イフィルド鎮圧戦〜開戦前〜
——そこには、この世のものとは思えぬ凄惨な光景が広がっていた。
石造りの床、壁、そして天井に至るまで、赤黒い飛沫が芸術のように撒き散らされている。
そこかしこに転がる肉塊は、つい数瞬前まで生きた人間だったはずのものだ。だが今や、原形を留めているものは一つとしてない。四肢は引きちぎられ、内臓は踏みにじられ、一目でそれが「人」であったと判別することすら困難なほど、徹底的に破壊されていた。
一体、何を使い、どのような暴力を振るえば、これほどまでに残虐な死体の山を築けるのか。
その答えは、血の海の中心に立つ「それ」を見れば明らかだった。
何故なら、殺戮の宴はまだ終わっていなかったのだから。
「や、やめっ、やめてくれぇぇぇ! な、なんでも、金ならなんでもするから! た、助けッ!?」
瓦礫の山を這いずり、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら命乞いをする男。
だが、その必死の叫びも虚しく、濡れた雑巾を絞るような不快な音が響く。
バヂュッ——。
肉が弾け、骨が砕ける音が断末魔を遮った。男の頭部は瞬時にして赤い染みへと変わり、痙攣する胴体だけが物言わぬ肉塊となって崩れ落ちる。
「あはァ、やっぱり最高だなぁ……この感触、たまらないよォ」
それをまるで極上の音楽でも聴いたかのように、恍惚とした表情で嗤う者がいた。
外見は、十にも満たないあどけない少年である。
だが、その姿は異様の一言に尽きた。返り血で真っ赤に染まった顔で無邪気に笑うその姿もさることながら、何よりも彼の右腕が、人としての理を完全に逸脱していた。
少年の胴体ほどもあるサイズにまで膨れ上がり、どす黒く変色した右腕。
皮膚は焼け爛れたようにただれ、不吉な紫色の瘴気を纏いながら脈打っている。それは人の手などではない。命を刈り取るために生まれた、『魔獣』の腕そのものであった。
「もっとも、ここまで異常性が明らかであれば、誰も彼の外見など気にはしないでしょうけどね」
その地獄絵図を、まるで美術館の絵画でも眺めるかのように冷静に見つめる人影が一つ。
涼やかな浴衣を着流した青年——フォーユだ。
血なまぐさい廃墟ではなく、静かな湖畔で本でも読んでいればさぞ絵になったであろう、落ち着いた理知的な雰囲気を纏っている。
「まぁ、私もこんな風に興味深く彼を観察しているのですから、人のことは言えませんか」
肩を竦める仕種は優雅ですらあるが、その瞳には死体への憐憫も嫌悪もない。あるのは純粋な観察眼のみ。
無邪気に殺す少年と、冷徹に見守る青年。
この空間には、まともな人間など一人もいなかった。いや、いなくなったと言った方が正しいだろう。
「でもでもォ、楽しい瞬間ほど早く終わっちゃうなァ」
何故なら、ここにいた「まともな命」はすべて、少年——ディアグという名の怪物の「お遊び」として、無残にも消費され尽くしたのだから。
ディアグは異形の右腕をぶら下げたまま、退屈そうに周囲を見渡す。動くものはもう何もない。
「ねェ、もう壊すものなくなっちゃったしィ、タシュアの方にも行って良いィ?」
「はぁ……やはり、こうなりましたか」
遊び足りない子供が次の玩具をねだるように笑うディアグに対し、フォーユは困ったものだとわざとらしく溜息をつく。
狂った彼らにとって、この虐殺は食事前の軽い運動程度でしかないのだ。
「ディアグさん、タシュア様から何と言われていましたか? 『今日はこれで満足してよ』と。あの方にしては珍しいほど、きつく言い含められていたはずですが」
呆れたように諭すフォーユだが、ディアグは納得する様子もない。
「だってだってさァ、満足できなかったんだから仕方ないだろォ? あいつらは脆すぎたんだよォ!」
ドガァンッ!
少年は駄々をこねるように地団駄を踏み、両手を大きく振り回した。
ただ、その右腕があまりに凶悪すぎた。
軽く振られただけの剛腕が風を切り、近くの石壁を飴細工のように粉砕する。瓦礫が散弾のように飛び散った。
「『満足できないとしても、そこで我慢して大人しくしていろ』という意味だと思うのですが……っと、お待ちくださいディアグさん! その右手を収めてから近付いてください!」
フォーユは顔色一つ変えずに、しかし俊敏な動作で数歩下がり、大袈裟なほどに距離をとった。一歩間違えば、自分もあの肉塊の仲間入りをしかねない質量兵器が目の前にあるのだ。
「むゥ……引っ込めたら、連れてってくれるゥ?」
あからさまに警戒されたと悟ったディアグは、ピタリと動きを止めて小首を傾げる。その瞳は濁り、理性の光は見えない。
「なんでそうなるんですか。ダメですよ。そもそも絶対に付いて来させたくないからこそ、お目付け役として私がここに残っているんですよ?」
無論、それで許可が下りる由もない。
「えェ……やだなァつまらないなァずるいなァ! タシュアは何か楽しいことしてるんでしょォ? 僕だけ仲間外れなんてずるいィ!」
再び癇癪を起こしかけるディアグ。
「もう、やめてくださいと言っているじゃないですか。あの方は別にあなたのように『狩り』をして遊んでいるわけではないんですから、我慢してください」
尚も駄々をこねる少年だが、フォーユはあくまで声を荒げず、諭すようなスタンスを崩さない。
すると、その説得の中に何か引っかかる言葉があったのか、ディアグは「んんゥ?」と先程以上に首を傾げ、口元を歪めた。
「そういえばタシュアって、今日は『お気に入り』との戦に行ってるんだっけェ?」
「それも最初から言っているはずですが……まぁいいでしょう。そうです、だからディアグさんが乱入すると場が混乱するだけなんですよ」
「そうなんだァ、そうかァ……」
ディアグは何かを納得したように頷くと、スゥッと右腕の力を抜いた。
膨張していた筋肉と骨格が収縮し、黒い瘴気が霧散していく。数秒の後、そこには年相応の、人間の子供の腕が戻っていた。
それでも、先程まで殺戮し続けたことで右手にべったりとこびり付いた鮮血や、全身に浴びた返り血はそのままであり、その異様さは何一つ変わらない。
「だったらさァ、その『お気に入り』が育ったら、僕にくれるかなァ。美味しそうに育ってるといいなァ」
舌なめずりをするような声音。
「それはわかりかねますが……今ディアグさんが勝手に付いて行って台無しにしてしまえば、例え『育った』としても、あの方はあなたに味見すらさせてはくれないでしょうね」
「うーんゥ……そっかァ。じゃあ今は我慢した方が良いのかァ」
そう口では言ったものの、少年の瞳からは殺意の熱が引いていない。
フォーユは懐に手を入れ、わずかに身構える。
言葉で収まらなければ、実力行使で止めるしかない。この化け物の遊び相手をするとなれば、命までは取られないにしても、多少の消耗は避けられないだろう。
「ふふ、事情が変わったかな? いいよ。君にも暴れてもらおうかな」
不意に、空間そのものが歪んだ。
何もない虚空に亀裂が走り、そこから紫色の靄と共に一人の男が現れる。
《再厄》の首魁、タシュア・イーライグ。
「タシュアさん、戻られたのですか?」
タシュアが来ることを予期していたのか、それとも空間転移に慣れているのか。急な出現にも関わらず、フォーユは特段驚いた様子もなく問い返す。
「いやぁ、次の戦にどうやらエイリュウ・レイダムが参戦してくるらしい。念のため、ディアグくんとグレイスくんも待機してもらおうと思ってね」
「エイリュウ……それって、あのアルグアの《闘極者》ですか? やはり参戦してきましたか……」
フォーユが眉をひそめる。七国最強の一角とされるその名は、彼らにとっても無視できない響きを持っていた。
「でも、グレイスさんはともかく、ディアグさんの相手が務まりますかね?」
「大丈夫さ。彼は強いからね。少なくとも、今日壊した玩具たちよりはずっと頑丈で、壊しがいがある。いい勝負になると思うよ、僕のお墨付きだ」
「貴方がそこまで言うなら、問題ないですね」
フォーユが納得したように頷く横で、ディアグの瞳が怪しく輝き始めた。
「ヘェーーそいつ、強いのかァ? 僕の腕で潰しても、すぐには死なない?」
「そうだね。詳細はこれから話すよ。なんにしても次は、ディアグくんが思う存分暴れられる、最高の舞台になりそうだね」
「アハァ……いいネいいネ! そういうのを待ってたんだヨ!」
再び、少年の顔が邪悪に歪む。
暴力衝動の捌け口が約束されたことで、フォーユが彼を止める必要はなくなった。
少年は血に濡れた手で自らの顔を覆い、指の隙間から狂気に満ちた瞳を覗かせ、ケタケタと嗤う。
その純粋で底なしの狂気は、まだ見ぬ強敵へ向けられ、次の殺戮を夢見て高まっていくのだった——。
今回のイフィルド反乱鎮圧戦において、謎の組織『再厄』の関与は、もはや「疑い」の域を遥かに超え、動かぬ確信へと変わっていた。
その決定的な証拠は、決死の偵察を敢行した斥候が持ち帰った、あまりに異様で絶望的な視察報告にある。
イフィルド反乱軍の陣容の中に、この地に存在するはずのない異質な集団が確認されたのだ。彼らが身に纏っていたのは、イフィラ王国の甲冑ではない。
ある者はゼルグの、ある者はアルグアの、そしてまたある者はレイゼフの軍装——。
そう、先の『再厄』による七国同時襲撃の折に、行方不明となった各国の兵士たちがそこにいたのである。
だが、彼らはもはやかつての勇猛な兵士ではなかった。その瞳からは生気が完全に失われ、ただ下される命令に従うだけの虚ろな人形、すなわち「傀儡」と化していることは明白だった。
攫われた兵の自我を奪い、あろうことか母国やかつての同盟国に刃を向けさせる――その悪辣極まりない手口こそが、この反乱の糸を引く者が『再厄』である何よりの証明であった。
事態は、ウィスレ大陸全土を巻き込む巨大な二正面作戦へと発展している。
北方のレイゼフ国で勃発した「レルフォの反乱」。これに対しては、地理的に近いケルディカ、レデス、ローウェン、そして当事国レイゼフの四国が主力となり、鎮圧へと向かった。
対して、ここ南方のイフィラには、国境を接するアルグア、ゼルグ、そしてイフィラ本国軍の三国が集結している。
同時に発生した二つの大規模反乱に対し、七国が二手に分かれて軍を起こす。
これはウィスレ三百年の歴史において前例のない事態であり、それほどまでに今回の危機が、一国の存亡を超えて大陸そのものの命運を左右する重大事であることを物語っていた。
決戦の地は、王都イフィルドへと続く広大な平地――フィルダ平原。
地平の彼方まで赤茶けた土が広がるこの乾いた荒野に、両軍合わせて二十万を超える大軍勢が対峙することとなった。
連合軍の布陣は、三国の連携の難しさを考慮した実利的なものが採用された。
急造の同盟軍が細かな連携をとることは不可能であり、指揮系統の混乱は致命的な隙を生む。下手に混成軍を作るよりも、各国の指揮系統を独立させることが最善と判断されたのだ。
故に、軍を混ぜることなく国ごとに区切り、横一線に並ぶ陣形が敷かれた。
左翼には、武勇に名高いエイリュウ・レイダム率いるアルグア軍、三万。
右翼には、冷徹なる智将イガート・ヴァル・ヴィリアを総大将とするゼルグ軍、二万五千。
そして中央には、若き将軍ヴェルンド・テルエス率いるイフィラ本国軍、五万。
連合軍の総数は、十万五千。
大地を埋め尽くさんばかりの圧倒的な大軍である。だが、彼らの前に立ちはだかるイフィルド反乱軍もまた、異常な如き数を揃えていた。
その数、およそ十万。
いかに王族の血を引く名門フィローレ家とはいえ、一介の貴族がこれほどの兵力を動員できる道理がない。私兵や傭兵を金に糸目をつけず掻き集めたとしても、限度があるはずだ。
そこには明らかに、連れ去られた各国の兵たちが、戦力として水増しされていると見るべきだろう。
フィローレ家の背後に潜む、底知れぬ『再厄』の影。
そして、戦場に並ぶのは操られたかつての同胞たち。
乾いた風が、フィルダ平原を吹き抜ける。砂塵が舞い、無数の旗がはためく音が重なり合う。
巨大な二つの軍勢が睨み合う中、張り詰めた空気は限界まで膨れ上がり、今まさに弾けようとしていた。
ウィスレの歴史に残る激戦が、幕を開ける——。




