イフィルド鎮圧戦②
ドォォォォォン!!
エイリュウの目の前に何かが着弾した瞬間、世界が揺れた。
大地が悲鳴を上げ、爆発したかのように隆起し、巨大なクレーターが形成される。舞い上がる土煙と衝撃波だけで、周囲にいた数十の兵士が木の葉のように吹き飛ばされた。
その土煙の晴れ間から、ゆらりと現れた影。
不釣り合いなほど巨大で、見るもおぞましい異形の右腕を引きずった少年——ディアグである。
「ねェ、君が強いって人? 壊していい? ねェ、壊れてくれるゥ?」
ドス黒く膨張し、禍々しい瘴気を撒き散らす魔手を無造作に振り翳し、涎を垂らさんばかりの満面の笑顔でディアグが迫る。
純粋な殺意。無邪気な暴威。
エイリュウは瞬時に反応し、愛剣《白嵐》を抜き放ち、防御の構えを取る——つもりだった。
だが、魔手と剣が接触するコンマ一秒手前、歴戦の将であるエイリュウの背筋を、強烈な悪寒が貫いた。
——受けてはならない。
——これは「斬撃」や「打撃」ではない。「質量」の暴力だ。
エイリュウは咄嗟に防御を放棄した。
地面を蹴り、身体を強引に捻って後方へと跳躍する。
直後、ディアグの魔手がエイリュウの残像を裂き、何もない空間を振り抜いた。
ズガァァァァァン!!
空振りの風圧。たったそれだけで、エイリュウが先ほどまで立っていた場所の岩盤が粉砕され、扇状に広がった衝撃波が後方の地面を数百メートルに渡って抉り取った。
もしあのまま剣で受けていれば、たとえ名刀《白嵐》であろうとも飴細工のように圧し折られ、自身の身体ごと挽肉に変えられていただろう。
エイリュウは冷や汗を拭うこともなく、白銀の輝きを放つ《白嵐》の切っ先を下げ、油断なく少年を見据えた。
「……ついに姿を現したな、ディアグ」
エイリュウの低い声に、少年はキョトンと首を傾げる。
「あれェ? おじさん、僕のこと知ってるのォ?」
「知らぬはずがない。だが、まさかお前のような『切り札』までもが表に出てくるとはな……。『再厄』はもはや、コソコソと隠れるつもりもないらしい。それは別として俺はおじさんじゃなくてお兄さんだ覚えとけこの化け物!」
「あはは! 隠れる必要なんてないもん! だってみんな、僕が壊しちゃうから!少しは遊んでよおじさん!」
無邪気な宣言と共に、ディアグが地面を蹴る。
その初速は、子供の姿からは想像もつかないほど速い。だが、それ以上に脅威なのは、彼が引きずる巨大な右腕の質量だ。本来なら動きを阻害するはずの数トンの重りを、ディアグは遠心力を利用した加速装置として扱っていた。
「いくよォ! ペッチャンコ!」
ブンッ! と大気が悲鳴を上げる。
横薙ぎに振るわれた魔手は、さながら攻城槌の如き質量兵器だ。
エイリュウは防御を完全に捨てた。視界を埋め尽くす黒い暴力に対し、彼は風に舞う深紅の葉のように身を翻す。
ヒュオッ!
鼻先数センチ。死の暴風が顔を掠め、エイリュウの髪が激しく煽られる。風圧だけで皮膚が切れ、鮮血が舞う。
「っと……!」
回避した直後、エイリュウは踏み込み、カウンターの一撃を放つ。
《白嵐》が描く銀の軌跡は音速を超え、不可視の真空刃となってディアグの脇腹を狙う。
だが、ディアグは笑いながら、振り抜いた右腕を無理やり引き戻し、盾にした。
ガギィィィン!!
硬質な火花が散る。
岩をも両断するエイリュウの剛剣が、ディアグの魔手の皮膚一枚を裂くことすら叶わず、嫌な感触と共に弾かれた。
「硬いな……!」
「くすぐったいよォ!」
ディアグは弾かれた反動すら利用して、体を独楽のように回転させながら二撃目、三撃目と連打を繰り出す。
ただ腕を振り回しているだけの、技術もへったくれもない攻撃。だが、その一撃一撃が即死級の威力を持っているのだ。
ドガン! バガン! ズドォォン!
地面が爆ぜ、岩が礫となって飛び散る。周囲の地形が次々と書き換えられていくほどの破壊の嵐。
エイリュウはその嵐の中を、紙一重で踊り続けていた。
右へ、左へ、時には低く這うように。
最小限の動きで回避し、致命傷を避ける。だが、その回避行動一つ一つが、極限の集中力を強いる綱渡りだ。一瞬でも判断が遅れれば、即座に死が訪れる。
ーー受けるのは論外。掠っても致命傷。斬撃も通じないか……厄介極まりない。
エイリュウの額を汗が伝う。
この魔手は、単に重く硬いだけではない。纏っている紫色の瘴気が、知らず知らずにエイリュウの肉体を蝕んでいる。
長期戦になれば、呼吸するだけで毒に侵されることになるだろう。
「逃げてばっかりでつまんないよォ! もっと遊んでよ!」
業を煮やしたディアグが、右腕を高く掲げ、怒りに任せて地面へと叩きつける。
ズゥゥゥゥゥゥン!!!
大地を伝う衝撃波が全方位へ拡散し、地割れを起こしてエイリュウの足場を崩しにかかる。
「チッ!」
足場を失ったエイリュウは瞬時に跳躍し、空中で体勢を整える。
だが、そこは空中の無防備な空間。ディアグがニタリと笑い、待ち構えていたかのように魔手を振り上げた。
「あーはァ! 虫けらみたいに潰れちゃえ!」
逃げ場のない空中への迎撃。下から迫りくるのは、空をも覆う黒い死の壁。
しかし、エイリュウの瞳に焦りの色はなかった。
「……調子に乗るなよ、ガキが」
エイリュウは空中で《白嵐》を一閃させる。
それはディアグへの攻撃ではない。何もない空気を斬ったのだ。
超高速の剣閃が生み出した圧縮空気の塊。それを足場にし、エイリュウは空中で再跳躍する——二段跳躍。
魔手は空を切り、エイリュウはその腕の上を駆け抜けるようにして、ディアグの背後へと着地した。
「えへェ? すごいね、やるねェ!」
ディアグは悔しがるどころか、さらに目を輝かせて歓喜する。
壊れない玩具を見つけた子供の、純粋で残酷な喜び。
「まだまだ! もっと壊し合おうよォ!」
「……やれやれ。骨が折れる仕事だ」
エイリュウは《白嵐》を構え直し、深く息を吐く。
その瞳は、眼前の怪物を「討つべき敵」として完全にロックしていた。
戦場の一角で繰り広げられる、人知を超えた死闘。
それは周囲の兵士たちが誰も手出しできない、二つの災害の衝突であった。
***
一方、猛将ボルドを討ち取り、破竹の勢いで進撃を続ける連合軍右翼——ゼルグ軍。
左翼が二体の怪物の激突によって膠着する中、こちらでは別の絶望が静かに幕を開けようとしていた。
総大将イガート・ヴァル・ヴィリアが、ついに動いたのだ。
彼が指を鳴らすと、本陣に控えていた四つの影が、獲物に飢えた獣のように戦場へ解き放たれた。
イガート直下の腹心たち。
平民上がりの『熾炎隊』や『綺蓮隊』が戦果を上げることを快く思わず、美味しいところを攫おうと殺気立っている四人の将である。
「退け退けぇ! 雑魚どもに用はない! ここからは我らが狩る!」
先陣を切ったのは、《焔斧》バシク・トランガス。
巨大な戦斧に紅蓮の炎を纏わせ、味方ごと吹き飛ばす勢いで反乱軍の防衛線を焼き払う。
「遅いぞバシク! 手柄は私が頂く!」
その横を疾風のごとく駆け抜けるのは、《残風》ニリウス・スヴァリス。
強化された駿馬を駆り、戦場を縦横無尽に疾走する機動騎兵の将だ。
さらに、地響きと共に進む重装の巨漢、《鉄紋》ドレアス・ムヴァールが盾で敵兵を弾き飛ばし、影に溶けるように移動する《黒蛇》セリム・ガルダが、混乱する敵将の喉を次々と掻っ切っていく。
彼らの実力は本物だった。個々の武勇に加え、イガートから与えられた最高級の創具であり、所有者の能力を数倍に引き上げていた。
敵本陣への道がこじ開けられる。勝利は目前に見えた。
——その男が、音もなく現れるまでは。
「……なんだ、貴様は」
先頭を駆けていたニリウスの馬が、何かに怯えたように棹立ちになって足を止める。
進路上の真ん中に、一人の男が佇んでいた。
戦場には不釣り合いな長い外套、屈強な肉体。
そして仮面のように感情の一切が抜け落ちた無表情な顔。
《再厄》の一員、グレイスである。
「邪魔だ! 轢き殺されたいか!」
警告に応じず、微動だにしないグレイスに対し、ニリウスは躊躇なく突撃を命じた。
愛馬の脚力を創術で極限まで強化し、自身も槍に風の螺旋を纏わせる。鉄板すら貫く貫通力を乗せた、最高速度の死の騎行。
ドォォォン!!
激突音。だが、それは肉が貫かれる音ではなかった。
巨大な城門に全速力で衝突したかのような、重く鈍い轟音が響き渡ったのだ。
「ぐ、がぁ!?」
信じがたい光景だった。
グレイスは指一本動かしていない。ただそこに立っていただけだ。
それなのに、ニリウスの槍がグレイスの身体に触れる寸前、まるで「そこの空気が鋼鉄に変わった」かのように、見えない壁に激突してひしゃげたのだ。
その反動で強化されたはずの馬の首の骨が折れ、乗り手ごと後方へ弾き飛ばされた。
「ニリウス!?」
後続のバシクたちが足を止める。
目の前には、無傷のグレイスと、無残に転がる同胞の姿。
対するグレイスは、外套の裾すら乱れていない。
「ば、化け物が……! 総員、囲め! 一斉に叩き潰すぞ!」
バシクが叫び、残る三人——立ち上がったニリウスも含めた四人が同時に動き出した。
バシクが炎の斧を振り下ろし、ドレアスが鋼鉄の盾で押し潰しにかかり、ニリウスが風の刃を放ち、セリムが背後の影から毒の短剣を突き立てる。
四方からの同時攻撃。逃げ場のない必殺の包囲網。城壁をも粉砕するほどの火力の集中。
だが——。
カァァン!! ガギィン!!
硬質な音が重なり合った。
炎の斧は虚空で止められ、熱すらも遮断された。風の刃はガラスのように砕け散り、毒の短剣はまるで分厚い装甲板を突いたかのように火花を散らして弾かれた。
防いだのではない。彼の周囲の空間そのものが、ダイヤモンド以上の硬度を持って「硬化」し、物理的な干渉を一切受け付けなかったのだ。
「……ここは通さん」
初めてグレイスが口を開いた。その声は低く、地響きのように腹の底に響く。
彼はゆっくりと右手を掲げる。ただそれだけの動作に、歴戦の猛者たる四人が悲鳴を上げて後退る。圧倒的な「格」の違い。生物としての生存本能が、逃げろと警鐘を鳴らしている。
「どいてな! お前らの手には負えねえ!」
硬直する腹心たちの間を割って、アーヴィルが飛び出した。
全身から紅蓮の炎を噴き上げ、捨て身の特攻の如く加速する。
「ブレイル、合わせろ!」
「了解!」
後方からブレイルが地面に両手を叩きつける。
《物質変換》でグレイスの足元の地面が、一瞬にして流動する泥沼へと変わり、さらにその泥が鋭利な鋼鉄の棘となって彼を串刺しにせんと隆起する。
足場を奪い、下からの奇襲。防御不能の連携。
だが、グレイスは泥沼の上に平然と立っていた。
沈まない。彼の足裏が接する箇所だけ、泥ではなく、空間そのものが硬い床となって彼を支えている。
突き上げられた鋼鉄の棘も、彼の足裏数センチ手前にある「硬化した空間の層」に激突し、ひしゃげて砕け散った。
「クソッ、ならこれならどうだぁぁ!!」
アーヴィルが吼える。
剣に埋め込まれた創具を限界稼働させ、刀身に纏わせたのは通常の炎ではない。酸素を限界まで圧縮し、鉄すらも蒸発させる白熱の極光だ。
全てを焼き尽くす一撃を、グレイスの脳天目掛けて渾身の力で振り下ろす。
ギィィィィィィン!!!
耳をつんざく高音。
アーヴィルの剣が、グレイスの頭上数センチで静止していた。
見えない壁? いや、グレイスの周囲の空間そのものが凝縮し、物理法則を無視した絶対的な硬度を持つ障壁と化していたのだ。
全力で押し込んでいるはずのアーヴィルの腕が軋み、創具である剣身がピキピキと悲鳴をあげる。高熱の炎すらも、凝固した空間の向こうへは届かない。
対するグレイスは、空を見上げる素振りすら見せない。ただ正面を見据えたまま、鬱陶しそうに呟く。
「……弱い」
グレイスが、掲げていた右手を軽く払った。
ドゴォォォォン!!
ただの「裏拳」。
しかし、拳の前にある空間を一瞬で硬化させ、それを砲弾のように打ち出した一撃だった。
至近距離でそれを受けたアーヴィルは、防御創具を展開する間もなく弾き飛ばされた。
「ぐ、がぁ……ッ!?」
「アーヴィル!」
アーヴィルの体が砲弾のように吹き飛ぶ。
だが、その瞬間を狙っていた男がいた。影に潜んでいた《黒蛇》セリムである。
グレイスが裏拳を放つために腕を振った瞬間、その身体を覆っていた空間障壁にわずかな綻びが生じるのを、彼は見逃さなかったのだ。
「隙だらけだぁっ!」
セリムが死角から飛び出し、神速の突きを放つ。
狙うは無防備な首筋。障壁の内側、生身の肉体への直撃。
切っ先がグレイスの皮膚に触れる。誰もがその首が飛ぶことを確信した。
ガギィィッ!!!
肉を断つ音ではない。
戦場に響いたのは、硬質な金属がへし折れる音だった。
「な……ッ!?」
セリムが驚愕に目を見開く。
彼の手にある最高級の短剣は半ばから砕け散り、対するグレイスの首筋には、傷一つどころか、赤い跡すらついていなかった。
生身のはずの皮膚が、鋼鉄よりも硬く変質しているのだ。
グレイスはゆっくりと視線だけを動かし、唖然とするセリムを見る。
そこには説明も、嘲笑もない。ただ、絶対的な強者の冷淡さだけがあった。
「——っ!?」
セリムが後退ろうとした瞬間、グレイスの手刀が閃いた。
ザンッ。
抵抗も、断末魔もなく。
空間ごと断ち切られたセリムの体が、声もなく崩れ落ちる。
一方的な蹂躙ではない。
遠距離攻撃は空間障壁に阻まれ、決死の近接攻撃すらも硬化された肉体に弾かれる。
傷つけることすら叶わないという、物理的な絶望。
遥か後方、安全圏である本陣からその光景を見ていた総大将イガート・ヴァル・ヴィリアは、不快そうに顔を歪め、キリキリと歯を軋ませた。
「……なんだあれは。私の手駒たちが、まるで子供扱いだと……?」
イガートの腹心たちも、アーヴィルも、ブレイルも。
右翼に集った猛者たちの誰もが、その理不尽な壁の前に立ち尽くすしかなかった。
『絶対防御』グレイス。
その能力は、あらゆる物理干渉を拒絶する最強の盾にして、不壊の鎧。
この男がいる限り、右翼からの突破は不可能——そう思わせるほどの絶望が、戦場を支配していた。
左翼では、規格外の怪物ディアグがエイリュウの進撃を食い止め、右翼では、空間そのものを硬化させる鉄壁の男グレイスが、精鋭たちの猛攻をことごとく無力化していた。
連合軍が誇る最強の両翼が、同時に、完全に機能不全に陥った瞬間である。
戦場を支配し始めたこの重苦しい閉塞感。
だが、それは決して偶然ではない。このフィルダ平原に最初の号砲が鳴るよりも前——イフィルド反乱軍の本陣、その最も奥深くにある豪奢な天幕の中で、既に「確定していた未来」だったのだ。
「——やはり、連合軍の布陣は定石通りだね。個の力が突出した戦力を両翼に配置し、数で勝る我らを一点突破で崩しに来た」
戦場の喧騒などどこ吹く風。優雅に紅茶のカップを傾けながら、青年——タシュアは卓上の戦況図を見下ろして微笑んだ。
その向かいで、彼に心酔した眼差しを向ける青年、フォーユが深く頷く。
「流石はタシュア様。開戦前から全てお見通しなのですね」
「簡単な予測だよ。向こうには『彼』がいるからね。だからこそ、こちらもそれ相応の『蓋』を用意した。右にはグレイス、左にはディアグ。この二枚のカードを切れば、連合軍の優位は完全に止まる」
ここは反乱軍の中枢。本来ならば、フィローレ家の重臣たちが作戦会議を行うべき神聖な場所である。
だが、今やそこを支配しているのは、フィローレ家の軍装すら纏わぬ、異質な存在である『再厄』の幹部たちだった。
その異常な光景に、憎悪に満ちた足音が近づく。
バッ! と天幕の幕が荒々しく跳ね上げられ、一人の男が怒号と共に踏み込んできた。
白銀の甲冑に身を包んだ反乱軍総大将、クロリフィル・レイ・フィローレである。
「……貴様ら、あれはなんだ!?勝手に兵を弄びやがって……!」
クロリフィルは、我が物顔で卓につく二人を睨みつける。その目は血走り、握りしめた拳は小刻みに震えていた。
名門フィローレ家の当主たる彼が、どこの馬の骨とも知れぬ若造に本陣を明け渡している屈辱。だが、それ以上の殺意が彼の言葉には滲んでいた。
「悪魔め……! そしてフォーユ、貴様もだ! フィローレの血を引きながら悪魔に与するとは……この一族の裏切り者がッ!」
吐き捨てられる罵倒。しかし、タシュアは柳に風と受け流し、フォーユに至っては冷ややかな視線を返すだけだ。
クロリフィルの怒りはもっともである。だが、彼はこの二人を斬ることができない。
いや、絶対に従わなくてはならない理由があった。
「言葉が過ぎるよ、クロリフィル当主。……奥方や愛娘たちがどうなってもいいのかな?」
タシュアが穏やかに、しかし絶対零度の刃のような言葉を紡ぐ。
その一言で、クロリフィルの激情は強制的に凍りついた。
今回の反乱は、フィローレ家の意思ではない。タシュアたちがフィローレ一族の女子供——未来ある血脈の全てを人質に取り、クロリフィルを脅迫して無理やり起こさせたものなのだ。
「くッ……、貴様ら……ッ!!」
「憎んでくれて構わないよ。君はただ、総大将という『駒』として、兵を鼓舞し、戦場に立っていてくれればいい。そうすれば、一族の命だけは絶対に保証する」
タシュアはクロリフィルの殺意など、道端の小石ほどにも気にかけていなかった。
屈辱に歯を食いしばり、踵を返して出ていく総大将の背中を見送ると、彼は再び地図へと視線を落とす。
そこには、グレイスとディアグによって動きを止められた連合軍の苦境が、如実に示されていた。
「……さて。最初から、戦がこの膠着状態になることは読んでいた」
タシュアの細い指先が、地図上の駒を滑るように動く。
両翼が止まれば、次はどうなるか。焦れた連合軍がどう動くか。彼はその先にある未来すらも、既に脚本として書き上げていた。
「そして、次の手は打ってある。……これを連合軍が読めなければ、我々反乱軍の勝ちだ。けれど、もし読めたとすれば、連合軍にとっては逆にチャンスになる諸刃の剣」
タシュアは楽しげに目を細めた。
その視線の先には、地図の彼方、連合軍の本陣にいるはずの「ある人物」の姿が映っているようだった。
「普通の将なら気づかない。気付いたとしても時既に遅い。けれど、もし読めるとすれば、連合軍にはただ一人……」
タシュアは、まるで愛しい友に語りかけるように、あるいは宿敵に挑戦状を叩きつけるように、虚空へ向かって囁いた。
「さぁサキル君。僕の次の手を読んで、どこまで返せるかな?」
タシュアがそう囁いた、まさにその時だった。
膠着する戦場の遥か彼方——連合軍の両翼、その側面から背後にかけての地平線が、不気味に揺らぎ始めたのは。
最初は、風が舞い上げた砂塵かと思われた。
だが、違う。それは自然の風ではない。
地を駆ける無数の足音が、大地を震わせ、巨大な土煙となって巻き上がっていたのだ。
「な、なんだあれは!?」
「味方の増援か……? いや、旗印が違う!」
右翼、ゼルグ軍の後方で監視していた兵が、悲鳴に近い声を上げる。
彼らの視線の先、右側面から右斜め後方にかけての荒野を埋め尽くすように、新たな軍勢が押し寄せていたのだ。
それは、イフィルド反乱軍の旗を掲げた、数万規模の別動隊。
そして、同じ絶望は左翼——アルグア軍にも訪れていた。
エイリュウたちが突出して切り開いた進路。その左側面から背後を塞ぐように、もう一つの別動隊が津波の如く迫っていたのである。
これこそが、タシュアが打った次なる一手。
彼は開戦と同時に、連合軍が「個の力」を頼みに両翼から突出してくることを確信していた。だからこそ、その勢いを利用したのだ。
敵が前へ出れば出るほど、その側面と背後は無防備になる。タシュアは開戦の合図と共に、本隊とは別の精鋭部隊を大回りに走らせ、連合軍が反乱軍本陣に食いついた瞬間、その背後を食い破るよう仕込んでいたのである。
前には、絶対的な力を持つ怪物たち。
後ろには、逃げ場を塞ぐ万の軍勢。
巨大な顎が、今まさに連合軍の両翼を噛み砕こうとしていた。
「嘘だろ……囲まれてる……?」
「退路が……断たれた!?」
戦場に動揺が走る。
必勝の陣形で攻め込んだはずが、気づけば逆に死の袋小路へと誘い込まれていた。
勝利への確信は瞬く間に恐怖へと塗り替わり、兵士たちの顔から血の気が引いていく。
逃げ場なし。援軍なし。
タシュアの描いた最悪のシナリオ通りに、戦場の盤面は反転した。
誰もが絶望し、膝をつきかけた、その時——。
「——慌てるな。まだ防ぐ手はある」
混乱の渦中、凛とした声が響き渡った。
サキルは即座に右手を掲げ、
「総員、反転! 第三防衛線を展開せよ! 奴らを我らの射程に引きずり込め!」
サキルの号令一下、混乱しかけていた後方部隊が、まるで一つの生き物のように整然と動き出した。
彼らはパニックに陥るどころか、この奇襲を予期していたかのように迅速に陣形を変え、迫りくる別動隊へと矛先を向ける。
その先頭にサキルが立ちーー
「俺に続けぇぇぇ!!」
鬨の声をあげて迎撃にあたったのだった。




