イフィルド鎮圧戦①
フィルダ平原——。
視界の限り赤茶けた土が広がるこの荒野に、三国の連合軍とイフィルド反乱軍、合わせて二十万を超える大軍勢が展開していた。
その中央、反乱軍の本陣に泰然と構える一人の男がいる。
フィローレ家の現当主にして、反乱軍の総大将、クロリフィル・レイ・フィローレである。
彼は白銀に輝く甲冑に身を包み、彫像のように動じることなく戦場を冷然と見下ろしていた。
その身から放たれる覇気は、単なる名門貴族の当主という枠に収まるものではない。数百年、十代以上にわたって続くフィローレ家の歴史において、歴代二位の実力を持つと噂される傑物である。
ちなみに、そのさらに上を行く歴代一位と称されるのは、サキルがラギアロより極秘に調査を命じられた「百五十年生きている」とされる謎の人物、クレイグ・レイ・フィローレだ。
そんな怪物じみた伝説と比較されること自体が、クロリフィルの異常な実力を物語っていた。
現イフィラ国においても五指に入る実力者である彼に対し、連合軍中央で指揮を執るのは若き将軍、ヴェルンド・テルエスである。
純粋な軍才や創術の才覚において、ヴェルンドはクロリフィルを凌ぐかもしれない。だが、戦場における老獪さ、数多の修羅場を潜り抜けてきた経験という点においては、やはり一日の長があるクロリフィルに分があることは否めない。
そして、ヴェルンド自身もその事実は痛いほど自覚していた。
血気にはやる若さゆえの過ちこそが、この老練な怪物が最も待ち望む隙であることを理解していたのだ。
故に、彼は焦らなかった。
「……動くな。全軍、陣形を維持せよ。敵の出方を見る」
ヴェルンドの慎重かつ冷徹な采配により、中央戦線は互いの前衛部隊が槍を交える程度の小競り合いから幕を開けた。
散発的な衝突音、空を裂いて飛び交う牽制の矢の雨。
互いに相手の陣形のほころびを探り合い、致命的な一撃を入れる機会を窺う、静かなる鍔迫り合い。
総大将同士が睨み合う中央が膠着するのは、古来よりの戦の定石通りであった。
巨大な力が拮抗し、動きの取れない中央。
故に、この戦局が動くとすれば、それは必然的に両翼からとなる——。
***
右翼——ゼルグ軍が担当する戦域。
ここでは『熾炎隊』と『綺蓮隊』が先陣を切り、怒涛の勢いで突撃を敢行していた。
「リノル、前に出ろ。お前の力を見せてみろ」
剣戟の響き渡る乱戦の最中、サキルが短く、だが鋭く指示を飛ばす。
これが初陣となるリノル。彼女の実力はシゼリ荒野での一件で確認済みだが、集団戦、それも軍隊としての連携の中でどれほど機能するかを、サキルはこの実戦で見極めようとしていた。
「はいっ!」
リノルは戦場の喧騒を切り裂くような澄んだ声で応じると、軽やかに戦場の最前線へと踊り出た。
彼女が両手を広げると、周囲の空間が歪み、どろりと粘着質に揺らめく無数の水球が生成される。だが、それは生命を潤す清らかな水ではない。
自然界の水とは同位体の関係にありながら、摂取すれば代謝を阻害し、生命活動を停止させる猛毒にして、鉛のような比重を持つ液体——《重水》である。
「——蝕み、潰えなさい」
リノルの可憐な手が振るわれると同時に、数多の重水球が散弾のように敵兵の群れへと放たれた。
着弾した瞬間、バギィッ、グシャァッという異様な破砕音が戦場に響く。
それは単なる質量の衝撃ではない。重水を浴びた敵兵の甲冑が、まるで強酸に触れたかのように軋みを上げ、触れた皮膚が瞬時に壊死したかのような激痛に襲われる。
「ぐぁ、なんだこれわぁぁ!?」
「から、体が……動かな……」
重水に濡れた箇所から力が抜け、細胞レベルで機能不全を起こした敵兵たちが、糸の切れた人形のように次々と崩れ落ちていく。
その光景は、ただの水術士による攻撃とは一線を画す、化学兵器による蹂躙にも似た恐ろしさがあった。
「素晴らしいな。物理的な打撃に加え、生物的な機能不全まで引き起こすか」
サキルは冷静な瞳で、その戦果を詳細に分析していた。
単なる威力だけではない。特筆すべきは、味方も入り乱れる乱戦の中でありながら、味方には一滴の飛沫さえ浴びせない精密な制御力だ。
広範囲を制圧する質量と、個を確実に無力化する毒性。その両立は、前衛の突破力が主体の『熾炎隊』において、中距離からの支援・遊撃役としてこれ以上ないほど噛み合っている。
即戦力どころか、戦術の核になり得るポテンシャルだ。
ーーリノルの戦闘能力は十分にある。これなら問題なく使えそうだな
サキルは小さく頷き、彼女を「信頼できる駒」として正式に自身の盤面に組み込んだ。
リノルの危険かつ華麗な活躍を皮切りに、右翼の攻勢は一気に勢いを増していく。
「今だ! 畳みかけるぞ!」
アーヴィルが力強く号令を発し、豪快に炎を巻き上げて重水で動きの鈍った敵の前衛を焼き払う。紅蓮の炎が壁となって敵を押し戻し、生じた隙間へスレイが躍り込んだ。
全身を鋼鉄と化したスレイは、さながら生きた攻城兵器だ。敵の盾列を正面から粉砕し、槍衾をものともせずに突き進む。
さらに、そのスレイと並ぶ速度で最前線を疾走する影があった。
ユインである。彼女は雷を帯びた二振りの剣を操る近接戦闘のスペシャリストだ。
紫電を纏った刃が閃くたび、敵の剣戟は紙一重で弾かれ、瞬きする間もなくその懐へと潜り込む。雷光そのものと化した斬撃は、敵に防御の隙すら与えずに指揮官クラスを次々と斬り伏せていく。
そうして暴れまわる前衛たちを、中距離から冷静に支えているのが老兵ディルンだ。
彼は決して突出することなく、しかし戦場の要所を完璧に把握していた。前衛が撃ち漏らした敵や、側面から奇襲をかけようとする兵を、老獪な技と的確な術式で排除し、戦況という名の盤面を自在に操っている。
「物質変換、起動!」
ブレイルも負けてはいない。彼が地面に手を触れれば、堅固な大地が泥沼へと変わり、敵の足を絡め取る。あるいは突き出された敵の槍を脆い砂に変えて無力化し、戦意ごと崩れ去らせていく。
『熾炎隊』と『綺蓮隊』、個の力と連携が完璧に噛み合い、反乱軍を確実に押し込んでいく。
だが、イフィルド反乱軍も無策ではない。
崩れかけた敵陣の中から、異様な殺気を纏った一団が現れた。その先頭に立つのは、見覚えのない甲冑を纏った巨漢の将である。
「……あれは、ケルディカ国の雄と謳われた猛将、ボルドか!」
その姿を認め、ディルンが驚愕の声を上げる。
先の『再厄』による七国同時襲撃の折に行方不明となっていた、ケルディカが誇る剛力無双の将軍だ。その瞳は虚ろで、明らかに正常な精神状態ではない。操られているのだ。
ボルドは身の丈ほどもある大斧を軽々と振り回し、群がるゼルグ兵を薙ぎ払う。
ブンッ! という暴風のような音が響き、その一撃は岩をも砕く威力を持ち、風圧だけで数人の兵が吹き飛ぶほどだ。
「操り人形如きが……調子に乗るな!」
アーヴィルが吼え、炎を纏った剣で正面から打ちかかる。
激しい火花が散り、剣と斧がぶつかり合う。一進一退の攻防が繰り広げられるが、ボルドの怪力は凄まじく、力任せの一撃にアーヴィルの足が地面を削って後退する。
さらに追撃の大斧が振り上げられたその瞬間、ユンによる援護が入った。
「時間遅延!」
ボルドの動きが、泥の中を動くように僅かに、しかし決定的に遅れる。そのコンマ数秒の隙を見逃さず、リノルが滑り込むように掌を向けた。
「逃がしません!」
生成された大量の重水が、ボルドの足元に絡みつく。
通常の水圧ではない。鉛のように重く、そして肉体を蝕む毒の水が、剛将の自由と体力を急速に奪い去り、大地へと縫い止める。
「今だ!」
動きの止まったボルドへ、アーヴィルの炎撃とブレイルの変換攻撃が同時に炸裂した。
業火に包まれながら、足元の地面ごと砂に変えられたボルドが体勢を崩し、轟音と共に倒れ伏す。
ケルディカの雄を打ち倒したことで、右翼の優勢は決定的となった。
その様子を、遥か後方の本陣から眺める男がいた。
ゼルグ軍総大将、イガート・ヴァル・ヴィリアである。
「ほう、あまり期待はしていなかったが、平民もなかなかやるな」
彼はワイングラスを傾けるような優雅さで、戦場を見下ろしていた。その口調には称賛よりも、使える駒を見つけたという傲慢な響きが含まれている。
「だが、詰めが甘い。……行け」
イガートが指を鳴らす。
それを合図に、彼の腹心たちが率いる直下部隊が、獲物を狙う獣のように戦場へと投入された。
疲弊した敵を刈り取り、手柄を総取りするかのようなタイミング。だが、それによって右翼の勝利は盤石なものとなりつつあった。
***
一方、連合軍左翼——アルグア軍の戦域。
右翼が「個」の力と「軍」の連携を緻密に融合させ、堅実に戦果を積み上げていたのに対し、ここではそれとは全く異なる光景が広がっていた。
それは戦術や陣形といった理屈を超えた、ある種の「局地的な災害」にも似た圧倒的な破壊の嵐だった。
「ははっ! 遅い、遅いぞ!」
戦場のド真ん中、誰よりも先頭に立ち、暴風の如く敵陣を切り裂く紅い影があった。
アルグア軍総大将、エイリュウ・レイダムである。
本来ならば後方の本陣でどっしりと構え、指揮を執るべき総大将が、単身で敵の大軍の只中へ突っ込んでいるのだ。軍事的な常識で考えれば、愚策中の愚策と言えるだろう。
だが、アルグア軍の誰もそれを止めない。否、止める必要がないのだ。
エイリュウが剣を一閃させるたび、不可視の衝撃波が奔流となって走り、射線上の敵兵数十人が枯れ葉のように吹き飛ぶ。
肉体は千切れ、鋼鉄の鎧は紙屑のようにひしゃげる。
イフィルド反乱軍も右翼と同等の兵力を有していたが、エイリュウという規格外の「個」の力の前に、その数的優位は何の意味も成していなかった。
「……リュウ、突っ込み過ぎ」
エイリュウが通り過ぎた後、死屍累々と化した戦場に、億劫そうに呟く声が届く。
副官のキョーリンである。
彼女は極力言葉を発したくない、動くことさえ面倒だと言わんばかりの物静かで気怠げな女性だが、その剣の腕は確かだった。
エイリュウが派手に正面を粉砕して進むその裏で、死角から彼を討とうと忍び寄る敵兵を、ヒュン、という風切り音と共に滑らかに斬り伏せていく。そこに無駄な動作は一切なく、ただ静かな死だけがあった。
さらに、その横ではもう一人の副官、ザンリが戦場を蹂躙していた。
彼が振るうのは、自身の身長をも優に超える巨大な長剣である。
通常の人間であれば持ち上げることすら困難な鉄塊を、ザンリは片手で軽々と操っていた。
ゴオォォンッ!! という暴風のような音が轟き、長剣が一閃されるたび、敵兵が武具ごとまとめて薙ぎ払われていく。それは剣術というより、広範囲を制圧する物理兵器による破壊活動だった。
そんな規格外の猛者たちが好き勝手に暴れまわるアルグア軍を、後方から一つの「軍」として成立させているのが、参謀のショウルである。
彼は戦場全体を見渡せる位置に陣取り、冷静沈着に指示を飛ばしていた。
エイリュウがこじ開け、ザンリが押し広げた敵陣の隙間へ、的確なタイミングで本隊を流し込み、戦果を確定させていく。
彼の手腕があるからこそ、アルグア軍は単なる暴徒の集団ではなく、最強の軍団として機能していたのだ。
右翼が「軍」として戦っていたのに対し、左翼は「エイリュウという圧倒的頂点」が全てを粉砕し、軍がその後始末をするという形だった。
そんな中、崩壊する反乱軍側からも強力な将が現れる。
全身に複雑怪奇な創術の刻印を施した、ローブ姿の男。かつて北方の大国レイゼフでその名を馳せた『大魔創師』だ。彼もまた『再厄』に囚われ、虚ろな瞳の傀儡と化していた。
「消えろぉぉぉ!」
大魔創師が両手を掲げると、空が暗転する。放たれたのは広範囲殲滅創術。
紅蓮の炎と紫電の雷が混じり合った破壊の嵐が、津波となってエイリュウとアルグア軍を飲み込まんと迫る。
「邪魔だ」
だが、エイリュウは足を止めなかった。
迫り来る創術の嵐に対し、ただ一振り、無造作に剣を薙ぐ。
それだけで、大気を震わす剛剣の風圧が物理的な干渉力を持ち、魔法の嵐を真っ向から両断した。
霧散していく炎と雷の向こう側で、大魔導師が驚愕に目を見開く暇もなかった。
余波として飛んだ斬撃が、大魔導師ごと背後に展開していた数百の部隊までを一直線に両断し、大地に深い爪痕を刻み込んだ。
圧倒的。理不尽なまでの強さ。
もはや戦いではない。一方的な蹂躙だった。敵軍は根源的な恐怖に支配され、陣形は雪崩を打つように崩壊していく。
「いつもの戦はこのウィスレの均衡を保つためのものだが、今回はウィスレの均衡を崩す『再厄』が敵にいる。手加減は無用……最初から全力でやらせてもらったよ」
エイリュウは剣についた血を振るい落とし、彼方の敵本陣を見据えた。
「さて、このまま本陣まで一気に通らせてもらうか」
エイリュウが敵の中枢、クロリフィルの首を狙ってさらに踏み込もうとした、その時だった。
「アハハハハ! 見つけた、見つけたヨォォォ!」
戦場の喧騒を切り裂く、無邪気で、しかし背筋が凍るほどに邪悪な歓喜の声。
空から何かが降ってきた。
ドォォォォォン!!
エイリュウの目の前に着弾した衝撃で、大地が爆発したかのように隆起し、クレーターのように陥没する。
舞い上がる土煙の中から現れたのは、その体躯に不釣り合いなほど巨大で異形な右腕を持つ少年——ディアグ。
「ねェ、君が強いって人? 壊していい? ねェ、壊れてくれるゥ?」
ドス黒く膨張し、瘴気を撒き散らす魔手を振り翳し、涎を垂らさんばかりの満面の笑顔でディアグが迫る。
エイリュウは瞬時に剣で受け止めきれないと判断し、すばやく避けた。
ドゴォ、という轟音が盛大に響き渡り、衝撃波が周囲の兵士を吹き飛ばした。
「……ッ、なんだこの馬鹿力は!」
破竹の勢いで進んでいたエイリュウの足が、ここで初めて止まる。
規格外の化け物同士の激突。左翼の戦いは、この二人の戦場と化し、全体としては膠着状態へと陥った。
そして——それは右翼も同様だった。
イガートの援軍も加わり、一気に敵本陣側面へ迫ろうとしていたアーヴィルとブレイル。
その行く手を遮るように、一人の男が静かに立ちはだかった。
長身に長い外套を纏った、無表情な男——グレイス。
「……ここは通さん」
彼が軽く手を掲げただけで、アーヴィルの放った極大の火球も、ブレイルの物質変換攻撃も、見えない壁に阻まれて消失する。
絶対防御。その理不尽な壁の前に、連合軍右翼の進撃もまた、完全に停止させられたのだった。




