血塗られた世界で
夕闇に鋼の咆哮が響く。刃と刃が激突し、散った火花が一瞬だけ血に濡れた戦場を照らし出した。
対峙する男の呼吸は浅く早く、脂汗が土埃と混じって頬を汚している。重い長剣を振り上げる腕は疲労で震え、足元はふらつき始めていた。
この男にも、帰りを待つ家族がいるのだろう。
予想通り、その剣筋は次第に鈍り、隙が見え始める。サキルは男の斬撃を長剣で受け流しながら、決定的な瞬間が訪れるのを息を潜めて待ち続けた。
やがて、男が焦りのあまり大振りの一撃を繰り出す。
その好機を逃さず、サキルは身体を右に捻って回避し、がら空きになった胴へ袈裟斬りの一閃を放った。
「ガハッ」
男は血を吐き、仰向けに倒れ込む。だが深くは斬りきれなかったのか、男は致命傷を負いながらも必死に地を這い、後ずさる。
「ヒィィィ……た、頼む、助けてくれ……家で家族が待ってるんだ……数日前に子どもが……生まれたばかりで……!」
男は涙と脂汗に濡れた顔で命乞いをした。
脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。
焼け焦げた故郷、崩れ落ちる家屋、そして、もう二度と触れることのできない、大切な者の冷たい手……。
サキルは剣を振り上げるが、男の哀切に満ちた懇願に、一瞬だけ動きが止まる。
その時、右目の奥で小さく疼きが走った。視界の端で、風の流れが奇妙に揺らぐ。心の奥底で渦巻く感情が、右目に呼応するように熱を帯びていく。
――……またか。
この力は、俺の感情の疼きに反応するのか。それとも、この男の悲しみに、俺自身が共鳴しているのか。
だが、迷いはほんの刹那だった。
次の瞬間、彼は無言で剣を振り下ろした。いや、無慈悲ではなく、弔いの言葉を添えて。
「……あんたの無念は、受け取った。そして、あんたの家族のことも、俺が覚えてる」
言葉と共に刃が振り下ろされる。肉を断つ鈍い音が響き、男の瞳から光が消えた。きっと最期まで、赤子を抱く妻の笑顔を思い浮かべていたのだろう。
サキルの胸の奥で、鉛のような重さが沈んでいく。また一つ、家族を奪った。また一つ、誰かの幸せを断ち切った。
それでも、ここで止まるわけにはいかない。剣を収めることはできない。この血塗られた連鎖を断つためには、さらなる血を流すしかないのだから。
サキルは黒い瞳でその亡骸を真正面から見据え、呟く。
「……俺が、こんな血塗られた世界、全部ぶっ壊してやる」
そして、心の奥底で誓う。
――戦い、争い、殺し合い。戦乱に明け暮れるこの連鎖を、俺が必ず断ち切る。そうすれば、この男の子どもは、父親のように戦場で死ぬことはない。
彼は長剣を下げ、辺りを見渡した。およそ五十を超える死体が無残に転がっている。血の匂いが夕風に運ばれ、鉄錆のような味が口の中に広がった。その瞳に一瞬、哀切の色が宿るも、サキルは首を軽く振ってそれを追い出し、味方の部隊との合流を目指して歩き出した。
そのとき、風が吹いた。屍の山を縫うように小さな竜巻を描き、やがて霧散する。吹きすさぶ風の音が、まるで死者たちの無念を遠く運んでゆくように思えた——。
***
小規模な戦であったとはいえ、決して少なくない血が流れたこの戦争は、サキルの部隊の勝利に終わった。現在、分散していた部隊が次々と合流していた。
「おーい、サキル! 今日も生きて帰れたな、お互い!」
聞き慣れた声に振り返ると、赤墨色の髪をなびかせた青年が駆け寄ってくる。ホーキフの顔を見ると、胸の重苦しさが少しだけ和らいだ。張り詰めていた心が、彼の明るい声に触れてわずかに緩む。
「ああ、ホーキフ。お前もな」
「怪我はない? さっき、サキルの担当区域から激しい戦闘音が聞こえてたから心配してたんだ」
「心配性だな。でも……ありがとう」
サキルは小さく微笑む。戦場では珍しい、穏やかな表情だった。
「『生きて帰れた』かよ……相変わらず重いこと言うなぁ。まあ、お互い無事が一番だけどさ」
幾多の戦場を共に駆け抜けた二人の間には、言葉にしなくても分かり合える信頼があった。互いの背中を預け、死線を何度も潜り抜けてきたその重みが、この一言に凝縮されている。
これまで幾度も戦を潜り抜け、仲間と出会い、別れ、そして失ってきた。サキルが「戦争を終わらせる」と誓ったのは、失った者たちがいたからに他ならない。
だが、現時点でその大望を成すには、彼の力はあまりにも乏しい。それでも成し遂げるなら、幾千、幾万の戦友の屍を超えていかねばならない——そう覚悟していた。
できることなら犠牲は減らしたい。否、減らしてみせる。
戦争には慣れた。だが、戦友を失う痛みと恐怖には、いつまで経っても慣れることができなかったし、慣れるべきでもないとサキルは思っていた。
彼とホーキフは手分けして戦友たちの無事を確認し、一通り状況を把握する。奇抜な分隊作戦が功を奏したのか、被害は一割から二割程度で収まっていた。それでも、死者がいることに変わりはなく、安堵の中にも重苦しさが残る。
「ホーキフ……リセとフェイン様がまだ戻ってないって、本当か?」
「……ああ。本当らしい。ただの遅れならいいんだけどな……」
最悪の想像が脳裏をよぎり、サキルの表情が凍りつく。焦燥を抑えきれず周囲を見渡すも、それらしき姿は見当たらない。
――まだだ。ただ戻ってきていないだけ。
そう自らに言い聞かせながらも、不安は募るばかり。ホーキフも同様で、普段の余裕ある表情に影が差していた。
二人の間に沈黙が流れる。だが、すぐに覚悟を決め、頷き合った。たとえ掟に背いてでも、仲間を助けに行くと。
――例え止められようとも、行く。
そうして足を踏み出した矢先、遠くから歓声が聞こえた。
顔を見合わせた二人は、音のする方へ駆け出す。部隊の者たちが集まり、人だかりができていた。
「軍師様!」
その声に、サキルとホーキフは一瞬だけ安堵の表情を浮かべ、すぐに表情を引き締める。二人のうち、「軍師」と呼ばれるのはただ一人しかいない。
人垣をかき分けて中心へ進むと、そこにいたのは——。
「おやおや、サキルにホーキフじゃないか。勝ったっていうのに、その仏頂面はどうしたもんだい?」
人垣の中心で、ニヤリと笑みを浮かべる女の姿があった。
知略に長けた軍師、フェイン。
小汚れた装束に身を包み、男言葉を操る彼女だが、その深緑の瞳の奥には、常に戦局を見通す鋭い光が宿っている。
「フェイン……!」
サキルの声には、安堵と少しの叱責が混じっていた。仲間を心配する気持ちと、無茶をする軍師への複雑な想いが表れている。
その隣には、藍色のセミロングに澄んだ水晶のような瞳をもつ少女が立っていた。弓の腕は部隊随一、冷静沈着なリセだ。
「フェインさん! サキルにもホーキフにも、部隊のみんなにも心配かけたんですよ? ここは謝るべきです! 本当に、本当にすみませんでした!」
少女——リセは小さな拳を握りしめ、深々と頭を下げながらフェインに抗議する。その真摯な態度に、サキルの心は少し温かくなった。リセのこういうところが、この殺伐とした戦場で唯一の清らかさを感じさせてくれる。
対して、リセは本当にすまなそうに頭を下げる。だがサキルにもホーキフにも、二人を責める気は毛頭なかった。これまでも幾度となく、彼女たちは最善の選択を取り、部隊を危機から救ってきたのだ。この二人がいるから、自分たちは今まで生き延びてこられた。
「悪い悪い。予想外に敵がしぶとくてねー。まあ、結果オーライってもんさ」
フェインは手を合わせ、片目を瞑って軽く謝るが、その態度からは反省の色が見えない。
フェインは部隊の軍師として、創術こそ中程度だが戦略眼に優れ、時に万の敵を屠る知略を巡らせてきた。白兵戦には向かないが、知で戦局を動かす異才である。
一方のリセは、遠距離から正確無比な矢を放ち、時には近距離戦もこなす実力者。弓兵でありながら格闘にも長け、臨機応変な判断力も備えている。二人はまさしく、この部隊の柱とも言える存在だった。
「けどな……一つだけ気になるんだ、フェイン」
サキルが声を低くして問う。彼が語る間、フェインは上の空のように身体を揺らしていたが、不意に真剣な表情に変わり、彼の言葉を遮った。
「いやぁ、今回の敵は思った以上に根性があってさ。部隊が壊滅状態になるや否や、共倒れ狙いでこっちに突っ込んできたんだよね。ある程度は想定してたけど、低確率だったから対処が遅れた。本当に申し訳ない」
口調は軽いが、声には深い悔恨が滲んでいた。
「とても危なかったわ」
リセが静かに口を開く。
「フェインは自分の判断ミスだと言ってるけど……誰も予測できなかったことまで想定して動いたのは、むしろすごいと思う。私たちは、フェインの判断があったから生き延びられたの。けれど、その代わりに犠牲になった仲間がいるのも、事実だけど……」
言葉の端々に、感情を抑えきれない想いが滲む。
「そっか……そうだったんだね」
ホーキフが拳を握り、沈んだ声で返す。
「だったら二人を責める必要なんてないよ。むしろ、最善を尽くしてくれたことに、感謝しなきゃ」
「その通りだ。……俺たちが謝るべきだ。危険な状況に気づけなかった俺たちが。ごめん、フェイン。リセ」
サキルも頭を下げた。
「……もう、やめようぜ。謝ったり謝られたり、そんな辛気臭いのは」
フェインが突然立ち上がり、場の空気を払うように声を張った。
「勝ったんだぞ、俺たちは! 反省は大事だけど、それは明日でいい。今は、救えた命を数えよう。きっと犠牲になったみんなも、それを望んでるさ」
そう言って、フェインはサキルとホーキフの肩に腕を回す。無遠慮に体を寄せる彼女に、男二人は思わずたじろぐが、それを見てリセがじっとサキルに目を向けていた。
「……たしかに、後ろ向きじゃ何も変わりませんもんね」
「うん、皆の分まで生きなきゃ!」
「とはいえ楽観は禁物だけど……暗く沈むよりは、ずっといいです」
三人それぞれが、フェインの言葉に前向きな返事を返す。だがリセの視線は、どこか刺すようにサキルへ向けられていた。
——最近、リセの視線が妙に鋭い。なぜなのか、サキルには分からなかった。
だがそんな疑問を胸に抱えつつも、今、心に浮かんだのは一人の男の姿だった。
「そうだ、フェイン。父上は今日は?」
「うーん、わかんないなぁ。あの方も多忙だから、今日も難しいかも」
「……やっぱり来ないのか」
サキルは小さく溜息を吐く。勝利を手にした戦場に、部隊の創設者ナバの姿はなかった。それが、胸に小さな影を落とす。
――父上に、今の俺の戦いぶりを見せたい。俺が強くなったことを、認めてもらいたい。
子どものような願望だと分かっていても、サキルはナバの承認を求めずにはいられなかった。
「……仕方ないよね。ナバ様も責任ある立場だし」
ホーキフも寂しげに呟き、リセも無言で頷く。
三人とも、同じ気持ちなのだとサキルは理解した。ナバは、彼らにとって父親のような存在なのだ。
一瞬の沈黙が場を覆う。だが、その静けさを破ったのは、やはりフェインだった。
パンッ。
手を打ち鳴らす音が響く。
「また暗くなってる! ナバ様ならこう言うさ。『次も勝ってこい!』ってね!」
「そうだな」
サキルは顔を上げ、力強く頷いた。
「俺たちは生きて、またナバ様に会うんだ」
その言葉に、ホーキフもリセも、そしてフェインも、まっすぐな眼差しで応えた。
「……よし! 今日は皆で騒ごう!」
「うん! 今日は騒ごう!」
「騒ごう騒ごう!」
「さっき来たばかりだけど、大体わかった! サキルが滑った話は後にして、今は祝おうぜ!」
「え、待て! クレン、お前さっきからいただろ! それにフェイン、あんたが焚きつけたのに何無責任なこと言ってんだよ!」
周囲の戦友たちが冗談混じりに盛り上げ、場は一気に賑やかになる。サキルは苦笑しつつも、どこか嬉しそうに仲間たちを見渡した。
「こうして皆で笑える時間……悪くないな」
彼は改めて心に刻む。
――いつ死ぬか分からぬ乱世だからこそ、今を楽しむ。
だが、死にたくない。大切な人を守りたい。だからこそ笑い、生き抜く。
失ったものを忘れず、けれど、救えた命を数えて前に進む。
矛盾のようでいて、きっとそれが真実だ。
サキルはそう信じ、仲間たちと共に、今はただ勝利の余韻に身を委ねていた。
だが、その笑い声の中で、サキルの右目だけがふいに疼いた。
――……また、か。誰にも気づかれるわけにはいかない。
誰にも見せてはならない力の気配が、静かに、しかし確実に目覚めつつあるのを、サキル一人だけが感じ取っていた——。




