シゼリ荒野丘奪取戦 裏の奪い合い①
オオオオオオオオオオオオオ!
開戦を告げる雄叫びが、乾いた大地を震わせるようにしてシゼリ荒野に響き渡った。空気すら振動し、熱を孕んだ砂塵が音の衝撃に応じて舞い上がる。咆哮の源は遥か前線、イフィラ軍の陣営から放たれたものだった。その音は稲妻のように鋭く、雷鳴のように重く、まるで天そのものが戦の開始を宣言するかの如き威圧感を孕んでいた。
「……始まったようだな。俺たちも先を急ごうか」
その声に応じたのは、ネレネスの隊長スフィード。
彼の目は一瞬だけ遥か戦場の方角を鋭く捉えたが、すぐに無駄な感情を排し、冷静に顎をしゃくる。
「……まぁ、焦りすぎても駄目だがな。慎重に、でも少しだけ速度を上げる。そんな感じで行こう」
その指示に異を唱える者はいなかった。誰もが無言のまま、訓練された身のこなしで足を早める。全員が緊張を内に秘めたまま、乾いた地を踏みしめて進む。
しかし——
「いや、これは……」
異変に最初に気づいたのは、サキルだった。彼は立ち止まり、まるで周囲の空気そのものに問いかけるようにゆっくりと視線を巡らせた。
「サキル、どうした?敵か?」
即座にスフィードが反応した。咄嗟の緊張が全隊に伝播し、全員の視線がサキルに集まる。
「……敵かはわからない。ただ、危険な“何か”が近付いてきている。そう感じるんだ」
言葉は静かだったが、その声音には明確な警告が滲んでいた。
そしてその直感こそ、幾度となくネレネスを死地から救ってきた“異能”だった。
「私たちの中の誰も、何も感知していないようですが?」
感知術に長けた者が訝しむように囁く。それでもスフィードは、サキルの勘を疑わなかった。
「……だが、サキルが言うなら無視はできない。コウル、テイン、念入りに周囲を確認しろ」
その言葉が終わるより早く——
「危ない!」
サキルの声が鋭く割り込んだ。
ズシャッ!
空気が裂けたかと思う間もなく、サキルは駆け出し、スフィードの目前に飛び出した。瞬時に右腕を振り上げ、創術によって空間に展開した見えざる“壁”を構築する。
ガギィィィン!
敵の刃が壁にぶつかり、鋭い火花を散らした。目には見えぬが、そこには確かな殺意と斬撃の意思があった。サキルの壁がなければ、スフィードはその場で命を落としていたことだろう。
「なっ……!? どこだ、敵は!?」
スフィードが体勢を立て直しながら咆哮する。
「敵襲!敵襲だ!」
サキルの叫びが轟き、ネレネスの隊列が瞬時に臨戦態勢へと移行した——が。
「くっ、逃したか……」
次の瞬間には、敵は姿を消していた。いや、そもそも“姿”を見せていなかった。あまりに素早く、あまりに静かに、まるで最初から“存在していなかったかのように”霧散したのだ。
「ぐぅっ……!?」
「な、何が起きて——ッ!?」
そして、再び起こる。抗う間もなく、仲間の一人が崩れ落ちる。鮮血が砂地を濡らし、倒れた兵士の胸元には斜めに深々と刻まれた裂傷。その目はすでに見開かれたまま動かず、声もなく絶命していた。
「全周警戒、絶対に散るな!」
スフィードが叫ぶが、叫びより先にもう一人が斃れる。
敵の気配すら掴めないまま、まるで虚空から放たれた鎌が肉体を刈るかのように、精鋭がひとり、またひとりと命を散らしてゆく。
「全方位対襲陣形に移行!急げ!」
サキルの指示が飛ぶ。彼の考案した特殊陣形が展開され、外周と内周に配置された兵たちが互いの死角を埋め合いながら包囲防御を完成させる。しかし——
ズバッ!
その防陣の内側ですら、斬撃は発生した。
「そんな……陣の“中”だと……?」
誰もが目を疑う。だがそれが現実だった。
斬られた兵士は反応することすらできず、己の血で染まった手を虚しく見つめながら膝を折った。
「これは……まるで“存在しない敵”に斬られているような……」
誰かがそう呟いた時、スフィードは静かに息を飲んだ。
「サキル……何か心当たりは?」
サキルは静かに頷く。
「似た報告がある。アルグアの裏部隊が用いたとされる、感知を無効化する奇襲術。姿も気配も殺し、完全なる死神となって戦場を彷徨う存在……」
「だが、これはイフィラ軍だろう?なのに、なぜ……」
「同じ術者が“渡った”のか、あるいは——」
サキルの言葉は濁されたまま終わった。
誰もが無言で頷く。結論を出すにはまだ材料が足りない。
「いずれにしても今は生き延びるのが先だ。俺がやる。おそらく、俺だけが奴の気配を掴める」
その宣言に、全員が視線を向けた。
その目に宿るのは疑念ではなかった——信頼だった。
「……わかった。お前に賭ける」
スフィードは迷いなく頷いた。
そしてサキルは、剣を抜き、静かに口を開く。
「見えぬ敵でも構わない。直感が告げている。次に奴が現れたら、必ず捉える」
彼は己の鼓動に耳を澄ませながら、次なる“音なき襲撃”に備える。
その姿はもはや、ただの兵士ではなかった。風の気配を読む猟犬のように、死と生の境に足をかける異能者のように——彼はその場に立っていた。
ネレネスの命運と希望は、ただ一人の直感に託された。




