連合軍
ネレネスの本拠地を出たサキルとリノルは、急ぎ足で『熾炎隊』の駐屯地へ向かった。
本拠地から駐屯地までは馬で一時間ほどの距離があったが、二人は無言で馬を駆った。石畳の街道を抜け、なだらかな丘陵地帯を通り過ぎると、やがて『熾炎隊』の駐屯地が見えてくる。
既に夜明け前だというのに、駐屯地は活気に満ち溢れていた。兵士たちが慌ただしく装備の最終確認を行い、馬丁たちが軍馬の手入れに追われている。補給担当者たちは山積みにされた物資を手際よく仕分けし、各部隊への配分を急いでいた。
七国盟約という歴史的決定により、これまで敵対していた国同士が共闘するという前代未聞の作戦の第一歩となる重要な任務だった。駐屯地全体に緊張感が漂い、普段とは異なる特別な空気が流れている。
「サキル!」
アーヴィルの豪快な声が響く。
彼は指揮官用テントの前で地図を広げ、部下たちと最終的な確認を行っていたが、サキルの姿を認めると駆け寄ってきた。その表情には、いつもの豪快さに加えて、僅かな困惑と期待、そして隠しきれない鬱屈としたものが入り混じっていた。
「急な知らせだが、上層部からの命令でイフィラの反乱鎮圧に向かうことになった。しかも『綺蓮隊』との合同作戦だ」
アーヴィルの声には興奮が込められている。長年単独で行動してきた『熾炎隊』にとって、他部隊との本格的な共同作戦は新たな挑戦だった。だが、言葉の裏には棘があった。
「ただし……指揮系統が厄介だ。今回の遠征軍、総大将はあのイガート・ヴァル・ヴィリアだ」
その名を聞いた瞬間、サキルの眉がピクリと動いた。
イガート・ヴァル・ヴィリア。ゼルグ軍副将にして、《戦場の彫刻師》の異名を持つ実力者。
「……シゼリ荒野の戦いで、同じ戦場にいたな」
「ああ。だがあの時、奴の本隊は俺たちとはまるで別の軍のように動いていた。顔は見かけたことはあるが、言葉を交わしたことは一度もねえ」
アーヴィルは忌々しげに吐き捨てた。
シゼリ荒野での戦い——それは激戦だった。だが、イガートの部隊だけは常に汚れを知らぬかのような位置取りで、平民中心の部隊を盾や囮に使うような動きを見せていたことを、サキルも覚えていた。
「徹底した貴族至上主義者だ。俺たちのような平民上がりや、実力でのし上がった部隊を『野良犬』程度にしか思っていない。今回の合同作戦も、奴の指揮下に入ることになる」
「承知した。……だが、まずは紹介させてくれ」
サキルは空気を変えるように、隣に立つリノルを示した。
「こちらはリノル。今回から我々と行動を共にする。水術に長け、戦闘能力も申し分ない」
リノルは軍人らしい敬礼で自己紹介した。
「リノルと申します。皆様、よろしくお願いいたします」
その清らかで凛とした声と美しい容姿に、周囲で作業していた兵士たちの手が一瞬止まり、ざわめきが広がる。水色の髪が朝日を受けて輝き、整った顔立ちは誰もが振り返らずにはいられない美しさを湛えていた。
だが緊急出陣の慌ただしさが、詳しい紹介や質問の時間を奪っていた。
「詳細は後で聞くとして、今は出発が先決だ」
アーヴィルは実務的に話を進める。そこへ、『熾炎隊』の中核メンバーたちが次々と集まってきた。
最初に現れたのは、豪快な笑い声を響かせながらやってきたスレイだった。
「おう、サキル! 今日も頼むぜ!」
彼は既に完全武装を済ませており、背負った大剣が朝日を反射して鈍く光っている。そしてリノルに気づくと、目を丸くした。
「おおっと、新しい仲間か? こいつは美人さんだな! 俺はスレイだ、よろしく頼むぜ!」
「こちらこそ、よろしくお願いします、スレイさん」
リノルは自然な笑顔で応じる。
「戦場では足手まといにならないよう、精一杯努めさせていただきます」
「はっはっは! そんな堅くならなくても大丈夫だ。俺たちは家族みたいなもんだからな」
スレイの豪快な人柄に、リノルの表情も自然と和らいでいく。
続いて現れたのはユインだった。彼女は弓を背負い、軽装ながらも実用的な装備に身を包んでいる。
「あら、新しいメンバー?」
ユインはリノルを一瞥すると、即座に彼女の実力を測るような鋭い視線を向けた。だがその視線にはわずかに探るような色が混じっている。
「ユインよ。弓兵隊の指揮を担当してる。あなたの専門は?」
「水術です。主に防御術と範囲攻撃を得意としています」
「水術か……それなら私たちの弓兵隊との連携も期待できそうね」
ユインは満足そうに頷きながらも、視線が一瞬サキルに向けられる。彼がリノルを推薦したという事実に、なぜか微妙な表情を見せた。
「戦場では互いをフォローし合いましょう。よろしく」
その言葉は丁寧だったが、どこか硬い響きを帯びていた。
そして穏やかな足音と共に、ディルンが現れた。
「おや、新しいお顔じゃな」
その慈愛に満ちた表情で、ディルンはリノルを温かく見つめる。
「ディルン・レイラーと申します。この老いぼれでよろしければ、何でもお尋ねください」
「ありがとうございます、ディルンさん」
リノルは深々と頭を下げる。
「戦場での経験が浅いので、ご指導いただければ幸いです」
「謙虚でよろしい。ですが、サキル殿が推薦される方でしたら、きっと我々の力になってくださることでしょう」
最後に、クレリッドが慌ただしくやってきた。
「す、すみません! 補給の最終確認で遅れました!」
彼は額に汗を浮かべながら、帳簿を抱えて走ってくる。そしてリノルに気づくと、慌てて頭を下げた。
「あ、あの……クレリッドです。補給を担当しております。よろしくお願いします」
「リノルです。こちらこそよろしくお願いします」
リノルは優しい笑顔を向ける。
「補給のお仕事、とても大変そうですね。何かお手伝いできることがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
クレリッドの顔が一気に明るくなる。
「あ、ありがとうございます! とても助かります!」
サキルはその様子を見ながら、内心で安堵していた。リノルの人当たりの良さと、『熾炎隊』メンバーたちの温かい人柄が相まって、新参者への警戒感は既に薄れつつあった。特に、相手に応じて適切な距離感を保ちながら接する彼女の社交術は、さすがは長年男性として——そして裏の任務で振る舞ってきただけのことはある。
ユインは少し離れたところから、その光景を観察していた。サキルがリノルを見る眼差しに、複雑な表情を浮かべる。リノルがサキルに微笑みかける度に、ユインの口元が僅かに引き締まるのが見て取れた。
「それでは出発だ」
アーヴィルが声をかける。
「『綺蓮隊』との合流地点まで二時間の行程。そしてその先で、イガート将軍の本隊と合流する。……気合を入れておけよ、精神的にもな」
「はい、問題ありません」
三十分後、『熾炎隊』約三千名の軍勢が整然と隊列を組み、駐屯地を出発した。
合流地点で待っていた『綺蓮隊』は、約二千五百名の精鋭部隊だった。彼らの装備は軽装を基調としながらも実用性を重視したもので、機動戦術を得意とする部隊らしい特徴を備えていた。
「アーヴィル、準備は整った」
『綺蓮隊』の隊長ブレイル・アステリアが馬を駆って近づいてくる。金色がかった茶髪を風になびかせ、翠色の瞳には親しみやすい光が宿っていた。
「ブレイル、今回もよろしく頼む」
「こちらこそ。前回の作戦の成功を踏まえ、今回はより高度な連携を目指そう」
二人は馬上で固く握手を交わす。その様子から、実戦を通じて培われた深い信頼関係が窺えた。
「それと……軍師のサキル殿、前回は助かった。次もよろしく頼む」
ブレイルはサキルに向かって敬意を込めて頭を下げる。
「こちらこそ。……だがブレイル殿、顔色が優れないようだが?」
サキルの指摘に、ブレイルは苦笑を浮かべた。
「ああ、わかるか? これから合流する“総大将”のことを考えると、な。シゼリ荒野での振る舞いを見ていたから、気が重いよ」
ため息交じりのブレイルの言葉に、その場の空気が少し重くなる。
だが、止まっている時間はない。連合軍約五千五百名は、イフィラへ向けて本格的な行軍を開始した。
***
行軍の途中、リノルは自然に他の隊員たちと会話を重ねていた。その社交能力の高さは、単なる愛想の良さではなく、相手の心情を理解して適切な距離感を保つという高度な技術に基づいていた。
長年男性として生きてきた中で培われた、人間関係を円滑にする術なのかもしれない。
そんな一幕を挟みつつ、一行はイフィラ国境に差し掛かる。
すると辺りの空気が一変した。
それまでの穏やかな田園風景とは対照的に、国境を越えた途端に住民たちの視線が変わった。街道沿いの村々で、窓から覗く顔、農作業の手を止めて見つめる農民たち、商店の前で足を止める商人たち——すべての視線が軍列に注がれ、そのすべてが明らかに警戒と不信に満ちていた。
老人たちは露骨に顔をしかめ、若者たちは敵意を隠そうともしない。母親たちは急いで子供を家の奥に隠し、商人たちは店の戸を閉ざしてしまう。中には、道端に唾を吐いて去っていく者もいた。
「これは……予想以上に厳しいな」
ブレイルがサキルの隣を馬で進みながら呟く。その端正な顔に、困惑の色が浮かんでいた。
「確かに盟約は結ばれたが、民衆の感情は全く別物だ。三百年間の憎悪が、一片の紙切れで消えるはずもない」
「当然の反応だろう」
サキルは冷静に答える。
「我々にとって彼らは『解放すべき民衆』かもしれないが、彼らにとって我々は『侵略者』でしかない。つい先日まで敵同士だった事実は変わらない」
行軍二日目、より露骨な敵意に遭遇することになる。子供たちが石を投げつけ、大人たちが罵声を浴びせる。
三日目の朝には、「侵略者帰れ!」というプラカードを掲げた抗議活動にも直面した。
それでも一行は歩みを止めず、三日目の夕刻、ついにフィラリア城邑の城壁を視界に捉えた。
イフィルドから南東に位置するこの要塞都市は、イフィラ王国の南方防衛の要として建設された堅固な要塞だった。
その城外に、整然と並ぶ漆黒の天幕群があった。
一切の乱れなく設営されたその陣容は、見る者に畏怖を与えるほどの威圧感を放っている。
ゼルグ軍副将、イガート・ヴァル・ヴィリアの本隊である。
「……到着したか。シゼリ荒野以来だな、あの旗を見るのは。ブレイルは初めてだったな」
アーヴィルが重い口調で言い、ブレイルが頷く。
サキル、アーヴィル、ブレイルの三名は馬を降り、リノルら部下を待機させて、イガートの本陣天幕へと向かった。
天幕の前には、見事な装飾が施された鎧を纏う衛兵たちが立っていた。彼らはサキルたちを一瞥すると、鼻で笑うような視線を向けた。
「『熾炎隊』に『綺蓮隊』か……。平民上がりの戦場で泥遊びをしていた連中が、よくもまあ恥ずかしげもなく来たものだ」
小声で交わされた囁きは、明らかに聞こえるように発せられていた。
アーヴィルのこめかみに青筋が浮かぶが、サキルが目配せで制する。
案内された天幕の中は、戦場とは思えぬほど豪華な調度品で飾られていた。床には絨毯が敷かれ、香の匂いが漂っている。
その最奥、豪奢な椅子に座る男がいた。
全身を漆黒の軍衣に包み、黒檀のように艶めく長髪を背に垂らした男——イガート・ヴァル・ヴィリア。
その左右には、四人の腹心が控えている。
《黒蛇》セリム、《鉄紋》ドレアス、《焔斧》バシク、《残風》ニリウス。いずれも一騎当千の猛者だが、その目は主と同じく、冷ややかな光を宿していた。
「『熾炎隊』隊長アーヴィルただいま到着いたしました」
「『綺蓮隊』隊長ブレイル・アステリア、同じく到着いたしました」
二人が礼をとる。サキルも軍師として一礼する。
だが、イガートは手元の杯を揺らすだけで、視線を合わせようともしなかった。
「……ああ、覚えているぞ。シゼリの荒野で、無様に走り回っていた『熾』の旗か」
低く、抑揚のない声。だがそこには明確な侮蔑が込められていた。
シゼリ荒野の戦い——そこには確かに彼らもいた。だが、イガートにとって彼らは「戦友」ではなく、同じ戦場にいながら視界に入れる価値すらない「有象無象」でしかなかったのだ。
「到着が予定より遅れている。貴様らの足の遅さが、作戦全体の遅延を招くことを理解しているのか?」
「行軍中、民衆の妨害に遭いまして——」
ブレイルが弁明しようとすると、イガートの鋭い視線が彼を射抜いた。
「言い訳など求めていない。平民上がりの部隊など、所詮はその程度の規律か。そういえば前のシゼリ荒野の時と軍師が変わってるな?確かあの時に戦局とは関係なく無様にも戦死した軍師がいたような……まぁ平民などいくらでも代わりがいるのだから問題ないな」
その言葉に、天幕内の空気が凍りつく。
四人の腹心たちが、嘲るような笑みを浮かべた。
「イガート様、彼らに高尚な規律を求めるのは酷というものです」
「所詮は数合わせの消耗品。盾として役に立てばそれで良いでしょう」
あからさまな侮蔑。
かつて同じ戦場で血を流した仲間に対する敬意など、微塵もない。
アーヴィルが拳を握りしめ、震わせているのがわかった。ブレイルも顔を伏せ、耐えている。
ただ少し間違えば手を出しかねない風だったので、そこはサキルがアーヴィルの肩に手をやり目配せして制した。
それからサキルは冷静にイガートを観察する。
ーーイガート・ヴァル・ヴァリア、噂通りの貴族至上主義だな。
この男、確かに傲慢だ。だが、その身体から発せられる創力の気配は、本物だ。貴族の血統に胡坐をかくだけの無能ではない。実力があるからこそ、その選民思想は強固で厄介なのだ。
「……用はそれだけだ。下がれ。作戦開始までは指定の場所で待機していろ。私の視界に入らぬようにな」
イガートが手を振る。まるで野良犬を追い払うかのような仕草だった。
天幕を出た三人は、しばらく無言だった。
夕闇が迫る中、アーヴィルが大きく息を吐き出す。
「……あの野郎、いつか絶対に見返してやる。シゼリの時と何一つ変わっちゃいねえ」
「同感だ。顔を合わせて話したのは初めてだが、遠目に見ていた時の印象そのままだな」
ブレイルも悔しげに唇を噛む。
サキルは無言のまま、背後の黒い天幕を振り返った。
ーー味方でありながら、最大の障害になり得るか……。
そう思考を巡らせながら、割り当てられた場所へ戻ろうとした時だった。
「これはこれは……随分とシケた顔をして出てきたな、懐かしい顔ぶれが」
不意にかけられた声に、三人は顔を上げる。
中庭の向こう、アルグア軍の陣営から歩いてくる人影があった。
金色の髪を夕日に輝かせ、鋭い緑の瞳でこちらを見据える青年。
アルグア軍の赤い軍装に身を包み、その立ち姿だけで周囲を圧倒する存在感。
エイリュウ・レイダム——《闘極者》の異名を持つ、アルグアの英雄。
イガートの陰湿な空気とは対照的な、強烈な陽の気を纏ったその男は、心底楽しそうに笑っていた。
「『熾炎隊』のサキル、そしてアーヴィル。まさか七国盟約の下で再び会うことになるとはな」
その声には、かつての敵への敬意と、再会への純粋な喜びが込められていた。
「エイリュウ……!」
アーヴィルが目を見開く。
かつて完膚なきまでに叩きのめされた相手。だが、今のイガートとの対面の後では、その屈託のない笑顔が不思議と救いのように感じられた。
「あの気難し屋の貴族将軍に、たっぷり絞られたって顔だな?」
エイリュウはニヤリと笑う。
「ま、気にすんな。あいつは誰に対してもあんな調子だ。血筋だの家柄だの、戦場じゃ何の役にも立たない飾りにな」
その言葉は、サキルたちの鬱屈を代弁してくれていた。
「前回の戦いでは、なかなか楽しませてもらったな。特にサキル、あの時の戦術は見事だった」
エイリュウの視線がサキルを捉える。
「前回は『次は敵か味方か分からない』と言ったが——まさか味方として再会することになるとはな。運命ってのは面白いもんだ」
「冗談を。こうなることも読んでいて、あの時俺らを見逃したんだろう?」
サキルが問いかけると、エイリュウは「さぁ、どうだろうな?」とおどけてみせた。
リノルや『熾炎隊』のメンバーたちも合流し、その光景を遠巻きに見ていた。
冷徹で傲慢な味方の将軍と、かつての敵ながら実力を認め合う他国の将軍。
この歪な関係性が、これからの戦いにどう影響するのか。
フィラリア城邑の中庭に、夕日が長い影を落としていた。
その光は三国三軍の旗を赤く染め、過去と現在、そして未来を繋ぐ新たな物語の始まりを告げているかのようだった。




