災厄の予兆
焦げ付くような熱気が肌を焼く。
一人の少年が、妙齢の女性に手を引かれ走っていた。彼女の葛織りの上着は所々に刀傷で裂け、血が滲んでいる。農村の女にふさわしい質素な装いだが、その傷跡が彼女の歩んできた過酷な道のりを物語っていた。普段は穏やかだったであろう垂れた目元も、今は必死な形相に歪められている。
対する少年は、この地では珍しい黒髪黒眼の持ち主。あどけない顔立ちには、年齢にそぐわない深い絶望の色が刻まれていた。黒い瞳に映るのは、燃え盛る業火。大地も家も人も焼き尽くす焔に、父も友も、村の人々も、大切な者たちはすべて呑まれていった。
そして今、母までも——。
「ぐあっ!? ああああああっ!!」
炎がまるで意志を持ったかのように手を伸ばし、女性の左手を捉えた。肉の焼ける臭いが鼻を突き、激痛に意識を飛ばされ、彼女は転倒する。全てが燃え尽きる——その刹那、火の勢いが不自然に左半身で止まった。
引かれていた少年も地面に転がった。膝の痛みなど感じない。ただ、目の前で母が焼かれていく光景に、少年の涙腺は決壊した。
「お母さん! お母さん! お母さあああああん!!」
その声は轟々と燃え盛る炎の音にかき消される。けれど少年は泣き叫び続けた。
「お願いだから目を開けて! いやだ……いやだああああああ!!」
嗚咽を漏らす少年。すると、死に瀕したはずの女性が、わずかに瞼を震わせ、うっすらと目を開けた。
残されたわずかな力を振り絞り、彼女は最期の言葉を紡ぐ。
「逃げて……そして、生きて……」
その言葉と共に、彼女の目は閉じられ、動かなくなった。
「無理だよ……みんな死んじゃったんだよ? クラティアさんも、カルガさんも、ファルガも、ケリテも、お父さんも……! どうやって生きろっていうの!? 目を覚ましてよぉ……お母さん!!」
少年は泣き叫びながら、動かぬ母の亡骸にすがりついた。しかし、もう応えは返ってこない。嗚咽だけが、誰もいない場所に虚しく響いた。
——コツ、コツ。
足音が響く。少年は顔を上げる。
そこにいたのは——。
「素晴らしい……実に素晴らしい! 母が子を想い、子が母を想って泣き叫ぶ……これぞこの世において、最も尊い愛の形だ!」
「悲嘆こそが、最も純粋で美しい感情だ。君の涙は実に……味わい深い」
男は満足げに微笑み、まるで少年の絶望を美味なる料理のように味わっているかのようだった。
不気味な紫の双眸を輝かせ、惨劇を前にしてなお——いや、惨劇を前にしたからこそ興奮しているかのような、悪魔のような男がそこにいた。
***
「!!」
その瞬間、サキルは跳ね起きた。
全身が汗に濡れ、息が荒い。右目の奥で鈍い疼きが走っていた。
――……また、この夢か。
夢の内容は明白だった。過去に幾度も見た、忌まわしき記憶。これまでその悪夢の後には必ず災いが起きていた。焦燥に駆られ、サキルは天幕を飛び出した。
――母さん……俺は、あなたの言葉通りに生きてる。でも、それだけじゃ足りない。
右眼の疼きが、まるで何かを訴えかけるように強くなった。今度こそ、運命を変えてみせる。
夜の帳が降りている。右目の違和感が消えない中、サキルは身体強化を使わずに天幕の間を静かに駆け抜ける。
——どうか、無事でいてくれ……!
部隊は千人規模。目指す天幕はすぐに見えた。
天幕前の護衛の一人が立ちはだかる。
「……サキル? そんなに汗だくで息切れして……交代時間まではまだ先だよ? さっきの騒音って、もしかしてお前?」
緑の髪と瞳の青年、ホーキフ。
普段は穏やかだが、今は真剣な面持ちだった。
サキルの「悪夢」が何を意味するか、彼は誰よりも理解していた。
「確かに騒音だったかもしれない。だが、それも『最悪の事態が想定できた』からだ」
その一言で、ホーキフの表情が引き締まる。
「僕の見る限り、不審者はいなかったよ。でも、サキルがこんな顔してる時は、大抵ロクなことが起きないんだよなぁ……」
「ホーキフを疑うわけではないが、念のためフェインとリセの無事を確認したい」
「……うん。確認しよう」
他の護衛二人の懸念をサキルが説明して解いた後、天幕の入り口に手を伸ばした。その時——。
「やぁサキル。随分と大胆な夜這いじゃないか」
布の隙間からフェインが顔を覗かせた。整った寝間着姿は美しいが、ニヤリとした笑みがすべてを台無しにしている。
「そ、そうです! サキルがそんな、夜這いだなんて……変態みたいな真似をするわけないじゃないですか!」
天幕の奥からリセの擁護の声。一人なら徹底的にからかわれていたであろうサキルには救いだった。
「まったく、リセは冗談が通じないねー」
「冗談を言ってる場合じゃないでしょ、フェインさん」
二人が無事なことに安堵しつつ、サキルは提案する。
「夜襲の可能性は低そうだ。それでも、明日の件について話しておきたい。ホーキフとリガイル様を呼んで、外で話をしよう」
* * *
「……からかうのはやめてくれ、フェイン。なぜ俺がこんなに焦ってここへ来たか、察しがつくはずだ」
「だから言ったじゃないですか! ふざけてる場合じゃありませんって。この後、本当に夜襲があるかもしれないんですから!」
呆れ気味のサキルに、リセも同調する。
「いやぁ、ごめんごめん。サキルがあんまりにも必死そうだったから、ついねー」
フェインは後頭部をかきながら笑うが、謝っているかは曖昧だった。
「……ま、いつもの冗談はこのくらいにして、本題に入ろうか」
だが——。
「……そうか。あの夢を、見たんだな」
ふと、フェインが深刻な表情で呟いた。いつもの軽薄さが一転し、静かにサキルを見つめる。
「ああ。今回は襲撃じゃなかった。だからこそ……明日の戦で、何かが起きる可能性が高い」
場が静まり返る。
先ほどの「最悪の事態が想定できた」は、サキルの予知夢を示す暗喩だった。その夢を見た翌日、必ず部隊に災厄が降りかかってきた。夜襲、部隊中枢の死、そして部隊壊滅の危機——その三つのいずれかが。
「よぉ、サキル! なんだなんだ、女子の天幕に夜這いか? それなら俺も呼んでくれよ!」
「リガイル将軍、声が大きいです。それと、その冗談はフェインさんがすでに通過済み。それにあなたには伴侶がいるでしょう」
「……あー、それは……今のは無しだ、うん」
屈強な体格のリガイル・ドーラ将軍が加わり、全員が揃う。
「さて、全員が揃ったな。話をしよう」
フェインが静かに口を開き、他の四人が頷いて応じる。
つい先ほどまでの軽口は影を潜め、そこには真剣な空気が漂っていた。切り替えの早さは頼もしいが、落差が大きいため少なからず戸惑う部分もある。
だが今回は、そんな余裕すらない。
「……とはいえ、これからどうすべきかを今ここで論じても意味はない。だからこそ、皆が思っているであろう一つのことを、あえて口にする」
その言葉には、強い意志が宿っていた。
サキルもホーキフもリガイルも、そしてリセも、その続きを察していた。
だが、それでもなおフェインの口から断言されることで、その意味が違ってくる。
「明日の戦を越えることができれば、我々はついにナバ様の軍に加わり、ナバ様と共に戦える。どれほど過酷な運命が待ち受けていようとも、それを乗り越えなくてはならない」
「ナバ様と一緒に戦える……」
ホーキフが呟いた。
サキルは思い出す。あの絶望の日々から自分を救い上げてくれた、温かい手を。
『君は、まだ生きたいか?』
『なら、俺と来い。君のような子どもを、二度と作らない世界を一緒に目指そう』
その手は、母の手と同じように温かかった。
ナバ・セルフェウス。ゼルグの大将軍にして、サキルの命の恩人であり、養父であり、父と呼ぶべき存在。
彼が拾い集めた孤児と、自らの精鋭兵で組織された部隊が、サキルたちの隊である。
この場にいるリセ、ホーキフ、フェインもまた、ナバに救われた戦争孤児たちだ。リガイルもまた、元はナバの軍に属していた一人だ。
とはいえ、現在は独立遊軍という立場にある。
それはナバが孤児を蔑んでいるからではない。むしろ、どの子どもにも等しく慈愛を注いできた。
問題は国の上層部だった。孤児を多数抱える部隊に対し、彼らは正式な軍としての承認を渋った。「臭いものに蓋をする」ように、戦争の副産物である彼らを認めたがらなかったのだ。
——それが、サキルたちの苦悩の根源だった。
『……すまない。俺たちが始めた戦争のせいで、君たちの両親を奪ってしまった。だからこそ、その責任をとるのは俺の義務だ』
ナバは、そう言って目を背けることなく、孤児たちを引き取り育てた。
その数は今も増え続け、十歳を過ぎれば戦場に立たねばならない子もいた。資金がなければ育てることすらままならない。
ゆえにナバは日々悔いていた。
『……本来なら、君たちを戦場になど立たせるべきではない。だが、本当にすまない……』
彼は自軍で守りを固め、できる限り危険を避ける戦場を選んでくれた。
それでも、戦地に赴く以上、命の危険は避けられない。
だが、サキルたちにとっては——それが当然だった。
戦争で全てを失った命を、ナバが拾ってくれたのだ。
この命はナバのために捧げるべきものだ。
戦うことで恩を返し、同じように苦しむ子どもたちを救えるなら、それ以上の意義はない。
——ナバ様の隣で戦いたい。
それが彼ら全員の願いだった。
そして、明日の戦に勝利すれば、その夢が現実になる。
国から軍資金が増額され、より多くの孤児を救う環境が整うこと。戦場に立つ年齢も引き上げられ、被害を減らせるかもしれない。
そして何より、ナバと共に戦うことができるという、大きな意味。
ナバは守られる存在ではない。むしろ守る者であり、幾度も彼らを救ってきた。
それでも、隣に立ちたいのだ。
共に歩き、共に戦い、共に未来を拓きたい。
その想いがある限り——。
「これ以上の言葉は要らない。何が起ころうとも、俺の策と皆の力で、明日は必ず勝つ」
フェインの宣言に——
「当然だな」
リガイルがまず頷き、
「私の弓も明日のために鍛えてきた。一人でも多くの敵を討ち、勝利に貢献するわ」
とリセが藍の瞳に意志を宿す。
「僕も、皆のために……できる限りのことをするよ」
ホーキフは拳を握りしめ、サキルへ視線を送る。
皆の目が、彼に集まっていた。
その視線を肌で感じながら、サキルは曇天の夜空を見上げ、静かに口を開いた。
「今までは夢が示す未来を受け入れ、被害を減らすことに専念してきた……けれど今回は違う。絶対に、この運命を変えてみせる」
その瞬間、右目の奥で再び疼きが走った。まるで何かが目覚めようとしているかのように。
「皆の夢のために。父上のために。そして、この先の夢のために——俺は明日、絶対に勝つ」
その言葉に、誰もが黙って深く頷いた。
だが誰も気づかなかった。サキルの右目が、一瞬だけ、夜闇の中で微かに光を宿したことを——。




