狂気の幕間①
昼間の太陽が高く昇っているにも関わらず、村外れの鬱蒼とした森に囲まれたこの小さな小屋には、まるで永遠の夜が降りているかのように暗闇が支配していた。
僅かに差し込む陽光さえも、まるで何かに吸い込まれるように消え去り、代わりに紫色の不気味な光が室内を淡く照らしている。
その薄暗い小屋の中に、人間としての尊厳を完全に奪われた十数人の男女が転がされていた。
彼らは皆、両手両足を根元から切り落とされ、達磨のような無惨な姿にされている。
本来なら30代前半のはずの彼らは、長年にわたる過度のストレスと絶望により、まるで40代、50代の老人のような深い皺と疲労を顔に刻んでいた。
申し訳程度に与えられた汚れた布切れが、彼らの裸体を僅かに覆っているが、それすらも彼らの惨めさを際立たせるだけの残酷な演出でしかない。
男女問わず、人間としての最後の尊厳さえも完全に踏み躙られた姿は、見る者の心を凍らせるほどに悲惨だった。
そんな地獄のような光景を、一人の男が心底楽しそうに眺めていた。
タシュア——その名を聞いただけで多くの人間が恐怖に震え上がる、狂気の化身ともいうべき男だった。
彼の顔には、まるで最高の娯楽を鑑賞しているかのような恍惚とした表情が浮かんでいる。
紫色に光る瞳が、転がる人間たちの一人一人を愛でるように見つめていた。
「ミルズ君とはやり合わせたし、ミリーレテ君とメレーシェル君、グレイス君のお披露目も済んだ」
タシュアが独り言のように呟く。その声は軽やかで、まるで愉快な思い出を振り返っているかのようだった。
「加えて次の仕込みも完了したけど、まだまだ足りないなぁ」
暗い部屋で彼の紫色の瞳がより一層不気味に輝いた。まるで深淵を覗き込むような、底知れない狂気の光が宿っている。
達磨状態にされた哀れな被害者たちには猿轡が噛まされておらず、常に絶望的な呻き声と嗚咽が小屋内に響いていた。
「うう……うああ……」
「殺して……お願いだから……」
「もう……もう嫌だ……」
断続的に漏れる彼らの嘆きは、人間の絶望がどれほど深いものかを物語っていた。
だが、タシュアにとってはそれらの声が陽気で心地よい音楽に聞こえているのだろう。
彼の表情は愛しいものを見つめる恋人のように、まるで蕩けるほどに弛緩していた。
「ああ、素晴らしいね」
タシュアが深く息を吸い込み、恍惚とした表情でそう呟いた。
「人ってこの状態になると、ただただ死に希望を見出すだけの存在になるのか。これほど純粋で美しい絶望は、そうそう見られるものじゃない」
彼の言葉には、まるで芸術作品を論評する評論家のような知的な響きさえあった。
しかし、その内容は人間の心を持つ者なら誰もが戦慄するような異常なものである。
異常極まりない在り方は、まさに彼に付けられた二つ名「紫蝕の悪魔」の通りだ。
紫色の狂気で人の心を蝕み、悪魔のような残酷さで人々を絶望に追い込む怪物——それがタシュアという男の正体だった。
ギィ——
突然、小屋の古い木製のドアが軋みながら開かれた。
タシュアが振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
その男は年齢30代半ばほどで、もともとはこの村の出身らしく素朴な村人の風貌をしていた。
中肉中背で特に目立った特徴はないが、その瞳の奥には異常なまでの執着と、狂気じみた使命感が宿っている。
彼の名前はゲッシュ——かつては普通の少年だった。男である。
「あれ?珍しいじゃないですか。あなたがこんな辺鄙なところに顔を出すなんて」
タシュアが心底驚いたような表情で言う。
しかし、その驚きには演技めいた軽やかさがあった。
「やあ久々だね、ゲッシュ君。元気かい?」
「はい!タシュア様もお元気そうで何よりです」
ゲッシュがいそいそと手に持った水の入った瓶と、簡素な食糧の入った袋を小屋の床に転がっている達磨人間たちのもとへ運んでいく。
彼の動きは迅速で無駄がなく、まるで長年にわたって同じ作業を繰り返してきた職人のような手際の良さを見せていた。
一人一人の口元に水を含ませ、砕いた食物を丁寧に食べさせていく。
その様子は、昨日今日に世話を始めた者の動きではとてもなかった。
少なくとも十年、いや二十年以上にわたって同じ作業を続けてきた者だけが持つ、洗練された動作だった。
「いやぁ、いつも悪いね。彼らの世話を任せてしまって」
タシュアが申し訳なさそうに言う。
しかし、その表情には微塵も罪悪感はなく、むしろ満足そうな色が浮かんでいた。
「いえいえ、私は自分の役割を全うしてるだけです」
ゲッシュが即座に返答する。その声には揺るぎない確信と、奇妙なまでの情熱が込められていた。
「私がやらなかったら、こいつら……俺の大切な友達は死ぬしかありません。ならば私が頑張らなくては!私こそが彼らに生きる意味を与えることができる唯一の存在なんです!」
ゲッシュの目が異様に輝いている。それは使命感に燃える聖職者のような、狂信的な光だった。
彼にとって、この達磨人間たちの世話をすることは、もはや義務でも強制でもない。
それは彼の存在意義そのものであり、生きがいとなっていたのだ。
「うんうん、とってもいいね」
タシュアが心底嬉しそうに頷く。
「あの日、やはり君をお世話係に任命してよかったよ。彼らが生きるには君の力が不可欠なんだ。君がいなければ、彼らは確実に死んでしまう。引き続きよろしく頼むよ。彼らに生きる喜びを教えてあげて欲しい」
「はい!頑張ります!必ず彼らを守り抜きます!」
ゲッシュが力強く答える。
その表情には、まるで崇高な使命を託された騎士のような誇らしさがあった。
しかし、彼らのやり取り——その在り方はあまりにも歪で異常だった。
床に転がる達磨人間たちの瞳には、明らかに死を願う絶望の光が宿っている。
彼らは生きることを望んでいない。
一刻も早く、この地獄のような苦痛から解放されることだけを願っているのだ。
「殺して……お願いだから……」
「もう……十分だ……」
「頼む……もう楽にしてくれ……」
そんな彼らの哀願の声が、ゲッシュには全く聞こえていない。
いや、正確には聞こえているのだが、それを「生きたいという叫び」として解釈しているのだ。
この狂気の構図が生まれたのは、今から二十年以上前のことだった。
当時まだ10代だった村の少年少女たち——ゲッシュもその一人だった——が、ある日突然現れたタシュアによって攫われた。
タシュアは人体の構造を知り尽くした専門家で、どうすれば人間を殺さずに最大限の苦痛を与えられるかを熟知していた。
彼はゲッシュ以外の全員の四肢を、絶妙な技術で切断した。
通常なら失血死してしまうはずの手術を、彼は完璧に成功させ、彼らを生かしたまま達磨人間にしたのである。
そして、唯一無傷だったゲッシュに対して、タシュアは冷酷にこう告げた。
「君がこのようになりたくなければ、彼らの世話をし続けろ。君が世話を怠れば、彼らは確実に死ぬ。そして君も同じ目に遭わせてやる」
最初のうち、ゲッシュは恐怖に支配されながらも、仲間たちを救う方法を必死に模索していた。
しかし、何年経っても救援は来ず、逃げる術もなく、タシュアの監視からは逃れられなかった。
やがて十年、十五年、二十年と時が過ぎていく中で、ゲッシュの精神は徐々に摩耗し、ついには完全に破綻してしまった。
彼の中で現実と妄想の境界が曖昧になり、自分の使命が仲間たちの世話をして生を与えることだと思い込むようになったのだ。
今では彼は自分から進んで、まるで天職であるかのように仲間たちの世話を続けている。
世話に必要な道具や食料等は全てタシュアが用意してくれるので、物質的に困ることはない。
ゲッシュにとって、この生活こそが正常で、崇高で、意味のあるものだったのだ。
そんな時だった。
遠くから馬のひづめの音が聞こえてきた。
複数の馬が、この小屋に向かって一直線に駆けてくる音だった。
「通報があった!ここを開けろ!」
力強い男性の声が小屋の外から響いた。明らかに軍人の声だった。
ゲッシュの顔が一瞬で血の気を失い、青白くなった。
彼の目が恐怖で見開かれ、体が小刻みに震え始める。
「た、タシュア様……これは一体……」
ゲッシュが慌てふためきながらタシュアの顔を見つめる。
その表情には、主人に見捨てられることへの絶望的な恐怖が浮かんでいた。
瞬間、タシュアの表情が激変した。
先ほどまでの余裕に満ちた笑みは完全に消え去り、代わりに青ざめた顔と冷や汗が浮かんでいる。
「な、なんだって!?軍が来たって!?」
タシュアが震え声で叫ぶ。その声は明らかに動転しており、手もわなわなと震えていた。
「どうして……どうして見つかったんだ!完璧に隠していたはずなのに!」
タシュアが頭を抱えながら小屋の中を右往左往する。その様子は心底困り果てた人間そのものだった。
普段の冷静さは微塵もなく、ただひたすらに狼狽している。
「くそっ!くそっ!このタイミングで……!」
タシュアが歯を食いしばり、拳を握りしめる。その顔は恐怖と絶望で歪んでいた。
「ゲッシュ君!大変なことになった!僕たちは完全に包囲されてしまったようだ!」
「え、ええ!?そんな……どうすれば……」
ゲッシュも完全にパニック状態になっている。
「た、タシュア様!彼らを護らねば!一緒に戦いましょう!」
「いや、それは駄目だ!」
タシュアが必死の形相でゲッシュを見つめる。その目には切実な焦りと絶望が宿っていた。
「実は……実はここ以外にもいるんだ!他の場所にも、四肢を失った人たちがたくさんいる!彼らの命を守らなければいけないから、僕は今すぐここを離れなければならない!」
タシュアの声は切迫しており、額には脂汗がにじんでいる。その必死さには、まるで演技とは思えないほどのリアリティがあった。
「そんな……タシュア様がいなくなったら、私は……この人たちは……」
「頼む!ゲッシュ君!」
タシュアが両手でゲッシュの肩を掴み、涙目になりながら懇願する。
「君だけが彼らの命を繋ぎ止めることができる!僕がいない間、君が彼らの希望そのものになるんだ!お願いだ、ゲッシュ君!君の力が必要なんだ!他に頼める人間は誰もいないんだ!」
タシュアの声は震えており、その表情は心底追い詰められた人間のものだった。
まるで愛する家族を託すかのような、切実で必死な表情を浮かべている。
「私が……彼らを……」
ゲッシュの中で、何かが決定的に変わった。
恐怖が使命感に変わり、絶望が決意に昇華された。
「分かりました!私が必ず彼らを守り抜きます!たとえ命を懸けても!」
ゲッシュの声には、もはや恐怖はなく、狂信的な決意だけがあった。
「ありがとう!ありがとう、ゲッシュ君!」
タシュアが感涙に咽びながら懐から一本の剣を取り出した。
それは明らかに業物と呼ばれる類の名刀で、刀身には不吉な光が宿っている。
「これを君に託そう!いざという時は、これで彼らを守るんだ!頼んだぞ!」
「はい!必ずや!」
ゲッシュが震える手で剣を受け取る。その瞬間、彼の目には戦士としての覚悟が宿った。
「では、僕は小屋の裏口から失礼するよ!君のことは絶対に忘れない!」
タシュアが涙を拭いながらそう言うと同時に、小屋の入り口で激しい音が響いた。
ドアが勢いよく蹴破られ、武装した兵士たちが雪崩れ込んできた。
彼らの装備は本格的で、明らかに軍の正規兵だった。
「動くな!全員そのままの位置で――」
兵士の号令が小屋内に響く中、タシュアの姿は既に裏口から消えていた。
森の中を駆け抜けるタシュアの口元に、満足そうな笑みが浮かんでいる。
先ほどまでの必死な演技は完全に消え去り、代わりに心底愉快そうな表情が戻っていた。
——まぁ、僕が通報したんだけどね!
彼の頭の中では、これから起こるであろう混乱と絶望のシナリオが、まるで美しい交響曲のように響いていた。
ゲッシュがどのような選択をし、兵士たちがどのような反応を示し、達磨人間たちがどのような絶望を味わうのか——全てが彼にとっては最高の娯楽だった。
さすがは「紫蝕の悪魔」の名を持つ男である。人の心を巧妙に操り、絶望に追いやる演技力は完璧だった。
小屋の中では、ゲッシュが業物の剣を握りしめ、兵士たちと対峙していた。
彼の瞳には、もはや人間らしい理性の光はなく、ただひたすらな狂気だけが宿っている。
「彼らに近づくな!俺が……俺が守る!」
ゲッシュの絶叫が、森の静寂を切り裂いた。
タシュアにとって、この上なく美しい地獄絵図がそこにはあった。




