です! それに士気の高揚が尋常じゃありません! 隊長、どうしますか!?」
「ま、待て! 本陣の背後から我らの援軍が向かっている。まもなく到着するはずだ。それまでにこいつらを討ち取れれば……!」
「で、ですがそのままでは撤退の時間を失います!」
「くっ……」
敵将も混乱していた。だがナバの登場に動揺する今ならば、五分持ちこたえるのは不可能ではない。敵軍もまた、リセたちを憎む動機を持っているわけではないのだ。
「報告! 感知部隊より、我らの援軍が敵本陣への奇襲中に壊滅し、そのままこちらに向かっていると!」
「なっ!? ……て、撤退だ! 《大焼炙》が来るぞ! スフィンス隊とレヴィ隊は速やかにこの場を離れ、本軍に合流せよ! 殿はクレトラ隊が務めよ。敵が追撃してこない限りは後方で待機を! 今なら間に合う、急げ!」
援軍が壊滅し、こちらに迫っていると知れた瞬間、敵軍は包囲を解いて我先にと逃げ出した。追撃したい気持ちはあれど、リセやホーキフ、そして兵たちにもその余力は残されていない。
「逃すものか。貴様ら全員、この場で消し去る」
「なっ、お前は……!」
その時――背後から一つの人影が駆け込んできた。振るわれた長剣が一閃を描き、直後、圧倒的な魔力の奔流が真紅の炎となって戦場を焼き尽くす。
熱気に思わず腕で顔を庇い、目を閉じた。だがそれもほんの一瞬。そっと瞼を開けば、そこには――あたかも太陽の審判が全てを呑み込んだかのような焼き尽くされた大地が広がっていた。
原型を留めぬ骸、炭化した肉塊、焦げ跡と残骸。すべてが焼け落ち、そこに命はなかった。
その光景を生み出した男が、リセとホーキフの目の前に立っていた。彼らにとって、父とも呼べる存在。
「よく耐えたな、ホーキフ。リセ。間に合って本当に……よかった」
振り向いた彼の顔には、深い慈愛が宿っていた。あの厳しさと威圧感を湛えた眼差しは、今や静かに細められ、穏やかに二人を見つめている。
剛毅な顔立ちに刻まれた無数の傷跡。それでも彼は誰よりも優しく、そして誰よりも重い業を背負っている。
「お父さん……助けてくれてありがとう。もう……もう会えないかと思ったよ」
「私も……ありがとう。本当に……ありがとう」
二人はただ静かに感謝し、再会を喜んだ。涙と嗚咽が喉元まで込み上げるのを必死に堪えながら。
「ナバ様! ホーキフ、リセに無茶をさせてしまい、申し訳なかった。それでも、無事で本当によかった……!」
「フェイン、それは俺の言葉だ。俺の独断で二人を危険に晒してしまった。すまない」
そこにフェインとサキルも駆けつける。多くを語る時間はないが、思いは通じている。
「全く、心配かけやがって……リセ、ホーキフ」
「でも、本当に……よかった……」
「これも全部、ナバ様が来てくれたおかげだね」
兵たちも次々と合流し、口々に喜びの言葉を告げた。
「皆……サキルも……無事で……よかった……」
リセの声には、淡い想いが滲んでいた。
「うん、良かった。けどサキルは、後でたっぷり話を聞かせてもらうからな」
ホーキフもまた、やや呆れたように笑みを浮かべる。
「皆、話したいことは山ほどあるだろうが、今はなすべきことを為せ! 今なお前線で命を張って戦っている、将・リガイルの下へ一刻も早く向かうのだ! すべてが終わった後に、祝杯でゆっくり語り合えばいい。行くぞ!」
ナバの言葉が全軍に響き、兵たちは次々に戦場へ戻っていった。
「ロウ以外の感知部隊とグレイフ隊は、負傷した二人の看護を頼む。他は全員、リガイル救出に向かえ!」
その指示により、最小限の護衛と回復班が残され、ナバ率いる本隊が進軍を開始する。戦況を見極めた上での的確な判断だった。
「私たちのことはいいわ。早く……リガイルを助けてあげて」
「うん、僕の分まで……お願いだから、助けてあげて」
二人の願いに、異論を挟む者はいなかった。
「すまない、リセ。ホーキフ。またあとで」
サキルは簡潔に謝罪を述べ、再会を誓って走り出す。
「よく耐えたな。あとは任せてくれ」
フェインもまた言葉を残し、後を追った。
「サキル、フェイン、ナバ様……皆……あとは頼んだよ……」
「私たちに、もうできることはないわ。今は、無事と勝利を願いながら休みましょう」
治療を受けつつ、遠ざかる背中を見送りながら、リセとホーキフは祈るように呟いたのだった。
「サキル、君は身体強化を使ってナバ様に追いついてくれ」
「ああ、わかった。フェインも、後から来てくれよ」
リセとホーキフのもとを離れ、並走していたサキルとフェイン。だがこの速度ではナバに追いつけない。そこで、身体強化に長けるサキルが先に向かうこととなった。加えて彼は、戦場での立ち回りに慣れており、味方兵の合間を抜ける術にも長けていた。
戦場を縫うように走り抜けてゆく。前方に見えたのは、見る者に絶対的な安堵を与える、広く頼もしい背中だった。そして、その背には小柄な少年兵——ロウの姿があった。
「ナバ様、それにロウ……敵兵はどれほど残ってる?」
「……サキルか。追いついたのだな」
しかし、ロウはサキルに気づいていない様子で、前方をじっと見据えながら呟いていた。
「敵軍……撤退……でも……リガ……様の魔力が……いや、弱い……これは……まさか……」
譫言のように断片的な言葉を漏らし続けるロウ。小さな声はほとんど聞き取れず、意味も曖昧だった。一本に結われた後ろ髪が小刻みに揺れ、あどけなさの残る顔は脂汗に濡れている。表情は凍りついたままだった。
「何があったんだ、ロウ! しっかりしろ!」
「ロウ! 目を覚ませ!」
尋常でない様子にナバがまず声をかけ、続いてサキルが揺さぶりながら呼びかける。慎重に、だが必死に——。その甲斐あってか、ロウの瞳に徐々に明瞭な光が戻ってきた。
「……サキル?」
「そうだ、俺だ。何が見えた? リガイル様はどうなってる?」
ようやく意識が戻ったことを確認し、サキルは状況の説明を求めた。彼自身も感知能力を持つが、ロウほど精度が高くはない。敵の撤退以外、何も感じ取れなかったのだ。
だが——
「……全軍、停止! 逃げる敵には深追いするな!」
ナバの号令が飛ぶ。それだけで、すべてが明白となった。
彼らの進行方向、その中心に、一人の男が立っていた。既に力尽きかけ、今にも倒れそうでありながら、なおも気迫を全身に纏い、一歩たりとも崩れることなく、ただ立ち尽くしていた。
敵の血か、あるいは彼自身の血か――全身は赤黒く染まり、それらは地面に滴ることも、肌にこびり付くこともなく、凍りついたように張り付いていた。
かつて身に纏っていた軽鎧の姿はほとんどなく、右腕にわずかばかりの鉄札が残るのみ。その姿は誰の目にも痛ましく、見るからに限界を迎えていることは明らかだった。
それでも彼は気迫を放ち、なお立ち尽くしていた。が、次の瞬間、ふらりと後方に倒れ——それをナバが素早く抱き留めた。
「……すまない……すまない、リガイル。俺が……もっと早く気づいて、到着していれば……こんなことには……」
ナバは膝をつき、震える声で語りかけながらリガイルを抱きしめた。溜め込んでいた涙が一粒、また一粒と頬を伝って落ちる。
そのとき、不思議な奇跡が起こったのか、あるいは彼の執念だったのか——ナバの腕の中にいる男、リガイルの瞼が微かに震え、静かに開いた。
「……ふっ……大将軍様ともあろうお方が……なに泣いてやがるんですか……」
掠れた、途切れ途切れの声。それでも確かに、リガイルの意思が込められていた。
「ナバ!」
「「ナバ様!」」
その場にいた誰もが、彼の名を一斉に叫んだ。
するとリガイルは安堵したように、わずかに笑みを浮かべて呟いた。
「……そんなに何度も呼ばなくても……俺はここに、いるぜ……」
その言葉が可笑しかったのか、彼は力ないながらも微笑んだ。
「ナバ……お前が……居てくれなきゃ、俺は……俺は……!」
「なぁ、ナバ……俺は……あんたの支えに……なれたか? サキルを……送り出して……皆を……護れたのか……?」
ナバを見つめながら発せられた問いは、部下としてではなく、親友としての、戦友としてのものだった。
「ああ……お前が隣にいてくれたから、俺はここまで来れた。
そして今回も、お前が命を賭して敵の援軍を抑えてくれたからこそ、サキルを送り出せたし、俺も間に合った。
リガイル……お前がいてくれたから、俺たちは勝ち、皆を救うことができたんだ!」
ナバの声は、戦友への魂からの応答だった。
「ガイル兄!」
サキルが膝をつき、顔を寄せて呼びかける。
「サキル……か……」
リガイルがゆっくりと彼を認めるように視線を向ける。
「そうだよ……今回、勝てたのはあなたのおかげだ。
でも、それだけじゃない。ここまで俺が来れたのも……あなたがいてくれたから。
今まで本当にありがとう。俺にとって、あなたは兄のような、あたたかい存在だった。それだけは……どうしても伝えたかったんだ」
「……そうか……」
その応えには、もはや力が感じられなかった。
リガイルの双眸は徐々に光を失い、意識も薄れていく。
確かに、死が近づいていた——。
「リガイル……最後に、これだけは聞いてくれ。お前が遺した妻子は、必ず俺が守る。何があっても、命に代えても守り抜く。そしてお前の意思も——お前が命懸けで護ろうとしたものも、俺が一生をかけて継いでいく。だから……どうか安心してくれ」
「俺も、約束する」
だからこそ、せめて最期は安らかに——。
ナバは誓い、サキルもその言葉に続いた。
「ああ……たの……んだ……ぞ……」
――ミュリア、リーツィル……すまない。
最期に紡がれた言葉の奥、彼が愛した妻と娘の名が、確かに聞こえた気がした。
「うっ……くっ、リガイル……リガイルぅぅぅぅ!!」
ナバは、息を引き取ったリガイルの身体を抱きしめ、堪えきれぬ慟哭をあげる。
それに呼応するように、周囲にいた仲間たちも次々に嗚咽を漏らした。
その時、皆がふと心に思ったのだ。
——こんなふうに、誰かに惜しまれ、看取られて死ねるのなら、それも悪くないと。
こうして、大きすぎる犠牲を払いながらも、
絶対に負けることの許されなかった最後の戦は——
サキルたちの、確かな勝利に終わったのだった。




