さらなる激動へ②
ネレネス本拠地の奥深く、外界から隔絶された司令室で、サキルは椅子に座っていた。重厚な石造りの部屋には、松明の炎だけが静寂を照らしている。その薄暗い光の中で、ラギアロが机に向かい、山積みにされた報告書に目を通していた。
彼の鋭い視線は一字一句を見逃すことなく文書を舐め回し、時折、眉間に深い皺を刻みながら何かを考え込む。そんな重苦しい空気の中で、サキルは簡素な木製の椅子に座り、彼が報告書を読み終える時を待っていた。
「前線での任務、ご苦労だったな」
ラギアロがようやく顔を上げ、サキルを見据える。その瞳には、いつもの冷徹さに加えて、何か別の感情——おそらくは満足感のようなものが宿っていた。
「スロイデル救出戦、要人を救えなかったとはいえ『再厄』を撃退できたのは一定以上の成果と言えるだろう。特にお前の戦術判断は、我々の期待を上回るものだった」
「そうか」
サキルは淡々と応じる。お世辞や謙遜、感謝の言葉——そういった社交辞令は、この二人の間では無意味だった。互いに利用し合う関係だということを、両者ともよく理解している。ラギアロはサキルの復讐心と戦闘能力を利用し、サキルはネレネスの情報網と機会を利用する。それだけの関係だ。
「で、次は何だ?」
サキルの問いかけは直截的で、無駄がない。彼にとって重要なのは、『再厄』への復讐に繋がる可能性があるかどうかだった。
「単刀直入だな、相変わらず」
ラギアロは苦笑を浮かべながら立ち上がる。彼は壁に掛けられた巨大な大陸地図の前に移動した。
その地図は、ウィスレ大陸の政治情勢を詳細に記したものだった。
七国の勢力圏が色分けされ、最新の戦況が赤い糸で結ばれている。各都市には小さな旗が立てられ、その支配者や軍事力が細かく記されていた。地図の縁には、『再厄』の活動が確認された地点に黒い印が付けられており、その数は既に百を超えていた。
「七国盟約——歴史上初めて、七つの国が共通の敵に対して結束した。その第一段階として、二つの反乱鎮圧に連合軍が派遣される」
ラギアロの指が地図の上を滑り、大陸北部を示す。
「まず、レイゼフ国で起きた『レルフォの反乱』。こちらにはレイゼフ本国に加え、地理的に近いケルディカ、レデス、ローウェンの計四国が主力となって鎮圧に向かう。規模としてはこちらの方が大きいが、純粋な武力衝突で片が付く公算が高い」
そして指先は南下し、イフィラ国の領土で止まった。
「問題は、イフィラ国『イフィルドの反乱』だ。こちらには当事国であるイフィラ、隣接するアルグア、そして我らがゼルグの三国が対応する」
「ゼルグも向かうのか」
「ああ。ゼルグからは『熾炎隊』と『綺蓮隊』が派遣されることが決定した。お前も知っている通り『熾炎隊』は炎術に特化した精鋭部隊。隊長のアーヴィルは七国でも指折りの炎術師だ。一方『綺蓮隊』は多様な術者を組み合わせた万能型の部隊。どちらも表の軍としては軍上層部が将来に期待を寄せるほどの実力を誇る」
サキルは地図を見つめながら、脳内で戦略を組み立てていた。
表の軍が動くということは、必然的に敵も警戒を強める。そんな中で裏の任務を成功させるには、相当な技量と運が必要になる。だが同時に、それだけ重要な情報が手に入る可能性も高い。
「こんな時にお前が『熾炎隊』に潜り込み、軍師という重要なポジションにいることは重畳といえるだろう。お前には今回のイフィルド反乱を裏で探ってもらいたい。目的は『再厄』に関する情報収集だ」
『再厄』——その名前を聞いた瞬間、サキルの心臓が一つ大きく鼓動を打った。
表情こそ変えなかったが、内なる復讐の炎が激しく燃え上がるのを感じる。ナバを、フェインを、リセを、ホーキフを——大切な人々を奪った憎むべき組織。その正体に一歩でも近づけるのであれば、どんな危険も厭わない。
「反乱の首謀者はクレイグ・レイ・フィローレ。フィローレ家の当主だが——」
ラギアロの声が低く、重いものになる。
「この男には、常軌を逸した噂が付きまとっている」
「どんな?」
「まず一つ目。『百五十年以上生きている』という話だ」
サキルは眉をひそめた。百五十年——それは人の寿命をはるかに超える数字だった。
創術によって寿命を延ばす技法は存在するが、せいぜい数十年程度が限界とされている。百五十年となると、もはや人間の範疇を超えた存在と言えるだろう。
「二つ目。『本人は表には現れず、常に裏でフィローレ家を操っている。故に本当に生きているのか分からない。既に死亡しているのではないか』という噂もある」
ラギアロは地図から視線を外し、サキルの方を振り返る。
「信憑性は?」
「正直なところ、不明だ」
ラギアロは肩をすくめる。
「だが、これらの噂はかねてから——それこそ百年前から囁かれ続けてきたものだ。あまりにも長期間、一貫して同じ内容の噂が流れ続けるというのは異常事態と言える。完全に嘘だとも言い切れん」
サキルは黙考した。
もしこれらの噂に少しでも真実が含まれているとすれば、クレイグ・レイ・フィローレという男は尋常ではない存在だということになる。そして、そんな異常な人物が今になって反乱を起こしたということは——。
「『再厄』との関連性を疑っているのか?」
「その通りだ」
ラギアロは頷く。
「今回の反乱のタイミングは、あまりにも出来過ぎている。七国盟約が成立した直後、『再厄』に関する情報が流れ始めた直後——まるで誰かが裏で糸を引いているかのような完璧なタイミングだ」
ラギアロは再び地図に視線を戻し、イフィラの領土を指で囲む。
「お前にはその真相を暴いてもらいたい。クレイグ・レイ・フィローレの正体、反乱の真の目的、そして『再厄』との関係——すべてを明らかにしろ」
サキルの胸中で、復讐の炎がさらに激しく燃え上がった。
これは単なる諜報任務ではない。『再厄』の正体に迫る、またとない機会だった。ナバたちの仇を討つための、重要な一歩になるかもしれない。
「……分かった」
サキルは立ち上がった。その動作には、静かな決意が込められている。
「条件は変わらずか?」
「ああ。情報と機会を提供する代わりに、お前はその能力を我々のために使う。互いにとって有益な取引だ」
二人の間には、深い信頼関係はない。だが、確固たる利害の一致があった。
それは時として信頼以上に強固な絆となる。特に復讐という強烈な動機に突き動かされている者にとっては、感情よりも合理的な計算の方が重要だった。
「それでは『熾炎隊』に合流——」
その時、司令室の重厚な扉が静かに開かれた。
音もなく開かれたその扉から現れたのは、あの黒いマントに身を包んだ人影——グンドルだった。松明の光がその全身を照らすが、マントとマスクに覆われた姿からは、相変わらず性別も年齢も読み取ることができない。
重い足音を響かせながら、その影はゆっくりとサキルの隣まで歩み寄る。その歩き方にも、意図的に男性的な重厚さが演出されているのがわかった。
「ラギアロ」
くぐもった声が部屋に響く。その声もまた、明らかに作られたものだった。
「俺も今回から『熾炎隊』に行く」
「ああ、そうだった」
ラギアロは当然とばかりに頷く。どうやらこれは既に決定事項だったらしい。
「グンドル、お前も『熾炎隊』に配属する。サキルと共に任務に当たれ」
サキルは眉をひそめた。
グンドルの戦闘能力については、十分に確認済みだった。サキルが『熾炎隊』に入隊する前の出来事とはいえ、シゼリ荒野の際に確認している。水術の腕前は確かなものだし、特に防御術と範囲攻撃は一流レベルだ。あれから数年、さらに腕を上げてる考えれば不安の余地はないだろう。
だが——。
「待て。こんな怪しい格好で軍隊に溶け込めるとでも思ってるのか?」
サキルの指摘は的確だった。『熾炎隊』は表の部隊である。そこに全身を黒マントで覆い、マスクで顔を隠した不審人物が紛れ込めるはずがない。
「『熾炎隊』は表の軍だぞ。軍装を身につけ、正規の手続きを経て配属される。そんな得体の知れない外見では——」
「なら、全て表に出してあげるよ」
その瞬間、グンドルの声が劇的に変化した。
今までのくぐもった重い男性の声音は完全に消え去り、代わりに響いたのは明らかに高く、軽やかで——そして間違いなく女性のものだった。
その声は清流のように澄んでおり、聞く者の心を洗うような美しい音色を持っていた。
サキルは完全に言葉を失った。
まさか、あの重厚な水術を操る戦士が女性だったとは——それも、この美しい声の主だったとは、想像の範囲を完全に超えていた。
「———」
困惑するサキルをよそに、グンドルは躊躇なく手をマスクにかける。そして一気に、それまで身を包んでいたすべての偽装を取り払った。
バサッ——。
まず黒いマントが床に落ちる音が、静寂の司令室に響いた。続いてマスクが外され、長い間隠されていた素顔が露わになる。
そして現れたのは——。
水色の髪が肩まで美しく流れる、息を呑むほど美しい少女の姿だった。
透き通るような白い肌は、まるで磁器のように滑らかで美しい。大きな瞳には清らかな水の色が宿り、その瞳孔の奥には深い湖のような静寂と、同時に激流のような情熱が同居していた。
整った顔立ちは、宮廷の画家が理想の美女として描くであろう完璧なバランスを持っている。
だが彼女の美しさは、か弱い花のようなものではなかった。
細身でありながらも、全身にはしなやかで引き締まった筋肉が浮かんでおり、長年の創術修行と実戦経験を物語っていた。特に手首から肘にかけて、そして太腿の筋肉は、相当な鍛錬を積んだ者でなければ得られない質の良い筋肉だった。
サキルは完全に絶句した。
脳内で、これまでの戦闘シーンが高速で再生される。あの重厚な水の防壁、敵を一瞬で葬り去った恐るべき死水の術、そして何より、不器用ながらも確実に約束を守り抜く誠実な戦いぶり——。
すべてが、この美しい少女によるものだったのか。
「グンドルという名は偽名」
少女は先ほどまでとは打って変わって、清流のような澄んだ声で語り始めた。
その声には、長い間封印されていた本来の自分を解放する喜びが込められていた。
「本当の名はリノル。声を意図的に低くして、マスクとマントで全身を包んで男として活動してた。周りに舐められないようにするためにね」
リノルは軽く首を振り、水色の髪を揺らす。その仕草には、今まで隠していた女性らしさが自然に溢れ出していた。
「けど、もう舐められないだけの力は身につけたし、それに——」
彼女はサキルを見つめ、微笑む。
「そっちの方が情報を得やすいと思ったの。美しい女性の方が、男性から情報を引き出すのは簡単でしょう?」
その時、ラギアロが重い声で補足した。
「リノルもお前と同じく、『再厄』に復讐を誓っている身だ」
その言葉に、リノルの表情が一瞬で変わった。先ほどまでの軽やかな雰囲気は消え失せ、代わりに深い憎悪と悲しみが混じった複雑な感情が浮かび上がる。
「故に今回の任務に同行させることにした。二人なら、より確実に情報を得られるだろう」
ラギアロの判断は合理的だった。一人よりも二人、しかも異なるタイプの二人が組めば、より多様なアプローチが可能になる。
リノルは軽やかに頭を下げる。
「それでは、よろしくお願いしますね——先輩」
その「先輩」という呼び方には、親しみやすさと同時に、適度な距離感が込められていた。彼女もまた、人との関係において一定の計算を働かせる人物のようだった。
長い沈黙が部屋を支配した。
サキルの脳内では、この突然の状況変化に対する対処法を模索する思考が高速回転していた。パートナーができれば、任務遂行において様々な変数をもたらすことになる。
良い変数もあれば、悪い変数もある。彼女の美貌は確かに情報収集において有利に働くかもしれないが、同時に不要な注目を集める危険性もある。
また、自分自身が彼女の存在にどう対応すべきかも、まだ整理がついていなかった。
だが最終的に、サキルの判断を決めたのは彼女の戦闘能力だった。
美しい外見がどうであろうと、実際の戦場で頼りになるかどうかが最も重要だ。そしてシゼリ荒野の一件で、彼女——リノルの実力は十分に証明済みだった。
「……それならいいだろう」
サキルはようやく口を開き、踵を返して扉に向かって歩き出す。
「行くぞ」
リノルは嬉しそうに頷き、軽やかな足取りでサキルの後に続いた。
彼女の歩き方は、先ほどまでの重厚で男性的なものとは正反対だった。しなやかで優雅でありながら、同時に音もなく移動する忍者のような静寂性も兼ね備えている。やはり只者ではない。
扉に手をかけた時、サキルは心の中で息を吐いた。
——次も一波乱ありそうだな。
復讐という重い宿命を背負った二人は、新たな任務へと向かっていく。
その先に待つのは、『再厄』への重要な手がかりなのか——それとも、予想もしない新たな試練と混乱なのか。
扉を出る瞬間、リノルはサキルの背中を見つめていた。
同じ復讐の炎を胸に秘めた者同士として、そして新たなパートナーとして——彼女の水色の瞳には、静かな決意の光と、僅かな期待の輝きが同時に宿っていた。
二人の影は、松明の光に揺らめきながら、その部屋の扉の向こうへと消えていった。
そして残されたラギアロは、一人静寂に包まれた部屋で、再び山積みの報告書に向かう。彼の表情には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
——これで駒は揃った。後は、彼らがどんな情報を持ち帰ってくるかだ。
『再厄』という巨大な謎に挑む、新たな物語の幕が、今まさに上がろうとしていた。




