狂気の幕間②
小屋の惨劇から十分ほどが経過した頃、タシュアは森の木陰に身を隠しながらその後の様子を窺うために戻ってきていた。
彼の紫色の瞳には、先ほどまでの必死な演技の欠片もなく、純粋な好奇心と愉悦の光が宿っている。
小屋の周囲には軍の馬が何頭も繋がれており、兵士たちの甲冑が夕日を反射してきらめいていた。
しかし、その光景には何かしら異様な静寂が漂っている。
戦闘の喧騒も、兵士たちの号令も、ゲッシュの絶叫も——全てが不自然なほどに静まり返っていたのだ。
「さて、どんな素晴らしい結末になったかな?」
タシュアが小さく呟きながら、小屋の入り口へと近づいていく。
彼の足音は羽根のように軽やかで、長年にわたって培われた隠密行動の技術が遺憾なく発揮されている。
小屋の入り口付近まで来ると、タシュアの鼻腔に鉄錆のような血の匂いが濃厚に漂ってきた。
それは彼にとって最も愛する香りの一つでもある。
「おや?」
小屋の中を覗き込んだタシュアの顔に、心底意外だという表情が浮かんだ。
そこには、たった一人だけ——バルアの姿があった。
バルアは小屋の中央に悠然と立っており、その足元には夥しい数の死体が転がっている。
達磨人間たちの無惨な死体、兵士たちの装備を剥ぎ取られた裸の死体——全てが血の海の中に沈んでいた。
しかし不可解なことに、死体の数が明らかに足りない。
軍が来た時には少なくとも十数名の兵士がいたはずなのに、そこには数名分の死体しか残されていなかった。
「てめえタシュア、胸糞悪いことしやがって」
バルアがゆっくりと振り返り、血に濡れた手で剣を拭いながら言う。
その声には深い嫌悪と軽蔑が込められていた。
「殺すならさっさと殺しやがれ。こんな中途半端な真似するなら最初から手を出すんじゃねえよ」
バルアは中年の男性で、顔や体中に無数の古い傷跡が刻まれている。
その眼光は鋭く、まるで獲物を狙う肉食獣のような獰猛さを秘めていた。
彼の周囲には殺戮の残り香が濃厚に漂い、間違いなく手練の殺し屋であることが分かる。
「やあやあ、バルア」
タシュアが軽やかな調子で挨拶する。その表情には先ほどまでの興味深そうな色はなく、代わりに明らかな嫌悪感が浮かんでいた。
「君こそ生きた証まで全て奪うのは可哀想だと思わないのかい?」
タシュアが小屋の中を見回しながら続ける。
「死体の数が合わないけど、なくなった死体はどうしたんだい?ゲッシュ君とかがいないんだけど……まぁ聞くまでもないか。だから追い剥ぎ野郎は嫌いなんだ」
「てめえがそれを言うか?」
バルアが鼻で笑いながら反論する。
「奴らの尊厳全て奪い尽くして、精神を完全に破綻させて、それが追い剥ぎと何が違う?少なくとも俺は苦痛を長引かせたりしねえよ」
「僕のは芸術だよ、芸術」
タシュアが両手を広げて大仰に言う。
「人間の精神がどこまで歪められるか、どれほどの絶望に耐えられるか——それを追求するのは崇高な研究だ。君のように死体すら残さずに全てを奪うのとは次元が違う」
「研究だぁ?笑わせるな。てめえはただ人を苦しめるのが好きなだけの変態野郎だろうが」
二人の言い争いは次第にエスカレートしていく。
タシュアとバルアは同じ組織に属してはいるものの、その手法と価値観があまりにも相容れないため、会うたびにこのような口論になるのが常だった。
タシュアは人間の精神を巧妙に操り、長期間にわたって絶望を与え続けることに快楽を見出すタイプの狂人である。
一方のバルアは、単純明快に殺戮と略奪を行う典型的な荒くれ者だった。
どちらも社会にとって極めて有害な存在だが、互いに相手のことを最低最悪の人間だと思っている。
言い争いながら、タシュアは心の中で冷静に思考を巡らせていた。
——こいつにだけはサキル君の存在はバレないようにしないとね。あの無神経で強欲な男のことだから、サキル君の中に眠る特別な存在を知ったら、なりふり構わず奪ってくるかもしれない。
タシュアにとってサキルは、長年にわたって丹念に育て上げてきた最高傑作でもある。
その貴重な実験体を、バルアのような粗野な男に台無しにされるわけにはいかなかった。
「てめえの趣味につき合ってる暇はねえんだよ」
バルアが苛立たしそうに剣を鞘に収める。
「さっさとここから消えろ。俺にも予定があるんだ」
「僕こそ君と同じ空気を吸うのは苦痛でしかないよ」
タシュアが嫌悪感を隠そうともせずに言う。
「君のような野蛮人とは価値観が合わないからね」
口喧嘩が過熱し、ついに両者が武器に手をかけようとしたその時——
空間が不自然に歪み始めた。
まるで水面に石を投げ込んだかのように、大気が波紋状に揺らめいている。
その歪みの中から、一人の青年がゆっくりと姿を現した。
「そこまでにしてくださいタシュアさん、バルアさん」
現れたのは、フォーユという名の青年だった。
20代前半と思われる彼は、整った顔立ちと穏やかな表情を持ち、一見すると好青年に見える。
しかし、その瞳の奥には測り知れない深淵が潜んでおり、決して油断できない危険な人物であることが窺える。
「組織内の同士討ちは禁じられているって何回言わせるんですか?いや、お二人も理解してるはずですよね?」
フォーユの声は穏やかだが、その中には有無を言わせない威圧感が込められていた。
組織内において、彼の言葉は絶対的な権威を持っているのだ。
「フォーユ君、これはしょうがないことなんだよ」
タシュアが肩をすくめながら言う。
「誰だってゴキブリが近くに来たら生理的に潰したくなるだろ?それと同じ原理さ。あっ、これはゴキブリさんに大変失礼だったね」
「フォーユ、イナゴっているだろ?」
「なんでも食い尽くすあれだよ。この世に害しかもたらさないやつ。あれを生かしても何もメリットないだろ?それと同じだよ。おっと、イナゴに失礼だったな」
バルアも負けじと反撃する。
「ゴキブリ以下の生命価値は黙っていなよ」
「あ?イナゴより有害な駆除対象が何言ってやがる」
二人の過去の所業を客観的に鑑みると、世界から見ればどちらも極めて有害で危険な存在である。
無数の罪もない人々を殺害し、社会に混乱と恐怖をもたらし続けている悪の権化とも言える人物たちだ。
だが、そんなことを彼ら自身が考えることは決してない。
それぞれが自分なりの正義や価値観を持っており、相手こそが真の悪だと信じて疑わないのだ。
「だから二人ともおやめくださいって言ってるじゃないですか!」
フォーユが頭を抱えながら叫ぶ。彼にとって、この二人の仲裁は日常的な業務の一つになっていた。
「ふん」
タシュアが鼻を鳴らして不満を表明する。
「チッ」
バルアも舌打ちして苛立ちを露わにした。
このような光景は、三人が集まるたびに繰り返される恒例行事でもあった。
組織の掟により殺し合いは禁止されているものの、口論だけは止むことがない。
「ところでフォーユ君、ちょっと時間いいかな?」
タシュアがバルアを一瞥してから、フォーユに向き直る。
「この野蛮なゴキブリ男がいると気が散るから、別のところに飛んで話したいんだけど」
「いいですが……」
フォーユが深いため息をついて答える。
「喧嘩を止めさせるために私を呼ぶのは勘弁してほしいんですよね。本来の任務もあるんですから」
「僕は君の実直さを心底信頼してるのさ」
タシュアが右腕の袖を捲り上げる。そこには黒い炎を模した複雑な文様が刻まれていた。
それは痣にも似ているが、明らかに人工的に施された印である。
「僕たち組織全員がこの『印』をつけているのはこの為だよ」
「違いますよ」
フォーユが呆れたような表情で首を振る。
「わかっててボケて反応を見ようとするのもやめてください。とりあえず行きますよタシュアさん」
「ああ、早く行こうじゃないか」
タシュアが満足そうに微笑む。
「そろそろこいつと同じ空気を吸ってるのも限界だったところだよ」
「フォーユ、こんな野郎によくついて行くよな」
バルアが呆れたように言う。
「イラついたら後ろからこいつのいる空間ごと抉ってもいいんだぜ」
「いえ、そういうところも含めてタシュアさんですよ」
フォーユが穏やかに微笑みながら答える。
「どんな人であれ、大恩は返さなくてはいけません」
「いやぁありがたいなぁ……」
タシュアが嬉しそうに言う。
「まぁ『どんな人でも』ってのがちょっと納得いかないんだけど!」
「はいはい、行きましょうタシュアさん」
フォーユが苦笑いを浮かべながら促す。
「はっ、さっさと俺の前から姿を消せよ。どっかでのたれ死んでくれたら尚良いな」
バルアが吐き捨てるように言う。
「そのセリフそっくりそのまま返すよ」
タシュアが振り返って言い返す。
「役割だけはしっかり果たすように」
「誰に言ってやがる。てめえこそヘマしたら承知しねえぞ」
「それではまたお会いしましょうバルアさん」
フォーユがバルアに丁寧にお辞儀をする。その礼儀正しさは、この状況には不釣り合いなほど上品だった。
バルアとタシュアが最後まで憎まれ口を交換する中、フォーユは再び空間転移の術式を発動させる。
大気が再び歪み始め、タシュアとフォーユの姿が徐々に薄れていく。
やがて二人は完全に姿を消し、小屋には再びバルア一人だけが取り残された。
「さて、いらない残骸は燃やしておくかね」
バルアが肩を鳴らしながら、辺りに散らばった死体を見回す。
彼にとって死体の処理は日常的な作業の一つでしかなく、特に感慨を抱くこともない。
残された死体たちに火を放ち、証拠隠滅を図るのも彼の重要な役割だった。
* * *
一方、空間転移によって誰も近寄らないような深い森の奥地に移動したタシュアとフォーユは、古い切り株に腰を下ろして会話を始めていた。
周囲には巨大な古木が立ち並び、昼間でも薄暗い神秘的な雰囲気が漂っている。
ここなら誰に聞かれる心配もなく、重要な話をすることができるだろう。
「さてフォーユ君、君はサキル君に挨拶したことがなかったよね?」
タシュアが口を開く。その声には、まるで愛する息子について語る父親のような温かさが込められていた。
「タシュアさんが前に言っていた玩具ですね」
フォーユが頷きながら答える。
「はい、挨拶はまだです」
「それは好都合だよ」
タシュアの目が愉快そうに細められる。
「この後、いよいよ計画が本格的に動き出すからね。その前に君とサキル君が挨拶をしてはどうかなと思ったんだ。仕込みは僕がしっかりやっておいたからね」
タシュアの言葉には、長年にわたって練り上げてきた綿密な計画への自信が滲んでいる。
「ただし」
フォーユが真剣な表情になる。
「遊びにかまけて本筋を蔑ろにするのは良くない。北方民族の件は進んでいるかい?」
「はい、順調ですよ」
フォーユが報告する。
「早すぎもなく遅すぎもなく、このままいけば適度なタイミングで攻め入ってくれるでしょう。現地の工作員からも定期的に連絡が入っています」
「それはよかった」
タシュアが安堵の表情を浮かべる。
「僕も後で様子を見ておくよ。北方民族との戦争は、我々の計画にとって重要な要素だからね」
「話は戻るけど、サキル君に挨拶をしてはくれないだろうか?」
「はい、いいですよ」
フォーユが爽やかな笑顔を浮かべる。
「後の楽しみにもなるでしょうし。どのようなアプローチがお望みですか?」
「うん、よくわかってるね」
タシュアが満足そうに頷く。
「ただ一つ注意して欲しいのが、バルアには絶対にバレないようにすることだ」
タシュアの表情が急に深刻になる。
「あの無神経な男のことだから、サキル君の中に眠る特別な存在を知ったら、なりふり構わず奪ってくるかもしれない。そうなったら僕の長年の研究が台無しになってしまう」
「そうかもしれないですね……」
フォーユも理解を示すように頷く。
「わかりました。詳しくサキル君について教えてくれませんか?彼とタシュアさんが遊んでいるところは前に拝見しましたが、それ以外は断片的な情報しか聞いていませんでしたので」
「ああ、いいとも」
タシュアの表情が一変し、まるで自慢の息子について語る親のような温かい笑みを浮かべる。
「サキル君はね、僕が長年かけて育て上げた最高傑作なんだ。頭脳明晰で戦術眼に優れ、そして何より——心の奥底に深い復讐心を秘めている」
タシュアが語るサキルの話は、まるで芸術作品を評価するような情熱に満ちていた。
彼がいかにサキルという人間を「作品」として愛でているかが、その口調からありありと伝わってくる。
「孤児だった彼を拾い上げ、仲間たちと共に育て、そして——運命の夜に全てを奪った」
タシュアの瞳が恍惚の光を帯びる。
「あの時の彼の絶望した表情は、今でも鮮明に覚えているよ。美しかった。そして今、彼はその復讐心を原動力に、見事な軍師として成長している」
——もっとも、彼がサキルにした酷い仕打ちを考えれば、戦慄を覚えるほどに異常な愛情表現であることは言うまでもない。
「かいつまんだ話は前から聞いていましたが、楽しそうですね」
それを聞いてフォーユが爽やかな笑みを浮かべる。
その表情には微塵も嫌悪や恐怖はなく、純粋な興味と好奇心だけがあった。
フォーユもまた、タシュアに劣らぬ異常者であることがよく分かる。
「ああ、だから君にはその盛り上げ役になってもらおうと思ってね」
タシュアが身を乗り出して続ける。
「具体的には——」
二人の密談が続く間に、いつの間にか辺りは暗くなり始めていた。
夕暮れが深い森をその暗部をより一層強調し、不気味な雰囲気を醸し出している。
「ッッ!!ですがそんなことしてよろしいのですか?あなたの過去が彼やゼルグにも知られることとなりますよ?」
「ああ、いいさ。七国に知れ渡ってもどうってことないし、なんならこの名前名乗り続けてる時点で露呈するのは時間の問題さ。そしてサキル君にはむしろ早く知ってもらいたい。知ってそれをどのように復讐に利用してくれるかーーとても興味があるね」
「そうですね……承知しました。私もタシュアさんも久々に里帰りと行きましょうーークソ親父はどうしてるのかな?」
「こらこら、何度も言ってるだろ?君にとっては忌むべき父であっても私にとっては唯一無二の親友だって。また会っても殺しにかからないでくれよ?」
「……分かってますよ。私はあの頃とは違うのです。もうそこまで未練は感じてはいません」
今宵話されているのは、まさにこの日の当たらない場所を比喩するような世界の暗部についてだった。
表の世界では決して語られることのない、邪悪で残酷な計画が粛々と進められている。
闇は今日も舞台の裏で蠢いている——そして、その闇が表舞台に姿を現す時、多くの無辜の人々が絶望の淵に叩き落とされることになるのだろう。
森の奥で響く二人の笑い声が、夜風に乗って消えていく。
それは人間の悪意が結晶化したような、身の毛もよだつほど邪悪な響きだった。




