血濡れた幕間 〜とある惨劇の夜に〜
「ヒ、ヒィィ!」
「キャァァァ!」
「た、助けてくれえ!」
「や、やめろ……やめろぉぉ!」
夜闇を切り裂く悲鳴が村のあらゆる場所から響き渡り、絶望に満ちた怒号が炎と煙の中を飛び交っていた。
村人たちは全てを焼き尽くさんとばかりに燃え盛る猛火から逃れようと、必死に村の外へと駆け出していく。
かつては平和な農村だった場所が、今や阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
木造の家屋は次々と炎に包まれ、屋根が崩れ落ちる音と家畜たちの恐怖に満ちた鳴き声が、人々の悲鳴と不協和音を奏でている。
黒煙が立ち込める中、村人たちは方向感覚を失いながらも、本能的に安全を求めて無秩序に逃げ惑っていた。
老人は若者に支えられながらよろめき、母親は幼い子供を抱きかかえて必死に走り、男たちは家族を守ろうと後ろを振り返りながらも足を止めることができずにいる。
焦げ付く肉の匂いと血の臭いが混じり合い、この現実離れした悪夢を彩っていた。
誰もが理性を失いかけ、ただ生き延びることだけを考えていた。
しかし、この混沌の中心で、一人の男だけが異様なほど静かに立っていた。
「——嗚呼……嗚呼、実に素晴らしい」
その男の声は、周囲の喧騒とは対照的に穏やかで、まるで美しい音楽を聴いているかのような陶酔に満ちていた。
燃え盛る炎に照らされたその容貌は、人間のものとは思えないほど冷徹で無機質だった。
長い黒髪が夜風に揺れ、その一挙一動が現実離れした不気味さを醸し出している。
この景色は、彼にとって本当に素晴らしいものだった。
もう百を優に超える村々を焼き、数えきれないほどの命を奪ってきたにも関わらず、この光景に飽きることは決してない。
人間という存在は、どうしてこれほどまでに脆く、弱く、儚く、そして最高に興味深いのだろうか。
タシュア・イーライグにとって、人間の苦痛と絶望は最上の娯楽であり、同時に芸術作品でもあった。
一人一人の表情、一つ一つの叫び声、そのすべてが彼の完璧な記憶に刻み込まれていく。
彼の周囲だけが不思議なほど血に染まっておらず、まるで死神が通り過ぎた後のような清浄さを保っていた。
「こ・・・この悪魔!!!」
悲鳴と怒号、そして混沌の渦の中に、一際強く指向性のある声が響いた。
タシュアがそちらへ視線を向けると、逃げ惑う村人が大勢いる中で、ただ一人、気丈にも自分に吠えかかってくる者がいる。
至福の時間を邪魔された——などとは全く思わない。むしろ、この絶望的な状況下で彼に刃向かってくるような人物がいること自体が珍しく、そして興味をそそられた。
それは貧相な身なりの農夫だった。簡素な麻の上着に粗末な草鞋を履き、外見年齢は四十半ばほどに見える。
しかし、おそらく実年齢はもっと若いだろう。この戦乱の時代、農夫で外見年齢より老けて見える者はいても、若く見える者はほとんどいない。
それだけ皆、日々の生活に疲弊し、一日一日を生き抜くのに精一杯なのである。
故にこそ、命がけとはいえ稼ぎになる戦場に農夫が参加することもあるのだが、この男にはそういった経験はないらしい。
武器の扱いも知らず、戦いの心得もない。それにも関わらず、村を圧倒的な力で襲い、地獄絵図を作り出した元凶に向かってきた。
勝ち目など皆無だというのに。
実際、農夫の目は涙で潤み、足は激しく震えている。恐怖で今にも崩れ落ちそうになりながらも、彼は一歩も引かなかった。
つまり、それには彼を突き動かす別の理由があるということだ。
「ふふ、無力で腕に自信など皆無なのに、君がその命を捨ててまで家族を護ろうとする気概は尊く素晴らしい。これまで八百三十一の村を燃やしたけれど、逃げるよりも吠えかかってくる君みたいな尊い存在がいたのは数えるほどしかいなかった。腕に覚えがありそうな者が吠えかかってくるのは千百二十五人いたけれど、君みたいに勝ち目が僅かともないのに立ち向かってきたのは五十三人程度しかいない。素晴らしい、素晴らしい想いの強さだ!僕は君を心の底から尊敬しよう!」
タシュアはすぐにその理由を見抜き、両腕を広げて興奮に声を震わせながらまくし立てた。
そうだ、人間とは自己保身を何よりも優先するのを本性としている醜い生き物だ。
こんな戦乱の時代なら尚更、その醜悪さが際立つ。
それなのにこの男は、大切な者を護るために本能に抗って命を投げ出そうとしている。
故に彼は、人間というエゴの塊を超越した、賞賛に値する存在といえた。
「なんだ……なんだよ……八百の村を焼いた?そして五十の俺と同じような奴らが吠えかかってきたって……お前は……」
農夫の声は震えていた。信じられないものを見るような目で、そして信じたくないと拒むような声音で問いかけてくる。
その表情には、人間の理解を超えた存在に直面した時の、原始的な恐怖が浮かんでいた。
「うん、もちろん全て正確な数字。そして皆殺しさ。とはいっても君にも特別な殺し方を考えてあるから安心して」
タシュアはにっこりと笑みを浮かべながら、まるで友人に親切なアドバイスをするかのように教えてあげた。
その笑顔は美しく、慈愛に満ちているように見える。しかしその笑顔の奥に宿る眼差しは、人間を虫けらのように見下す冷酷さに満ちていた。
「お前は……」
予想通り、農夫は絶句し、別次元の何かを見るような視線を向けてくる。
先程までは「悪魔」と口では言っていても、まだ異常者に向けたものといった感じだった。
しかし今はもう、真の悪魔に向けた視線に変わっている。
このパターンは今まで六百五人ほど見てきた。人間が真の絶望に直面した時の反応は、驚くほど画一的だった。
そして農夫は震える唇をギュッと強く噛み、言葉を絞り出した。
「まさか……お前は全てを数えてきたのか?」
「ああ、数えるどころか一人残らず全員の死にざまを覚えてる。皆最高だったよ」
何を問おうとしているかは一目見ただけでわかったので、タシュアは淀みなく、彼がこの後興味深い言動をするように答えた。
農夫の表情が絶望から困惑、そして何か別の感情へと変化していくのを観察するのは、実に興味深かった。
「…………お前は……お前は何故そこまで狂うことができる?」
数秒間の沈黙の後、農夫は震える声で問いかけてきた。
その言葉には憎悪と憤怒、恐怖と畏怖など、多くの感情が入り乱れ、満ち満ちている。
しかし、タシュアが最も惹かれたのは、それらに混じった稀有な「知りたい」という純粋な欲求だった。
「お前は何故この村が焼かれ皆が逃げ惑う景色を見て笑っていられる?何故それほどまでに残忍に、残酷に、冷酷になれる?何故だ!何故なんだ!お前は何者で何をしたいんだ!」
これは単なる絶望的な問いかけではなかった。
農夫は死を目前にして、死を与える者の本質を理解しようとしていた。
自分が死ぬことで、この悪魔のような存在に何らかの変化が生じるのか、それとも何も変わらないのかを確かめようとしているのだ。
これから死んで無になるというのに、そのようなことに意識を向けた人間など、同じような状況に追いやった者の中でもほんの一握りしかいなかった。
しかも、それは彼自身のためではない。
今彼が殺されてしまえば、その命を賭して逃がそうとした者たちが危険にさらされる。
故に彼は、大切な人が生き残る可能性を探り、もし隙があるならば守る術を見つけようとしているのである。
「素晴らしい……本当に素晴らしい!ここまで健気に大切なものを守り抜こうとする人間は初めてだ!」
タシュアは思わず興奮し、声高にまくし立ててしまった。このまま煙に巻いても良いが、それでは面白くない。この稀有な存在には、特別なサービスをしてあげよう。
「ああ、そうだ、さっきの問いには答えてあげないとね。僕は喜悦、悲哀、苦痛、希望、絶望、憎悪——人間が持つあらゆる感情の極限を知りたいんだよ。君たちという存在の持つ可能性を、その限界まで引き出してみたい。だから……君は最高なんだ。新たな僕の知らない感情を見せてくれる。そしてそんな君の子どもは、きっととても素晴らしい復讐を見せてくれるんだろうなぁ……ああ、考えただけで最高だ」
タシュアの言葉は、表面的には哲学的な探求心のように聞こえる。
しかし、その実態は純粋な悪意と狂気に満ちた欲望だった。
彼にとって人間は、感情という名の実験材料に過ぎなかった。
「狂ってる……本当に狂ってる……いや、お前は俺の息子に何をさせる気だ!」
農夫の声には、もはや理解の範疇を超えた恐怖が滲んでいた。
それでも、すぐに男の言葉に織り交ぜられた「特別サービス」には気づいたようだ。
その表情の変化もまた、タシュアの興味をそそる。
さらに追い詰めてみよう。
「そんなの決まってるだろ?わざと生かして僕への復讐をさせるんだ。君を殺し、彼に深い憎悪を植え付ける。そして彼が成長し、強くなり、いつか僕の前に立ちはだかる日を待つ。ああ、でもそうだった。あの子は君の本当の子じゃないよね?血の繋がりがない分、君への愛情はより純粋で、憎悪もより深いものになるだろう。いやあの子はまだ幼くて君達のことは記憶にないかな?なら他にも『動機を追加』してあげないとね!」
「何故それを!?それに復讐……だと?」
農夫は泡を食ったような驚愕の表情で、ただ言われたことを反芻して問うてくるだけだ。
もう驚くべきことがありすぎて、彼の理解力では処理しきれていない。
期待とは少し違うリアクションだったが、それでも人間が激しく狼狽する姿は何度見ても飽きない。
とはいえ、若干の落胆があったのは事実なので、次のアクションでは特別サービスはしないでおこう。
「ということで君との時間ももう終わりにしよう。既に君という存在は完全に理解できた。その魂の美しさも、その限界も、全て把握した。だからもう君はいらない」
タシュアは飽きた玩具を見るような視線を向けながら、互いの息がかかる距離まで近づいた。その顔に浮かぶ微笑みは、天使のようでありながら悪魔のような冷酷さを秘めていた。
「く……し、質問に答えろ!何故お前はあの子のことを知ってる!そしてあの子に何を……!?」
「いやぁ、でもまぁ色々興味深いものも見せてくれたから特別サービスだ。死出の旅に最高の贈り物をプレゼントしよう」
農夫が必死に言葉を紡ごうとするのを遮り、タシュアは瞳を通じて彼の脳に膨大な量の「宝物」を送り込んだ。
それは、これまで彼が蒐集してきた無数の人間の死にざま、苦痛、絶望、そして狂気の記憶だった。
人間の精神では到底処理しきれない情報の奔流が、農夫の意識を襲った。
「ぐっ、がっ!?」
途端に農夫は両手で頭を覆い、地面に倒れ伏した。
「がっ、うう、ぁぁぁ」
この世の地獄を凝縮したような苦痛を味わい、悲惨な苦鳴を上げながら口から血を吐いている。
彼の肉体は激しく痙攣し、精神は完全に崩壊していく。
それでも最後まで、彼の心の奥底では愛する家族への想いが燃え続けていた。
「よーしよし、ということで次にいってみよう!」
しかし、タシュアはもう既に興味の大半を失ってしまっていたので、倒れ伏す農夫の横を素通りして次の標的がいる方向へ進む。
「ぁ…………」
「安心して逝くと良いよ。君の妻にはすぐにあっちで会わせてあげるし、息子は僕が責任を持って最高の復讐者にしてあげるからね」
最後に、苦痛と絶望に歪んだ表情で事切れる農夫を横目で見て囁いた。死出の旅で憂いがないようにしたつもりだ。
「もっとも聞こえてないと思うけどね」
独り言をこぼして肩をすくめ、タシュアは軽やかに駆け出した。
「がぁ!?」
「いやぁぁ!」
「ぁぁぁ!?」
タシュアは村の中を駆け回りながら、次々と人間を殺していく。老人、若者、女性、子供——誰であろうと関係なく、等しく死を与えていく。
彼にとって人間の命は、単なる数字に過ぎなかった。それぞれの死にざまは完璧に記憶されるが、感情的な価値は皆無だった。
「さぁ、村人、友人、親類、父親、と殺し終えた。後は母親も殺って感動的な別れを演出すれば完了だ」
その最中でさらに村の人間を次々と殺していき、標的を機械的にカウントしていく。まるで在庫管理をするかのように、正確で冷徹だった。
そして——
「ああ……みぃつけた」
最後の獲物を見つけ、タシュアの口元に残忍な笑みが深く刻まれた。
焼け焦げた村の瓦礫の中を、一人の少年が三十路過ぎの女性に手を引かれて必死に走っていた。
二人は血が繋がってないが、確かに母子である。
母親は優しげに垂れた目が特徴的な顔立ちで、普段は天然さを併せ持つ穏やかな性格だろうと容易に想像できる。
村の誰からも愛される、心優しい女性に違いない。しかし今は、その柔らかさなど微塵もなく、ただただ必死な形相で血の滲むような覚悟を強いられている。
彼女は葛という繊維を織った袖が筒袖となっている上着に、裾の広がらない簡単な袴を履いた、典型的な農民の装いだ。
そんな質素な服装をさらにみすぼらしくしているのは、体のあちこちに刻まれた痛々しい刀傷である。
血が止まることなく噴き出し、まだ致命傷には届いていないものの、一刻も早く安静にして治療しなければ助からない重篤な状態だ。
絶え間なく襲ってくる激痛に意識が朦朧としそうになりながらも、彼女は歯を食いしばって耐え、走り続けている。愛する息子を守るためだけに。
対する少年は、この地域には珍しい黒髪黒眼で、顔の彫りはやや浅く、瞳も丸みを帯びているため幼さが際立っている。
表情豊かに笑えば、村の少女にも負けない愛らしさで周囲の者たちを和ませられるだろう。
普段なら人懐っこい笑顔で村の大人たちに可愛がられているに違いない。
しかし今、彼の幼い顔立ちは深く暗い絶望に完全に塗り潰されていた。
その黒い瞳に映るのは、煌々と燃え盛る地獄の業火。大地も建物も人も、全てを焼き尽くし炭へと変えていく容赦ない炎。
少年の父親、友達、村の人々、これまでの人生で大切だった全ての存在が、その炎に呑み込まれて消えていった。
そして今、最後に残った母親も——
「あぐっ!?あああああ!?」
突然、燃え盛る豪炎がまるで意志を持った生き物のように手を伸ばし、中年女性の左手を捉えた。
そこから彼女の肉体を容赦なく焼き焦がしていく。
人間の想像を絶する痛みに意識を焼かれ、彼女は堪らずバランスを崩して地面に転倒した。
そのまま全身が焼き尽くされる——そう思われたが、何故か火炎の侵食が左半身で止まった。まるで何者かが意図的にそうしているかのように。
母親が転倒したことで、手を引かれていた少年も一緒に地面へ転んでしまう。
少年は膝小僧を擦りむく程度の軽い怪我を負い、一瞬涙目になった。
だが次の瞬間、手を引いていた母親の凄惨な状況を目の当たりにし、涙腺が完全に決壊して悲痛な叫び声を上げる。
「お母さん!お母さん!お母さぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
しかしその必死の叫喚は、周りで激しく燃え盛る炎の轟音に紛れ、無情にも掻き消されていく。
それでも少年は叫び続けた。声が枯れても、喉が痛んでも、叫び続けた。
「お母さん!お母さん!目を開けてよ!いやだ……いやだぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「お母さん……お願い……目を開けてよ……」
うっうっ、と激しく泣きじゃくる少年。すると、もう回復不可能な致命傷を負い、命の残量が全て消え失せたと思われた母親が、弱々しく瞼を震わせ、うっすらと目を開けた。
彼女は残り少ない生命力を振り絞り、愛しき我が子に最期の言葉を告げる。
その瞳には、深い愛情と、叶わぬ願いが宿っていた。
「逃げて……そして生きて……」
言葉が終わると同時に彼女は静かに目を閉じ、二度と動くことはなかった。
その表情は、最愛の息子への愛に満ちた、穏やかなものだった。
「無理だよ……みんな、みんないなくなっちゃったよ?クラティアもカルガもファルガさんもケリテさんも、お父さんも……みんなみんな死んじゃったのに、どうやって生きればいいの!?目を覚ましてよぉぉぉぉ、お母さぁぁぁぁん!」
少年は悲痛な叫び声を上げ、もう永遠に動くことのない母の遺骸に縋り付いた。
だが、もう答えが返されることはない。少年の嗚咽だけが、焼け野原に虚しく響いた。
誰もいない。誰も彼も、少年を置いて逝ってしまった。彼はただ一人、この地獄のような世界に取り残されたのだ。
その一連の光景を、タシュアは少し離れた場所から観察していた。自分の手で作り出した完璧な悲劇の結末を、芸術作品を鑑賞するかのように眺めていた。
やがて彼は静かに近づく。すぐに少年がその気配に気づいて、涙に濡れた顔を上げた。
いつもなら、最期の最期まで子を想う母親の純粋な愛に称賛を送るところだが、今回はそれよりも遥かに重要なことがあった。何故なら、この少年の中に彼が長い間探し求めていた「面白いもの」——特別な力の片鱗を感じ取ったからだ。
「ああ、嗚呼!素晴らしい、素晴らしい!本当に素晴らしい!君に出会えた幸運、君の中の存在と巡り合えた幸運に、心の底から感謝が止まらないよ!」
タシュアは興奮に声を震わせ、心からの歓喜を露わにした。この瞬間こそが、彼が求めていた至高の瞬間だった。
「ぁ...ぁぁ...ぁぁぁぁぁぁ!!!」
しかし、この狂気じみた喜びの意味を理解することなど、目の前の少年には到底不可能である。
声にならない——いや、もはや人間が発するものですらない叫びを上げ、少年の内に秘められた創力が爆発的に高まった。
明らかに目の前の少年は暴走状態にあり、取り敢えずそれを制御しなければならない。
もっとも彼が力を完全に暴走させても、タシュアにとっては全く脅威ではないのだが。
一メートル程度の距離を保ったまま、余裕で対処できる程度のものだ。
故にこそ、自我を完全に失った少年は、目の前の仇敵に向かって破滅的な力を放とうとするが——
「ダメだよ、今は眠ってもらわないとね」
タシュアは優しく囁きながら、瞳を通じて今まで蒐集してきた「宝物」のほんの一部を、少年の精神に送り込んだ。
それは、彼の幼い脳が処理できる限界を超えた、膨大な知識と経験の断片だった。
「ぁ......」
途端に少年の創術は急速に収束し、体から漏れ出していた人ならざる気配が消えていく。彼の瞳から光が失われ、糸が切れた人形のように軽い音を立てて倒れた。
怒りに我を忘れ、人間性を捨てた彼と今ここで戦うのも、それはそれで一興ではある。だが、それでは今この瞬間だけの「一興」で終わってしまう。
何よりも、この世界のどこかにいるであろう三流の追い剥ぎのような連中に、これほど貴重で至高の「作品」をくれてやるのは我慢ならない。
「だから、良い復讐者となって僕を楽しませてくれよ」
倒れた少年を見下ろしてタシュア・イーライグは紫色に光る不気味な双眸を楽しげに細め、心の底から愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
彼にとって、この少年は単なる復讐の対象ではなく、自分を永続的に楽しませてくれる貴重な「作品」だった。
サキルがどのような絶望を味わい、どのような怒りを育み、そしてどのような復讐を企てるのか。
その全ての過程が、タシュアにとって最高の娯楽となるだろう。
彼は、サキルが成長し、強くなり、いつか自分の前に復讐者として立ちはだかる日を、心から楽しみにしていた。
そしてその時、どちらが勝利しようとも、それは彼にとって最高の瞬間となるに違いない。
「さて、殲滅するかね」
その姿はまさしく《紫蝕の悪魔》——タシュア・イーライグの二つ名に相応しい、この世の悪夢そのものだった。
月明かりの下、血に染まった村で、一人の少年の運命が復讐という名の深い闇に向かって決定的に舵を切った。この夜は、サキルという少年にとって全ての終わりであり、同時に復讐者としての全ての始まりでもあった。
そして遠い未来、この種がどのような果実を実らせるのか、それを知る者は今この場にはタシュア・イーライグただ一人だけだった。
「これだけ虐殺しても今更あなたに罪悪感などないでしょうに、このようなところで何をなさってるんです?あと半刻もすればナバ将軍率いる軍が来ますよ?」
涼やかな声音で問いが投げられる。
若い男のものだ。
周りは無数の屍だらけで、凡そこの世の地獄と表現しても差し支えない場所だったがまるで意に関していないようである。
そんな存在は一人しか知らない。
もっとも、慣れ親しんだといっても良い気配故に、感じ取るだけで誰が近付いているのかわかったが。
「ああ、分かってるさ。少し昔を思い出しててね。あの時もこんな不気味なほど綺麗な満月が出てたからさ」
振り返ることもなく月を眺めながら、青紫色の光を放つ瞳を細めタシュアはそう呟く。
「それは珍しい、全ての記憶を容易に出し引きできるあなたが『思い出す』など。そして剰さえ思い出した記憶に思いを馳せるなど本当に珍しいですね。百年来の付き合いの中でも数えるほどしか記憶にありませんが何を思い出したんですか?『あの時』とは?」
すると背後の若い男が肩を竦め、意外感を示しているのが伝わってきた。
同時に興味を示していることも。
「ははっ、まぁ確かにね。言われてみればそうだ、『思い出す』なんて僕の柄じゃない。けどまぁ僕にとっての『思い出す』は記憶じゃないさ。その時の感情や感覚を思い出す、といった方が正しい」
彼の使った『思い出す』という表現に陳腐な響きを覚え、タシュア・イーライグは忍び笑いを溢す。
常に全ての情報が脳内を行き交っているのだから『思い出す』は適切ではない。
何故なら引き出したい情報は一秒もかからず引き出すことができるのだから。
ただそれでも膨大な情報の中で一つの情報ないし記憶に幾刻かスポットライトをあてていれば、直接的な意味は違くとも本質的な「引き出した記憶に思いを馳せる」という意味は合致するのかもしれない。
些か哲学的ではあるが、故にこそ世界に楽しみを求めるタシュアにとっては面白い発見でもあった。
「うん、こんな面白い気付きをくれたんだ。今夜のこの天候も相まって興がのってきたし、君に何を思い出したのか教えてあげようじゃないか。僕が思い出していたのは今の僕が生まれた時のことだよ」
故に普段ならしないが今日くらいは話してみよう。
相手は長年連れ添った存在。
盟友でもあり、手駒でもあり、下僕でもある。
そう思い、振り返って言葉を継いだ。
そこには興味深げに眼を細め、納得に顎を引く男--青年と見紛う童顔の男が一人いた。
名はフォーユ。
外見年齢は十八といったところで、実年齢は二十三である。
目鼻顔立ちは整っており、女の一人や二人ならば目を見るだけで拐かしてしまいそうほどの美形だ。
実際女を利用する策を立てて、面相が割れて指名手配されるまでは成功させていたものである。
とはいっても彼自身は女に興味は薄く、利用する為の駒としか考えてないのだ。
まぁタシュアに比べればまだマシな女の使い方ではあるが。
またフォーユが女を利用できるほどの色香は装いと雰囲気によるものである。
祭りでもないのに場違いにも藍色の浴衣を着込んでいるが、彼には良く似合っていた。
いやどのような色の浴衣を着ても似合うのだから、場違いともいえないのかもしれない。
静かな湖畔にある切り株に座って本を読んでいればとても絵になるだろう落ち着いた雰囲気を纏っているのだから当然だろう。
とにかく、「静謐を称えた」という表現が驚くほど合致するような男である。
そしてその慇懃な口調も相まって少し接しただけでは大人しく真面目そうにも見えるのだから女を誑かせるのも納得というものだろう。
「それは是非お聞かせ願いたい。私も常々気にかかっておりましたので。とはいえこの場では都合が悪いでしょう。別の場所に『跳んで』からお聞きしたい」
「うん、それがいい。そうしようじゃないか」
フォーユの提案に鷹揚に頷き、『跳ぶ』準備を始める。
行き先を協議する必要はない。
何故ならタシュアにはフォーユの提案の裏まで全て視えているのだから。
それが彼もわかっているから尋ねてこないのである。
やがてタシュアの周りの空間、フォーユの周りの空間も同時に歪み始める中で、
「ふふふ、サキル君、期待してるからね」
タシュアは取り残された少年に向けて楽しげに嗤った。
少年--サキルに為した所業、これから為す所業を考えればこれ以上ないほどに残虐なものといえる。
とはいえそれを繰り返してきたタシュアには今更としか感じない。
どれだけ悪逆非道の限りを尽くしても、この世には裁く神など存在しないと、この『眼』が証明しているのだから。
ただそれでも裁きを受けるとしたら--
「君に裁かれるのならそれも面白いかもだ。ああ、早く強くなって僕を殺しにきてくれよ」
タシュアが最後に狂喜に口許を歪める。
「タシュアさんのご期待に沿えるよう精進なさってくださいね、サキル君」
そしてその狂喜を身近にしながらもフォーユは微笑む。
慈愛に満ちた笑み、主の供物として純粋に期待を込めた眼差しだ。
少年サキルのことと周りの悲惨な屍達を全く気にかけていないというのが彼もまた狂っているという根拠足りうる。
そして空間の侵食は異常者二人を呑み込んで消えた。
残されたのは物言わぬ数多の悲惨な骸と、その中で眠る一人の少年のみだった。




