絶対に負けられない戦争① 開戦
「さて、今日の敵は我らの二倍以上の兵を擁しており、やや手強いとの情報が入っている。勝てぬ相手ではないが、苦戦は避けられぬだろう。ただ、私の描いた作戦通りに動ければ、犠牲は最小限に抑えられるはずだ。だが、すべてが思惑通りに進むとは限らない。もし予期せぬ事態が起これば、私の指示を無視してでも現場の判断で動いて構わない。……皆を信じている」
声は決して大きくはない。だが軍師フェインの言葉は不思議と、整列するおよそ千六百の兵全てに一言違わず伝わった。その口調は檄というよりも静かな鼓舞であり、戦意を昂揚させる役目を果たしていた。
「では最後に、我らが将——リガイル将軍に火をつけてもらおう」
そう言ってフェインは一歩後ろに下がり、隣の大男に目配せする。リガイルは無言のまま前に進み出た。その巨躯は軽装の黒鎧に包まれている。重装を避けたのは、創術を用いる敵の標的とならぬようにするためだ。だがその姿には、鎧の重さを補って余りある威圧感が漂っていた。
彼は、ただそこに立つだけで兵の士気を高める。フェインが言葉で心を掴むなら、リガイルは存在そのものが信頼と鼓舞を呼ぶ。
「戦いに必要なことは、すでに軍師殿が述べた」
低く、野太い声が響く。続く言葉に、兵たちの視線が一層研ぎ澄まされてゆく。
「ゆえに、俺が今伝えるのは——我らが勝利の未来を得るため、最も大切な一言だ」
静けさのなか、言葉が放たれる。
「信じ合い、助け合い……そして勝って、皆でナバ様に会うぞ!」
「オオオオオオオオ!」と地響きのような雄叫びが上がり、全軍の士気が頂点に達する。サキルもまた、渾身の声を張り上げた。
こうして、彼らが単独で戦う最後の戦が幕を開ける——。
***
「行くぞぉぉぉ!」
リガイル将軍の咆哮が戦端を切り裂き、戦の火蓋が切って落とされた。呼応するように敵軍が二手に分かれ、左右から突撃を仕掛けてくる。
敵軍は三千五百。対するこちらは、周辺部隊を含めて千六百。数で劣る以上、敵は兵力を分散させ、各個撃破を狙ってくる。だがそれは、フェインの読み通りであった。
こちらもすぐに隊を整え、遠距離術式を用いる兵たちが事前に調整された術を一斉に放つ。冷気を帯びた刃が、分かれかけていた敵の隊列へと鋭く走った。
「ッ!?」
分裂しかけた隊列は対処もままならず、凍てつく斬撃が敵兵を容赦なく薙ぎ払う。それを皮切りに、鉄砲水、水弾、氷塊、礫、そして矢が次々と放たれ、悲鳴と混乱のなかで敵の数が一気に減っていく。
ただし、創力は無限ではない。この一斉攻撃も長くは続かぬ。だからこそ、この一瞬の混乱を利用し、遠距離術式を持たぬ尖兵たちが敵の隊列を突き崩しにかかる。戦いの本番は、ここからだ。
***
「……よし、これで五百は削れたな」
後方の本陣で戦況を見下ろすフェインが、息をつきながら呟いた。彼女の焦げ茶の粗末な服はいつもと変わらぬが、その眼差しは鋭く、戯けた様子は影も形もない。戦場に臨む彼女の横顔は凛としており、多くの兵の目を奪った。
「さて……ここからが本番だ」
敵は三千五百、こちらは千六百。初撃で五百を削ったとはいえ、代償にこちらも創力を消耗している。創術による反撃をどう防ぐかが、今後の要となる。
敵は、こちらの過去の戦術を分析している。ゆえに、この十戦では先制攻撃をあえて控え、「封じられている」と思わせた。その布石が、今、最大の効果を発揮している。
とはいえ、策は策に過ぎず、勝利を掴むのは現場で命を懸けて戦う兵たちだ。
「頼むよ、皆……」
鋭い眼差しの奥に宿る祈りを込め、フェインはそっと呟いた。
刃と刃がぶつかり合い、血を吐くような咆哮が響き、命と命が交錯する。鮮烈で凄絶、そして限りなく残酷な世界がそこに生まれる。
命を奪い、断末魔を響かせることで、自分もその世界の一部であると否応なく知らされる。そのたびに、言いようのない嫌悪感が込み上げた。慣れはしたが、決して慣れきることはないし、そうあってはならないとサキルは思う。だが、躊躇だけはしてはならなかった。迷えば、気負えば、それだけ仲間の命が失われる。そして何より、それは敵への冒涜でもあると。
サキルは創力による身体強化を施し、敵の攻撃をすり抜けながら、右手に握った長剣で次々と斬撃を叩き込んでゆく。挟み撃ちには先んじて回避し、逆に敵を切り裂く。一方向から来る敵には、その一点に集中して叩き込む。
「死ねぇぇぇ!」
「させるか!」
仲間が窮地に陥れば、背を預ける相棒に任せ、その救援に駆けつける。
「すまない、ホーキフ!」
「大丈夫。それより次だ!」
「ああ、行くぞ!」
サキルとホーキフは背を合わせ、最小限のやり取りで動きを決め、それぞれ新たな敵へ向かっていく。
「……待て!」
サキルが空気の変化に気づいたのはその時だった。創術の術式が練られる際に生じる独特の余波——。
「ごめん、待てない! 手短に!」
応じたホーキフの声を背に、サキルは矢の雨をくぐり抜けつつ、敵を押し返しながら叫ぶ。
「二時の方向、四十メートル後方!」
騒然とした戦場にあって、サキルの芯のある声だけは確かにホーキフの耳に届いた。
「了……解!」
ホーキフの剣が水気を帯び、前方の敵を一掃する。そしてそのまま、水の斬撃が指定の方向へ放たれ、すべてを両断してゆく。
「標的、撃破確認。さすがだ。また感知したら伝える」
「頼む」
簡潔に戦果を確認し合い、次の波へと備える。ホーキフの異能は剣に水気を纏わせて飛ばすことができ、サキルの感知能力と組み合わせて磨き上げた戦術であった。
だが——。
「感知してる奴が前に出てるぞ! 囲んで殺せぇぇ!」
敵軍がサキルの能力に気づき、集中攻撃に切り替える。感知役を潰せば戦術は瓦解する。その理を知る者たちが、狙い澄まして殺到してきた。戦闘力で勝るサキルでも、多勢に囲まれれば危険は避けられない。
戦況が傾きかけたその時——。
「進めぇぇぇぇ!」
「なっ……!」
三百の味方分隊が突如として包囲を突破し、前線を破砕する。その先頭を駆ける巨漢が一振りするたびに、冷気を帯びた斬撃が敵兵を氷漬けにしてゆく。その氷像を後続が砕き、残る者たちも叩き斬っていく——圧倒的な蹂躙。
「さすが総大将……俺たちが相手にしてきた数とは桁が違う」
サキルは一度退いていた後方からその光景を目にし、呟いた。敵の攻撃を察知し、全力で後退していたのだ。
「今回は気づかれるのが早かったな。敵も侮れない……早く戻らなきゃ」
隊列を乱さぬよう注意しながら、前線への復帰を急ぐ。その途中——。
「ホーキフ、無事だったか!」
「うん、サキルこそ。……急ごう!」
幸いにもホーキフと合流できたことで、戦場への復帰はさらに加速する。二人並んで駆け出したそのときだった。
「!?」
「どうした、サキル?」
「……胸騒ぎがする。先を急ごう!」
「了解。サキルの勘は当たるからね」
嫌な予感が背を押す。何か、決定的に不味いことが起こる——そんな予感。
走る。走って前線に至り、ようやく異変に気づく。
「……サキル、ホーキフか。敵軍を崩しきれなかった。混戦になったら即応できるよう待機してろ」
そう言ったのはリガイル将軍。圧倒的な武を以て突き進んでいた彼の隊が、今は足を止めていた。その前に立つ女——。
「お待ちくださいな。総大将直々の突撃も愚行なら、その私を前に余所見するのは愚の骨頂ですわ。いい加減、堪忍袋の緒が切れそうですの」
女は細身ながら鋼のようなしなやかな肉体を纏い、エメラルドグリーンの鎧がその強さを引き立てる。自信と強大な創力が、その存在を圧倒的なものにしていた。
「……一騎打ちはどうだ? 俺を倒せばこの戦はお前の勝ちだぜ。——お前ら、こいつには手を出すな。危険すぎる。他を頼む」
リガイルはその気配から数など意味をなさぬ相手と見抜いた。後半の言葉は、サキルとホーキフへの指示である。
「聞こえてますわよ。まぁ、私を甘く見なかったのは評価して差し上げます。でも、混戦の方が楽しそうですし」
「……悲しいな。ふられちまったか。でもいい。よそ見できないようにしてやる」
リガイルが威圧する。女もまた、その圧力を創力で跳ね返す。
「むさいおっさんでは役不足ですわ。精一杯足掻いてご覧なさいな」
「是非もない。——全軍、突撃! ただし、女との戦闘は極力避けろ!」
そして戦場が再び動き出す。その直後——。
右翼から、轟音が響き渡った。




