シゼリ荒野丘奪取戦⑦ 大将戦
荒野に、かすかな風の音すら呑み込むほどの静寂が満ちていた。
つい先ほどまで、熱気と殺気、紫晶と黒雷が幾重にも交錯していた戦場——だが今、その只中にあってなお、時間が凍てついたかのような異様な静けさが支配していた。
そこに立つのは、二人の老将。
オブリグス・ストレイド、《五芒刀》。
ラルド・オルフェガス、《雷神》。
この名を知る者ならば、誰一人として動けはしなかった。いや、知っているがゆえに動けなかった。彼らの戦場に足を踏み入れることは、もはや「名誉ある死」などという言葉では片づけられぬ、自殺行為そのものである。
「誇り」や「騎士道精神」などは、ただの建前でしかない。
この二人の戦いに巻き込まれれば、人は音も形も残さず消え去る。
それは兵士たちにとって、もはや理屈ではなく“生存本能”に刻まれた常識だった。
その共通認識ゆえに——戦場は、沈黙した。
オブリグスも、ラルドも、それを知っている。
互いの力がどれほど異常であり、どれほど戦場を巻き込むかを、誰よりも深く理解しているからこそ、この対峙に一分の無駄もなかった。
「……ラルド。貴様と剣を交える時が来るとはな」
オブリグスが唇を歪めた。
その声音には、老いた者特有の諦観も嘲笑もなく、ただ純粋な歓喜の色が滲んでいた。
——背後に浮かぶ、五本の創具が答えるように旋回する。
灼熱の奔流を纏う【炎刀】、凍気を吐き出す【氷刀】、波紋の如く揺れる【流刀】、地響きを起こす【穣刀】、風に馴染む香気の【樹嶺刀】——そして、黒金の鉾【破垂】が重厚に地を踏む。
六本の創具。それはただの武器の羅列ではない。
属性そのものを意志とし、空間を支配する異常存在——それが、《五芒刀》の名の真の所以であった。
一方で、ラルドの足元にも異変が生じていた。
雷文が広がり、乾いた砂地に痺れるような振動を与えていく。大気が帯電し、空気中の粒子が焦げる。遠く離れた兵士たちですら、肌が焼けるような錯覚に襲われた。
創具【雷鳴】は既に臨戦状態に入り、刃先に纏う雷光がひときわ鋭く唸る。
そして【響雷】の鎧は、彼の心音と連動するかのように雷を増幅し続け、周囲の気圧そのものを歪ませていた。
「貴様となら、国が滅ぶ前に命を賭ける価値もある」
ラルドの呟きは、平坦でありながら、まるで断雷のように重かった。
「なるほど、さすが雷神。口も達者なようだ」
オブリグスの目が笑う。
その直後——
空気が破裂音と共に弾けた。
まず迸ったのは【炎刀】。
空間を裂き、熱波を纏って一閃する。目に見える軌道ではなく、まるで熱そのものが刀として具現化したかのような異質な斬撃だった。
迎撃するは、ラルドの【雷鳴】。
一太刀で放たれた雷撃は、地と天を繋ぎながら斬り裂く閃光となって【炎刀】を弾く。
両者が交差した瞬間——
爆発音では表現しきれぬ衝突が空間を襲った。
それはまさに、「音が遅れて届く」ような衝撃。
光が先に走り、空気が潰れ、そして全戦場が揺れる。
だがそれはまだ“序章”にすぎなかった。
【流刀】が、あらゆる地形をなぞるように地を滑り、ラルドの死角を突く。
同時に【穣刀】が地中から噴き上がり、土塊を砕きながら足場そのものを壊しにかかる。
「……そこかッ!」
ラルドは雷気を瞬時に凝縮し、地を走る流動をその場で蒸発させる。
だが、攻撃は留まらない。
【氷刀】が天より降る。氷雨のように降り注ぎ、空間温度を一気に下げることで雷の通電性すら乱そうとする。
ラルドは【響雷】の放電でこれを砕き、しかし同時に【樹嶺刀】が風のように旋回、背後を穿とうとした。
それを予見していたかのように、彼は【雷鳴】を振りかぶり、360度全周放電を実行。
瞬間、空間に轟雷が奔った。
——そして、その中央。
【破垂】が、真正面から迫る。
その一撃はもはや創具というより、質量そのものを叩きつける“重圧の塊”であった。
「いいぞ……オブリグス!」
ラルドの眼が猛りを見せる。
そしてついに——
雷神はあの技へと到達した。
全身の雷気を収束。創具【雷鳴】と【響雷】の共鳴を最大まで高め、天空にすら届かんとする稲妻を呼び下ろす。
「見せてやろう、我が一閃。——千雷穿撃!」
天空が白く染まり、地が一瞬で消えた。
雷の奔流が、まるで神意の裁きの如くオブリグスに襲いかかる。
それに対し、オブリグスは五刀を頭上に掲げ、五属性の創力結界を旋転させながら展開。
「——五界転破!」
五つの属性が螺旋を描き、雷を飲み込むように相殺し、破垂が正面から神撃を受け止めた。
激突。
風が止まり、重力が消え、そして——時間が沈黙する。
荒野の中央、二人の老将だけが、なおも立っていた。
その衣は焦げ、刃は欠け、創具すらきしむほどの負荷を受けながらも、瞳だけは一切の濁りなく、互いを見据えていた。
——地が鳴いた。
【破垂】と【雷鳴】が交差した刹那、天地を断つ閃光と衝撃が戦場を襲った。
轟然たる破裂音の直後、土煙が噴き上がり、雷光の余波が周囲の兵士の鎧を叩きつける。誰一人として叫びすら上げられず、ただその余波に蹴倒されるのみ。
「フン……まだ持ちこたえるか、老将」
口元を斜めに歪めるオブリグス。その背後に浮かぶ五刀が、それぞれの属性光を瞬かせながら速度を増し、彼の身体を包囲するように配列を組み替えていく。
「貴様こそ、創具の負荷にその身が持つか?」
ラルドの声が雷に紛れて響く。鎧【響雷】が燐光を帯びて脈動し、剣【雷鳴】が唸りを上げながら斜めに振り上げられた。
——次の瞬間、暴風のような乱打が始まった。
【炎刀】と【流刀】が同時に横薙ぎでラルドを狙い、【穣刀】が後方から跳ね上がるように地面を突き破り、泥と岩石を伴って襲いかかる。その隙間を縫うように、【樹嶺刀】が緩やかな回旋を描きつつ雷気を測り、【氷刀】が空中から凍てついた斬撃を直撃させにかかる。
——五刀が乱舞し、まるで戦場全体がオブリグスの意志の延長となったかのようだった。
だがラルドは動じなかった。
「この程度……雷神の名が泣くわッ!」
地を蹴る。
瞬間、彼の周囲に数十本の雷柱が炸裂した。それは防御であり、迎撃であり、また同時に反撃でもあった。
雷柱の一撃が【氷刀】を打ち落とし、雷網が【流刀】の波動を打ち破る。だが、【炎刀】は寸前で姿勢を変え、雷光の隙間を割って再びラルドの喉元を狙う。
——刹那、ラルドの体が消えた。
いや、雷と化したのだ。
実体を光速に近い速さで迸らせることで、彼は空間を跳躍する。雷神の異名の真価は、単なる高出力ではなく、その移動速度にあった。
「なっ……!」
オブリグスが反応した時には、既にラルドは背後にいた。
【雷鳴】の一撃が、五刀の結界を貫こうと閃く。
——しかし、甘くはない。
オブリグスの【破垂】が後ろ手に弾かれ、巨大な鈍音が戦場を震わせた。雷撃を受け止めると同時に、五刀が再び軌道を切り替え、一斉にラルドを取り囲む。
「貴様……本当に人間か?」
ラルドが低く呟く。
「貴様こそな……」
オブリグスの口元が歪む。
——次の瞬間、空が叫んだ。
ラルドが【雷鳴】を天に突き立てたのだ。その刹那、空中に巨大な雷紋が広がり、まるで天の怒りが凝縮されたような雷の奔流が地上へと降り注いだ。
「雷裂・天降!」
雷鳴が大地を裂き、戦場を断つ。
しかし、迎え撃つオブリグスの五刀が全ての属性を螺旋状に纏い、巨大な創力の渦を生む。
「五環・反転斬!」
雷と五属性が激突する。
稲妻の川が炎に飲まれ、氷が雷を逸らし、木と土が衝撃を押し返し、水が雷紋の隙間を縫って揺らぎを拡散させる——そのすべてが一瞬で交差し、交錯し、激突する。
天地が崩れたかと思えるような衝撃。
砂が焼かれて硝子になり、風が巻き、空が赤紫色に染まる。
そして——ふたりはまだ倒れない。
裂けた大地の対岸。互いに息を弾ませながら、それでもなお、創具を手放していなかった。
ラルドの目に雷光が灯る。
オブリグスの周囲に五刀が戻り、構えを取った。
その先にあるのは、まだ続く、規格外同士の闘争の終幕——いや、序章に過ぎない。
もっともその筋書きを良しとしない者が裏で歪に嗤い暗躍していたのを二人は知らなかった。
轟雷と斬撃が交錯する極限の戦場にあって、誰も気づいていなかった。否、気づけなかったというべきか。
戦場の混沌に紛れ、ひとつの影が静かに刈り取っていた。紫晶の陣から一人、黒雷の陣から一人。およそ十分に一人の割合で、名もなき兵がその命を絶たれていた。しかも、それは誰にも目撃されぬまま、痕跡すら残さぬ完璧な手口で。
その名は、ミルズ。
ライガーの死に際して、違和感を覚えた者がいた。オブリグスの腹心、参謀アルティラである。長きにわたり《五芒刀》の右腕を務めてきた男は、戦場を冷徹に読み取る観察眼を持っていた。
「死因は……戦闘によるものにしては、静かすぎる。断末魔もなければ、衝突の痕跡も薄い。これは……外部からの暗殺——」
早々に不審を掴んだアルティラは、数名の腹心と共に静かに情報網を張り、行動を開始していた。紫晶・黒雷、双方に潜む不穏の兆しを掘り起こすためである。
やがて、奇妙な事実が浮かび上がった。
戦死者の記録と突き合わせた結果、両陣営でおよそ一定間隔で兵が倒れている。しかも、位置も階級もバラバラであり、何の秩序もないように見える。だが、それこそが逆に不自然だった。まるで「意図的にランダムに選ばれている」かのような、機械的な死。
その均衡が逆に異常だった。
「十人に一人……いや、時間にしておよそ十分に一人……」
算出された数値が彼の中で冷たい確信を生んだ。
ーー間違いない。意図的な介入者がいる。目的は、おそらく……大戦の中断。
この期に及んで戦いを壊す意図。ならば——その妨害こそ敵の狙い。
アルティラは即座に伝令を走らせた。
「伝えろ。オブリグス様にはもっと激しく戦えと。やつらは戦の停滞を狙っている。ならば——我らがやるべきことは、ただ一つだ」
その指示は、最前線に届く。
斬り結ぶさなか、風を裂いて届いた伝令の声が、オブリグスの耳に届いた。
「後方に異変あり!両軍に不審な死者、すでに十数名。戦を止めるな、それが奴らの狙いと!」
刹那、ラルドが視線を揺らした。
「オブリグス、聞こえたか? 裏で動く者がいるようだ。これ以上、剣を交える意味があるのか?」
雷の波動を収束しかけたラルドに対し、オブリグスは即座に応じた。
「だからこそ続けるのだ。今、剣を収めることがまさに奴らの思惑だ」
その声には揺るぎがない。老将の覚悟が込められていた。
「だが、兵が斃れている。両軍共に、貴様の部下もだろう」
ラルドの問いは正当だった。だが、オブリグスは迷いなく返す。
「狙われているのは“戦”ではなく、“戦そのものを終わらせる機会”だ。ならば、我らが戦い続けることで奴らの目的を砕ける」
「貴様は、兵の命より……意志を優先するのか?」
「意志が無ければ、命はただ消費されるだけのものになる」
重く響いたその言葉に、ラルドが沈黙する。
だが一つ、譲れぬ疑念があった。
「だが、熾炎隊の軍師……あれは、我らが一人も手を下していないにもかかわらず、倒れた。一般兵だけが狙われているわけではないのでは?」
それに対し、オブリグスはわずかに視線を伏せたのち、言った。
「……それは“例外”か、あるいは“次の意図”だろう。だが、それに振り回されてはならぬ」
オブリグスは天を見上げる。
「今までの戦いも同じだった。歴史を思い出せ。幾度も大戦はあったが、いずれも決着がつくことはなかった。介入者がいた。あるいは時機を見ていた誰かがいた。今回もまた、そうだ」
それが真理だとでも言うように。
「ならば今回は、決着をつけねばならんのだ。我らが、やる」
長い沈黙。雷光が空を走る。
そして——
「……よかろう。ならば、この一太刀に誇りを込める」
ラルドが静かに【雷鳴】を構える。
オブリグスもまた【破垂】を高く掲げ、五刀が旋回を速める。
彼らの意志は、一つ。
敵に剣を向けるのではなく、歴史に抗う意志を示すために。
「やっぱり、もう同じ手を使い過ぎて効かなくなっちゃったかぁ」
そう嘯いたのは、薄闇に潜む一人の男、タシュア・イーライグ。その表情は仄暗く、まるで愉快な遊戯を見物するかのように口元を歪めていた。
周囲に誰もいないはずの空間に、彼の声だけが風のように揺らぎ、闇の中に静かに染み込んでいく。
「まぁいいさ。こっちもちゃんと準備してたしね。ねえ、メレーシェル?」
返答の代わりに、気だるげな吐息が返ってくる。
「……はぁ。どうしても、やらなきゃ……だめ?」
声の主は、岩窟の奥に凭れるように腰を下ろしていた女、メレーシェル。艶やかな髪を乱れたままに垂らし、翳りのある瞳で虚空を眺めながら、まるで寝起きのようにぼそぼそと呟く。
「私さぁ……眠ってるだけで世界が終わってくれたらいいのにって、ずっと思ってるんだよね。その世界まであと少し……なら、仕方ないか。ミリのために頑張ろう……」
彼女が手を軽く振ると、岩肌に刻まれた複雑な紋章が淡い光を放ち始めた。それは彼女自身の創力を媒介にした幻術の残響であり、数百にも及ぶ兵たちの意識を、今も深い霧の中に閉じ込めていた。
「準備は終わっているのですか、メレーシェル様」
静かに岩窟の入り口から現れたのは、青銀の衣を纏った青年、フォーユ。姿勢は正しく、礼節を重んじた声音で彼女に問いかける。
「あー……もう、やるってば。急かさないで」
メレーシェルは肩をすくめ、渋々立ち上がると、手元に浮かぶ幾つもの幻影の球体に軽く触れた。
「……あっちの戦場、空いてる場所どこだっけ。全部ぶち込んじゃっていいよね?」
「はい。手筈通り、敵味方問わず均等に配置いたします。強化幻術の安定も確認済みですので、転移は私が担当いたします」
「じゃあ、頼むわ……」
メレーシェルは目を伏せ、最後にもう一度、深いため息を吐いた。
フォーユが手をかざすと、岩窟の空間が揺らぎ始めた。次の瞬間、幻術に囚われた兵士たちの姿が、淡い光とともに空間に吸い込まれ、戦場の各地へと送り込まれていく。
それはまるで、虚空に呑まれる悪夢のようだった。
そして、タシュアはその様子を遠くから眺めながら、小さく笑った。
「これで、どっちが勝っても決着なんてつかないさ。戦は……崩すものなんだから」
肩をすくめると共に彼の姿もまた幻術兵と同様に空間に溶け込んでいった。
オブリグスとラルドの一騎討ちは、なおも荒野を震わせていた。
斬撃と雷撃が空を裂き、土を穿つ。
その場に立ち会うすべての者が、ただその凄絶さに言葉を失い、剣戟を止めることなく続ける二人に、畏怖と敬意を抱いていた。
だが——
その剣戟の中、ふとラルドが眉を顰めた。数瞬後、オブリグスも同じく、剣の軌道を半ば強引に逸らした。
ふたりのもとへ、伝令が駆け寄っていたのである。
「報告ッ! 両軍の後方にて、不可解な敵性戦力の出現を確認……識別信号、ゼルグ・イフィラ双方の正規兵と一致します!」
「……味方の姿をした敵、だと?」
ラルドが目を細める。
「これで終わらなかったか……次は何が起きている?」
オブリグスは刃を収めず、第三勢力が出現した方へと目を向けた。
「まさか……! あれは……あの顔、あの印……我が部隊の者だ……!」
イフィラ側の兵が絶句する。
「嘘だろ……死んだはずじゃ……死体も確認したのに……」
ゼルグ側の遊撃兵が膝をつく。
そう、彼らは死んだはずの兵士たち。もしくは戦に参加していなかったはずの徴兵直後の若者たち。その身には、強力な幻術が施されていた。
ただの敵であれば倒せばよい。
だが、味方であるならば、救わずにはいられない。
さらに最悪なのは——この幻術、ただ力で打ち破ることはできないということだった。
「数名攻撃したが幻術が解けない!依術師を呼べ!!おそらく依術でなければ解除は不可能だ!!」
両軍から一斉に叫びが飛ぶ。
戦場に展開された幻術兵は、あらゆる通常攻撃を無力化しつつ、味方として刻まれた記憶を軋ませ、兵たちの精神すら揺さぶっていた。
「早く解除して保護を……このままでは互いに、戦どころではない……!」
依術師たちが前線に呼ばれ、護衛の兵と共に駆け巡る。解除が完了した者たちは昏倒し、抱きかかえられて後方へと運ばれる。
アルティラはその状況を見て、歯を噛み締めた。
「……ここまでか。戦を続けるには、もはや兵も時間も足りない。……止めるしかないか」
彼が中断の伝令を発したその瞬間、まるでそれを見届けたかのように、タシュアは頭上を仰ぎ、肩をすくめた。
「やっぱり、こうでなくっちゃ。ほらね、最初からそうなるように仕組んでたんだからさ」
満足げに笑うその男の背には、誰にも見えぬ影が、さらに濃く差していた——。




