イフィルド鎮圧戦⑤
サキルが後方で奇襲部隊の迎撃に駆け出した頃、最前線たる両翼の戦局は、それぞれ全く異なる形の地獄へと変貌しつつあった。
右翼——ゼルグ軍精鋭部隊。
そこにあるのは、左翼のような派手な破壊の応酬ではない。圧倒的な、どう足掻いても超えられない「壁」を前にした果てしない徒労と、真綿でじわじわと首を絞められるような、息の詰まる緩やかな絶望だった。
「ハァッ……ハァッ……!どうなってる……ッ!」
アーヴィルは肩を大きく上下させ、荒い息を吐きながら、限界まで稼働させた炎の剣を構え直した。
額から止めどなく流れる汗が目に入り、視界を赤く滲ませる。だが、その汗を拭うための一瞬の瞬きすら惜しかった。
限界稼働する自身の剣が放つ熱で肺が焼け焦げるように熱いが、目の前に立つ無表情の男——グレイスから一瞬でも目を離せば、次に行動を阻まれるのは自分の命だという確信が、彼を極限の緊張状態に縫い留めていたのだ。
先陣を切り、一切の気配を絶って死角から神速の一撃を放った《黒蛇》セリムは、その最高級の短剣をへし折られた直後に首を刎ねられ、既に泥の中に事切れている。
彼だけではない。残る猛将たちも、幾度となく必殺の連携を仕掛けた結果、息も絶え絶えの満身創痍に陥っていた。誇り高き精鋭たちの鎧は凹み、自らの血と泥で汚れきっている。
「おおおおおッ!! 砕けろォォ!!」
沈みかけた戦意を無理やり引き上げるかのように、《焔斧》バシクが、全身の筋肉を限界まで軋ませながら再度跳躍した。
自らの命の炎そのものを燃やすかのように、尋常ならざる創力を込めて紅蓮の炎を巨大な斧に纏わせる。自身の巨体が持つ圧倒的な重力と、はるか上空からの落下に伴う遠心力、その全てのエネルギーを刃の一点に乗せた必殺の一撃を、眼下のグレイスの頭上へと叩き落とす。
それは城門の分厚い鉄扉すらも紙屑のように粉砕し、大地にクレーターを穿つであろう、まさに隕石の如き一撃だった。
カァァァァァンッッ!!!
耳をつんざくような、戦場にはおよそ不釣り合いな甲高い激突音が響き渡る。
だが、結果はこれまでと同じだった。
グレイスが上空へ視線すら向けず、ただ無造作に指を一本突き上げただけで、隕石の如き炎の斧は彼に触れることすらなく、その数センチ手前でピタリと完全に停止したのだ。
パリィィィンッ!
「が、ああああッ!?」
グレイスの『絶対防御』は、ただひたすらに、理不尽なまでに「硬い」空間だ。
そこには、相手の運動エネルギーを魔法のように反射するような複雑なギミックや術式など一切存在しない。ただ、絶対に壊れず、絶対に揺るがないという絶対的な硬度があるのみ。
だが、物理法則において「絶対に動かない硬い壁」に全力でぶつかるということは、自ら肉体を壊しにいくようなものだ。
極限まで加速したバシクの剛力と、それに耐えうるはずだった最高級の創具である大斧。それが「絶対に動かない空間」に全力で激突した結果、行き場を失った運動エネルギーは全て、攻撃したバシク自身へと牙を剥いた。
斧の分厚い刀身そのものが自身の生み出した衝撃に耐えきれずに無惨に砕け散り、逃げ場を失った衝撃の反動が手を通じてバシクの両腕へと逆流する。メチャクチャな音を立てて腕の骨が砕け、限界まで膨れ上がっていた筋肉が内部からズタズタに引き裂かれ、バシクの巨体が無様に弾き飛ばされた。
「バシク!!」
「よそ見をしている余裕があるのか?」
血を噴いて転がる戦友の名をアーヴィルが叫ぶ。
その瞬間、グレイスが音もなく距離を詰めていた。
戦場を駆けるようなステップも、武術の達人のような鋭い突きも、彼には必要ない。グレイスはただ「歩きながら」、ダイヤモンドを遥かに凌駕する硬度に硬化させた空間を纏った腕を、邪魔な草木を払うかのように無造作に振るうだけだ。
たったそれだけの動作が、質量を持った不可視の鉄槌となって、次々とゼルグの精鋭たちを薙ぎ払い、吹き飛ばしていく。
「ブレイル! 足止めしろ!」
「やってる! だが、こっちの創力が保たねえ……ッ!」
ブレイルが顔を土気色に青ざめさせ、悲鳴のような声を上げながら地面を操作する。グレイスの周囲の土を流動させ、底なしの泥沼に変えようと試みる。
いかに空間を硬くして身を守ろうと、立っている足場ごと地の底へ沈めてしまえば、物理的に動きは止まるはずだ。
しかし、ブレイルの必死の抵抗も虚しく、泥沼と化した地面の上を、グレイスは何事もなかったかのように歩みを進めてくる。
彼の足元——靴底の数センチ下の空間だけが、常に強固な石畳のように硬化しているのだ。彼は泥に足を取られることすらなく、自らが見えない硬質な橋を架けるようにして、底なし沼の上をゆっくりと、だが確実に距離を詰めてくる。
打開策が見当たらない。
こちらが自らの命を削って全力を出せば出すほど、自慢の最高級の武器が砕け散り、反動で自らの肉体が破壊されていく自滅の道を辿る。かといって攻撃の手を休めれば、絶対に壊れない装甲車のような男が歩み寄り、一方的に蹂躙される。
どう足掻いても詰んでいる。一歩、また一歩と後退を余儀なくされるゼルグの精鋭たち。
体力が削られ、創力が枯渇し、何より「何をどう工夫しても、相手に傷一つつけられない」という圧倒的な事実が、彼らの誇り高き戦意をゴリゴリと削ぎ落としていく。
グレイスという男の存在そのものが、彼らの心に絶望という名の猛毒を、ゆっくりと、しかし確実に致死量まで注ぎ込んでいるかのようだった。
「クッ……!燃え尽きろォォッ!」
絶望を取り払うようにアーヴィルは血反吐を吐きながら、限界を超えて白熱する炎の剣を振り下ろした。
だが、グレイスが鬱陶しそうに腕を振るうだけで、その炎ごと大気が圧縮され、見えない鉄槌となってアーヴィルの身体を激しく打ち据えた。
「が、はッ……!」
アーヴィルは泥水の中を数メートル転がり、激しく咳き込む。肋骨が折れ、視界が明滅する。
立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
そのアーヴィルの頭上へ、グレイスがゆっくりと無慈悲な拳を振り上げた。次の一撃が振り下ろされれば、アーヴィルの頭蓋は空間ごと硬化された拳によってトマトのように潰されるだろう。
——ここまでか。
アーヴィルが死を覚悟し、歯を食いしばった、その瞬間だった。
「ぐぅぅらぁぁぁぁぁ!!」
側面から、裂帛の雄叫びと共に十を超える巨大な石礫が砲弾の如く飛来し、グレイスの全身を包み込むように襲いかかった。
ガガガガガガッ!!!
石礫はグレイスの空間装甲に激突して次々と粉砕されるが、その質量と衝撃の連続が、ほんの一瞬だけグレイスの拳の狙いを逸らさせた。
そのコンマ数秒の隙に、アーヴィルとグレイスの間に割って入る巨大な影があった。
「遅れちまって悪かったな、アヴィ!!」
土の創術で両腕を岩のように分厚く硬化させた大男——スレイ・デイルだ。
彼はアーヴィルを庇うように立ち塞がると、グレイスの振り下ろした拳を、交差させた硬化腕で真正面から受け止めた。
「ぐ、おおおおおッ!?」
ドゴォォォォン!! という轟音と共に、スレイの足元の地面がすり鉢状に陥没する。
岩のように硬化させた腕の表面がひび割れ、凄まじい衝撃がスレイの巨体を軋ませた。だが、彼は血を吐きながらもギリリと歯を食いしばり、決してその場から一歩も退かなかった。
「ス、レイ……!?」
「ハッ、相棒が死に掛けてんのに、寝てられるかよ……ッ!」
満身創痍でありながらも、スレイの瞳には決して折れない強靭な闘志が宿っていた。
だが、グレイスの絶対防御は健在だ。彼がさらに押し込もうと腕に力を込めた、その時。
フィン!
空気を鋭く裂く音と共に、金色に煌めく雷の軌跡がグレイスの死角——真後ろから襲いかかった。
「——させないわよ!」
凛とした声と共に戦場に舞い降りたのは、ユイン・レイラー。
彼女は右手で雷を帯びた長剣を構えながら、左手の指先をきらめかせていた。その視線の先では、雷撃を帯びた短剣があたかも意志を持つかのように宙を舞い、グレイスの背後を正確に狙い撃っている。
長剣と短剣を電磁力でリンクさせる、彼女特有の遠隔操作攻撃だ。
キンッ! カキンッ!
グレイスは背後からの短剣の奇襲すらも、硬化した空間で容易く弾き落とす。
だが、ユインの狙いは「斬る」ことではなかった。
「目障りなら、これでどう! ——術式連動!」
ユインの叫びと共に、彼女の右手の長剣と、弾かれた短剣の間で強烈な電撃が走り、一つの回路が繋がる。
直後、二つの剣が周囲の視界を真っ白に焼き尽くすほどの、爆発的な閃光を放った。
「チッ……」
物理的な干渉を一切受け付けないグレイスの絶対防御であっても、「光」そのものを完全に遮断することはできない。
不意の強烈な目眩ましに、グレイスは初めてわずかに顔をしかめ、動きを止めた。
「今よ、スレイ!!」
「おうッ!!」
光の中で視界を奪われながらも、本能と感覚だけで敵の位置を察知するユインの指示に、スレイが呼応する。
スレイは硬化させた腕の力を一気に解放し、右手の大剣でグレイスの身体を無理やり弾き飛ばすように力任せに薙ぎ払った。
もちろんグレイスに傷一つ負わせることはできない。だが、その巨体から放たれた渾身の斬撃の「押し出す力」によって、グレイスの身体は数メートル後方へずり下がった。
光が収まる頃には、アーヴィルの前に、大剣を構えたスレイと、雷を纏う双剣を構えたユインが、両翼を守るように立ち並んでいた。
「……たく、無理しやがって。俺たちが来るまで大人しくしてればよかったのによ、アヴィ」
「本当よ。私たちが駆けつけなかったら、今頃どうなっていたことか」
スレイが荒い息を吐きながら悪態をつき、ユインが勝気な笑みを浮かべて肩をすくめる。
絶対的な死の淵から引き上げられたアーヴィルは、頼もしい戦友たちの背中を見上げ、口の端に不敵な笑みを浮かべた。
「……遅いぞ、お前ら」
「ハッ、言うじゃねえか」
傷だらけの精鋭たちが再び立ち上がる。
グレイスという理不尽な壁は未だ健健であり、戦況が絶望的であることに変わりはない。
だが、死線を超えて駆けつけた二人の勇将——泥臭く決して倒れない盾たるスレイと、雷の如き速さと機転で盤面を乱すユインの参戦が、凍りついていたゼルグ軍の戦意に、再び熱い反撃の火を灯したのだった。
***
一方、左翼——エイリュウ軍。
静かな絶望が支配する右翼とは対照的に、こちらは文字通り血と泥に塗れた、終わりの見えない泥試合へと発展していた。
「あははははッ! 逃げんなよォ、お兄さん!!」
ズガァァァァン!!
ディアグの巨大な魔手が地面を叩き割るたび、強烈な局地地震のような揺れが走り、クレーターが生まれ、土砂がスコールのように降り注ぐ。
エイリュウはその暴風と飛礫の中を、泥だらけになりながら紙一重のステップで回避し続けていた。
汚れ一つなかった彼の軍服は、今や見る影もない。赤黒い土泥と、ディアグが撒き散らす紫色の瘴気によってドス黒く汚れきっていた。
「ゲホッ……ハァッ……、バケモノが……無尽蔵か……!」
エイリュウは肺を内側から焼かれるような不快感に顔をしかめながら、泥の混じった唾を吐き捨てる。
剣を通さない魔手の圧倒的な硬度。直撃すれば一撃で肉塊に変わる理不尽な質量。そして、呼吸するだけで細胞を蝕み、急激に体力を奪っていく紫の瘴気。
だが、エイリュウとてただ防戦一方だったわけではない。
「そっちこそ、随分と息が上がっているじゃないか……!」
エイリュウが地を蹴り、極限の踏み込みから放った《白嵐》の一閃。
それは防ぎようのない魔手を真正面から狙うのではなく、巨大な右腕を振り抜いた直後に生じる「関節の隙間」や、瘴気の流れがわずかに薄くなる「死角」を縫うようにして、少年の生身の肉体を正確に削り取っていた。
「いッ……たァい!! 痛い痛い痛いィ!!」
ディアグの左肩から鮮血が噴き出す。
エイリュウの放った何十、何百という斬撃は、確かに少年の体を執拗に切り刻んでいた。
——だが、問題はそこからだった。
「……でも、すぐ治るもんねェ!」
ジュゥゥゥッ!
不気味な水蒸気の音と共に、深く切り裂かれたはずのディアグの傷口から肉芽が蠢き、瞬く間に傷が塞がっていく。
常軌を逸した「超速再生」。どれだけ血を流させようと、数秒後には真新しい皮膚が再生し、何事もなかったかのように破壊の暴力を再開するのだ。
「……斬っても無駄か。厄介極まりない」
エイリュウは忌々しげに舌打ちをする。
子供の癇癪を、災害クラスの質量と不滅の肉体で引き起こすような凶行。
ディアグは激怒しながら両手(生身の左手と魔手の右手)で手当たり次第に周囲の岩盤を引き剥がし、エイリュウに向けて砲弾のように乱れ撃つ。
「チッ……!」
エイリュウは剣を振るって迫り来る岩を両断するが、その視界が一瞬遮られた隙を突き、戦車のような勢いで突進してきたディアグの魔手が、彼の身体を掠めた。
ザシュッ!
「っと……!」
エイリュウは直撃のコンマ一秒前に自ら後方へ跳躍し、威力を完全に殺していた。魔手の硬質な表面が、彼の脇腹の軍服を裂き、薄く皮膚を削り取るに留まる。
骨にも臓器にも異常はない。ただの「かすり傷」だ。
だが、そのかすり傷の風圧と衝撃だけで、エイリュウの身体は数メートル弾き飛ばされ、泥水の中に激しく転がされた。
「あはッ! ちょっと当たったァ!」
喜悦の声を上げるディアグに対し、エイリュウは即座に立ち上がり《白嵐》を構え直す。
エイリュウの圧倒的な剣術と見切りがなければ、とうの昔に全身の骨を砕かれて死んでいる。彼は極限の集中力をもって、あらゆる致命傷を「かすり傷」に抑え込み続けていた。
だが、そのかすり傷から侵入する瘴気と、一瞬の気も抜けない極限状態が、エイリュウの精神と体力を確実に削り取っていく。
「ハァッ……ハァッ……」
エイリュウの息は完全に上がっていた。
純白の軍服は泥と血で汚れ、数え切れないほどの打撲と裂傷が彼の体力を確実に奪っている。対するディアグも全身を《白嵐》によって何百回と切り刻まれていたが、その異常な超速再生能力によって、瞬時に真新しい皮膚を取り戻しては無邪気な暴力を振り撒いていた。
「あはははッ! お兄さん、動きが鈍くなってきたねェ! そろそろペチャンコになっちゃえ!」
ディアグが満面の笑みを浮かべ、数トンもの質量を持つ巨大な魔手を頭上高く振りかぶる。
エイリュウは迎撃のために地を蹴ろうとしたが、ダメージの蓄積と瘴気によって一瞬だけ足がもつれた。
致命的な隙。空を覆う黒い死の壁が、エイリュウを押し潰さんと落下してくる。
ーー避けなくては……いや、この気配は。
「まったく。我らが総大将にこれほどの苦戦を強いるとは。敵ながらその質量と再生力には一定の評価を下しますが……少々、躾と礼儀がなっていませんね。猛省を促すべきでしょう」
戦場の喧騒にはおよそ不釣り合いな、極めて理知的で静かな声が響いた。
直後、ディアグの側面の死角から、暴風のような風圧を伴う「巨大な鉄塊」が叩き込まれた。
刃渡り一メートル半はあろうかという長剣を、片手で軽々と振るう色白の男——ザンリである。
ゴッッッガァァァン!!
「いッッッたァい!!?」
さしもの巨大な魔手も、その常軌を逸した物理的暴力には耐えきれず、軌道を大きく逸らされて地面に激突した。激しい衝撃が走り、泥水が爆発したように跳ね上がるが、ザンリの皺一つない衣服には不思議と一滴の汚れもついていない。
「……無駄な時間。さっさと終わらせる」
ザンリの強烈な一撃によってディアグの体勢が崩れた、その僅かな意識の空白。
その影から、青みがかった黒髪を揺らし、黒の戦闘服に身を包んだキョーリンが音もなく滑り出た。
馴れ合いを好まぬ彼女らしく、そこには一切の無駄口も戦意の誇示もない。あるのは純粋な殺意の具現化のみ。彼女の双剣は、ディアグの巨大な魔手には目もくれず、死角から正確無比に少年の喉と心臓、そして魔手の関節の隙間を撫で斬りにした。
「あウッ!?」
不意の急所への連続攻撃に、超速再生が追いつくよりも早くディアグの身体が大きくよろめく。
土煙の中からエイリュウの前に歩み出たのは、後方の奇襲部隊の防衛に当たっていたはずの二人の将だった。
「遅かったなお前らーー後方の別働隊の戦況は?」
静かに問うエイリュウに対してザンリは真面目な顔つきのまま、背筋をピンと伸ばして一礼した。
「すでに制圧いたしました。エイリュウがたった一人で前線の化け物を抑え込み、我々に背後を任せるというこれ以上ない信頼を示してくださっているというのに、到着が遅れたこと、深くお詫び申し上げます」
「……敵の将が脆すぎただけ。問題ない」
キョーリンが双剣の血を無造作に振り払い、短い言葉で簡潔に告げる。
死地に駆けつけた二人の勇将。その頼もしい姿を見て、エイリュウは小さく息を吐き、口の端に獰猛な笑みを浮かべた。
「……フッ、流石だな。後顧の憂いを経ったならば、後はこのクソガキにお灸を据えて終わらせよう」
「なんなのォ! 邪魔しないでよ虫けらどもォ!!」
遊びを邪魔された子供のように、ディアグが顔を真っ赤にして激怒し、魔手を振り回して突進してくる。
だが、ここからが本当の地獄だった。
「ザンリ、正面からその大剣で受け止めろ! キョーリンは側面から再生の隙を与えずに急所を削れ! トドメは俺が刺す!」
「承知いたしました。驕った再生能力ごと、その陣形から正して差し上げましょう」
「……了解」
エイリュウの的確な指示が飛ぶ。
ザンリが巨大な鉄塊の如き長剣を振るい、正面からディアグの魔手の暴威を受け止める。だが、涼しい顔とは裏腹に、ザンリの足元の岩盤がメシリとひび割れた。さしもの剛剣をもってしても、数トンの質量を完全に相殺することはできず、押し潰されまいと拮抗するのがやっとだ。
その巨体がわずかに止まった隙を突き、キョーリンが死角へと潜り込み、ディアグの急所を正確無比に抉り取っていく。
「あははッ! ちくちくするよォ!」
だが、ディアグは混乱するどころか、三人がかりの猛攻にさらに歓喜の声を上げた。
斬った傍から肉が蠢き、瞬時に傷が塞がっていく。理知的な剛剣も、一切の無駄がない暗殺剣も、この無尽蔵の生命力の前では致命傷にすら至らない。
それでも、ザンリが無理やり大剣で魔手を弾き上げ、キョーリンの双剣がその脚の腱を断ち切って動きを「一瞬だけ」止めた瞬間。
「——終わりだ、化け物」
二人の決死の援護によって極限まで創力を練り上げていたエイリュウが、音を置き去りにした神速の踏み込みでディアグの懐へと入り込んだ。
名刀《白嵐》に、創力が極限まで圧縮されて白銀の刃と化す。
「《絶空》ッ!!」
ズバァァァァァァァンッ!!!
エイリュウの渾身の一撃が、ディアグの強靭な魔手を半ばから切断し、そのまま胴体を深く、致命的なまでに斬り裂いた。
かつてない深い斬撃。その破壊力に、ディアグの巨体が血飛沫を上げながら大きく後退し、泥水の中へと膝をつく。
「やったか……ッ!?」
兵士の一人が叫んだ、その直後だった。
「あー……痛い、痛いなぁ!! もっと遊ぼうよォ!!」
泥に塗れた怪物は、苦悶の声を上げるどころか、涎を垂らしながらおぞましい笑い声を上げた。
切断された魔手の断面から、異常な速度で赤黒い肉芽がドクドクと膨れ上がり、瞬く間に新たな異形の腕を形成していく。
「……チッ、これほどの連撃を叩き込んで、ようやく足止め程度か」
エイリュウが忌々しげに息を吐き、ザンリとキョーリンも油断なく武器を構え直す。
キョーリンとザンリの加勢。そしてエイリュウの完璧な一撃。
最高戦力である三人の将がかりで、これだけの手札を切り、連携してようやく——絶望的なジリ貧だった左翼の戦局は、ほんの僅かに反撃の糸口を掴んだ「拮抗」状態へと持ち直したのだった。
***
両翼がそれぞれの泥沼に沈みゆく中、後方の奇襲迎撃部隊で戦うサキルの白銀の瞳——風と視界を擬似共有する眼には、戦場全体の膠着状態がはっきりと視えていた。
ーー……右翼のアーヴィルにはスレイとユインが合流し、左翼のエイリュウにもキョーリンとザンリが合流しているのか。
ひとまず戦線が崩壊に向かっていないようで一安心だ。
だが、
ーーいやそれでも尚、拮抗に収まる程度とはな……どちらでも勝つのは難しそうだな。
時折右翼と左翼の化け物ーーディアグとグレイスの戦い方を観察していたが、あの化け物二人に勝てるビジョンが全く見えなかった。
ーーならばここから勝つしかない。これ以上、この場を長引かせてはならない。
サキルは小さく息を吐き、目前で狂ったように殺到してくるフィリッドとエインの死体を見据えた。
痛覚を持たず、死を恐れない亡者たち。しかし、彼らがどれほど無茶な特攻を繰り返そうとも、その動きの「癖」も、創術を放つ際の微細な「気流の乱れ」も、ここまでの死闘でサキルの眼は完全に見切っていた。
「力を温存しておきたかったが、出し惜しみもできないな」
サキルが両手を前に出し、低く呟く。
創力を練り上げると同時に両手の延長線上から彼が放ったのは、空気を極限まで圧縮し、不可視の刃として撃ち出す絶技——《斬空波》であった。
ヒュンッ! ヒュンッ!
それは一波だけではない。
無数の斬空波が、嵐となって死した英雄たちへと襲いかかる。
フィリッドの死体は瞬時に反応し、両手から《不可視の衝撃》を放って斬空波を相殺しようと試みた。エインの死体もまた、指先を指揮者のように振るい、《空間切断のナイフ》を乱舞させて風の刃を切り裂こうとする。
強力な術式のぶつかり合い。だが——。
「遅い。そこへ逃げることも、それで防ごうとすることも、すべて読めている」
フィリッドが衝撃波を放つより速く、エインがナイフを旋回させて回避したその『先』の空間に。
サキルは彼らの行動を先読みし、すでに致命の《斬空波》をピンポイントで置き去りにしていたのだ。
剣を使わない力だからこそできる芸当である。
ズガァァァァンッ!!
回避したはずの空間で、圧縮された風の刃が死体たちを無慈悲に捉える。
彼らの不可視の弾丸も、空間を削るナイフも、サキルの張り巡らせた絶対の剣線網の前にはわずかな抵抗に過ぎなかった。
無機質な肉を断つ音。重水でボロボロになっていたフィリッドとエインの肉体は、サキルの放った《斬空波》の嵐によって空中で文字通り「粉々」に切り刻まれ、ただの赤い肉塊となって荒野に散った。
「奇襲部隊の将は討ち取った! イガート将軍、あとの指揮は任せます!」
「……ふん、言われるまでもない!」
後方で扇を構えるイガートに短く言い捨てると、サキルは剣の血糊を払い、隣に立つリノルへと目配せをした。
「行くぞリノル。烏合の衆どもを蹴散らす」
「はいっ、先輩! お掃除の時間ですね!」
将を失い、陣形にわずかな動揺が生じた反乱軍の奇襲部隊。その万の軍勢の中へ、サキルとリノルは二人きりで真っ直ぐに突撃していった。
***
丁度その時だった。
膠着する両翼、そして後方の奇襲という激動の戦況を、連合軍本陣から冷徹に俯瞰していた男が動いた。
連合軍総大将、ヴェルンドである。
「……間違いない。反乱軍の中央部隊の動きが明らかに薄い。奴ら、中央の兵を削って両翼の奇襲部隊に回したな」
ヴェルンドの戦術眼が、敵の陣形の僅かな「軽さ」を確信へと変えた。
敵の策は奇襲による両翼からの崩壊。ならば、奇襲をサキルたちが食い止めている今、敵の中央は殻が薄くなった卵も同然だ。
「今こそ好機! 中央軍、総攻撃を掛けよ! 敵本陣を蹂躙しろ!!」
ヴェルンドの号令が戦場に響き渡る。
鬨の声と共に、温存されていた連合軍中央の数万の軍勢が、地鳴りを上げて反乱軍中央部隊へと雪崩れ込んでいった。
フィルダ平原の中央で、ついに両軍の主力が正面から激突する大乱戦が幕を開けたのである。
***
一方、反乱軍本陣の豪奢な天幕。
戦場全体が自らの用意した盤面通りに混乱していく様を感じ取り、タシュアは陶酔に浸っていた。
だが、サキルが死体の将を粉砕し、あまつさえ連合軍中央が総攻撃に転じたという報告がもたらされた瞬間。
「……タシュア様。中央の防衛線が突破されるのは時間の問題かと。こうなった場合、いかがなされますか?」
フォーユが静かに問いかけると、先程までの狂気じみた興奮は嘘のように消え去り、タシュアはスッと温度のない醒めた瞳に戻った。
「撤退だよ」
あまりにもあっさりとした、何の執着もない言葉。
「……撤退、ですか」
フォーユは一瞬だけ目を丸くして見張ったが、すぐに恭しく頭を下げた。
「承知いたしました。最初から奇襲が破られたら、数の少ない我らが勝てるわけもありませんね。全軍に撤退の伝令をお送りします」
フォーユが天幕の出口へ向かおうとした、まさにその時だった。
「撤退するとはどういうことだ!!」
怒髪天を衝く勢いで天幕に踏み込んできたのは、白銀の甲冑を鳴らす反乱軍総大将、クロリフィル・レイ・フィローレだった。
彼は血走った目でタシュアを睨みつけ、怒りで肩を震わせている。
「いやいや、無理だよクロリフィル君」
タシュアは椅子に深く腰掛けたまま、退屈そうに肩を竦めた。
「君も見たろ? 奇襲が破られて、中央軍は兵数を奇襲に回したせいでスッカスカだ。負ける可能性が極めて高くなったからね。これ以上の戦闘は無意味さ」
「ふざけるな! まだ中央軍が負けると決まったわけではない! 私が出る!」
クロリフィルは腰の剣の柄に手をかけ、吠えるように言い放つ。
「どのみちここで負ければ我々は終わりだ! 反逆者として一族もろとも処刑される! いや、そもそも今の劣勢は貴様らの策が失敗した結果だろうが!? 貴様らが責任を負って前線へ出ろ!!」
悲痛なまでの叫び。しかし、タシュアの顔に浮かんだのは、ひどく冷酷で、底意地の悪い薄笑いだった。
「別に、僕達は君達が勝っても負けても何も問題はないからね」
「……な、に?」
「むしろ、ここで君たちが華々しく負けてくれた方がありがたいくらいさ。それに……君は、僕の大事な親友の一族の当主だ」
親友。その言葉が誰を指しているのか、クロリフィルには知る由もない。
だが、タシュアの言葉はどこまでも上から目線で、人を虫けらとしてしか見ていない悪意に満ちていた。
「君を戦場にやって死なせるようなことは、万が一にもさせないよ。君は生きて、無様に敗走しなければならないんだから」
「……ッッ! 貴様ァァァァッ!!」
プツン、と。
クロリフィルの理性という糸が完全に切れた音がした。
タシュアの嘲笑が引き金となり、クロリフィルは自身の掌をタシュアへと向けた。
フィローレ一族。彼らはウィスレ七国において、代々『空間攻撃能力』を操る特異な血統として知られている。そして現当主であるクロリフィルは、その能力を最も顕著に受け継いでいた。
彼の掌から放たれるのは《空間の歪み》。
炎や水といった物質的な破壊ではない。空間そのものを削り取り、歪ませる理不尽な事象。その歪みに触れた物質は、人体であろうと鋼鉄であろうと、塵一つ残さずに崩壊する絶対の破壊能力である。
「消え失せろ、悪魔がァ!!」
クロリフィルの掌から、空間がメシリと嫌な音を立てて歪み、タシュアを空間ごと消滅させんと襲いかかる。
ピシリッ!
だが、その空間の歪みは、タシュアに届く手前でピタリと停止し、不協和音を響かせて空中で拮抗した。
「……落ち着いてください、当主殿」
クロリフィルの射線の前に立ち塞がっていたのは、フォーユだった。
彼もまた、片手をクロリフィルへと向けている。
フォーユもまた、フィローレの血を引く者。彼はクロリフィルの放った絶対的な崩壊の力に対し、全く同じ強度の《空間の歪み》を寸分違わずぶつけることで、互いの破壊力を空中で完全に相殺してみせたのだ。
「フォーユーーいや、クロンドル!!貴様はどこまでも……ッ!」
同じ一族の青年に奥義を防がれたことにクロリフィルは愕然と目を見開き、思わずその忌み名を口に出す。
「ありがとう、フォーユ」
タシュアは相殺されて消えていく空間の歪みを背に、立ち上がった。
そして、獲物をねぶるような冷酷な青紫の瞳で、硬直するクロリフィルを見下ろす。
「本来なら、僕に攻撃を仕掛けた時点で、人質である君の家族はただじゃ済まないものだけど……まぁ、僕も少し言い過ぎた。しょうがないから、今のは不問にしてあげるよ」
「タシュア様がそう言うのでしたら、私が捨てた名を出したことも不問にしましょう」
それは慈悲ではない。絶対的な生殺与奪の権を握っているという、残酷な事実の再確認だった。
クロリフィルの歯が、ギリリと血が滲むほどに噛み締められる。
「わかったら、早く全軍退却の準備をしなよ。総大将」
「…………ッ、承知、した」
屈辱と絶望に塗れ、総大将は深く頭を垂れた。
こうして、フィルダ平原を血で染め上げた激戦は、反乱軍の唐突な全軍撤退という形で、ひとまずの終息へ向かおうとしていた。




