漆黒の血夜
「ふぅ、やっと見えてきたな……」
ナバ=セルフェウスは、帰還すべき地であるオーラクスの城壁を遠目に捉え、損傷がないことを確認して安堵の息を吐いた。
「さて……早く戻って上層部に連絡し、サキルたちを迎える準備を進めないとな」
頭の中で次の段取りを考えながら、城壁の真下へと到着する。
「ナバ=セルフェウスだ。城門を開けてくれ」
望楼の上に向けて声を張り上げると、一拍置いて慌ただしい応答が返ってきた。
「お待ちしておりました、ナバ様! ですが確認を行いますので、少々お待ちいただけますか?」
「ああ、頼む。急がなくても構わない」
城壁の兵は、主を待たせることを気にしているようだ。しかし、敵の尾行や偽者の可能性を確認せずに城門を開けるのは監督不行き届きとなる。大将軍として、それは致命的だ。だからこそ、あまり気を遣う必要はないことをそれとなく示す。むしろ、確認作業を急いで間違いがあっては大事に関わることもあるのだから。
「ナバ様がお待ちだぞ! 急いで確認を取れ!」
「はっ、ただ今周囲の感知をしております! 終わり次第、ナバ様本人の確認へ移行します」
「うむ、だが急ぎ過ぎて失敗するなよ?」
「はっ!」
だが、あまり意味はなかったらしい。まあ、注意すべきところは押さえているのだから問題はないだろう。「それにしても」と再び一息つき、確認が終わるまでの暇つぶしがてら城壁を見上げて呟く。
「守備を一任された城なのに、こうして下から見上げることはあまりなかったな……改めて見ると、鉄壁と言っても良い完璧な城壁だ」
ナバ=セルフェウスが今回「死守せよ」と命じられたオーラクスは、高さ十五メートル、長さ三キロの城壁に四方を囲まれた地だ。城壁の上には、敵国に面する城壁に望楼が二つ、その他の城壁には望楼が一つずつあり、防御術に優れた兵士が常駐している。また、城壁の四つ角にはそれぞれ物見櫓があり、感知術を使う兵士が常駐して常に警戒を怠らず、烽火を上げて比較的近くにある街やオーラクス内で情報伝達を行う。物理的にも情報的にも堅固に守られた城壁と言える。
「上の連中も、よくこんな最前線に近い場所にこれほどの代物を作れたものだ」
オーラクスは、今回サキルたちが紙一重の戦いを繰り広げた最前線のロン荒原から数キロ程度しか離れていない地であり、隣国アルグアへの防衛ラインの一角を担っている。敵を間近に感じる場所だからこそ、より堅固な城塞が必要なのだろう。とはいえ、敵国のアルグアが楔になり得るものを黙って作らせてくれるはずがない。必ず邪魔が入る。そんな条件下でも鉄壁の守りを築き上げたことは、眼前に聳え立つオーラクスの威容が証明していた。
そんな感慨に浸っていたところ、ゴゴーンという重い音が響く。目の前の門が上がり始めたのだ。
「さて、さっさとやるべきことを終わらせないと……ん?」
しかし、次へと思考を移そうと、完全に上がった門の内側へ二歩進んだところで、ナバは違和感を覚えた。城壁の内側には、主に木造づくりの家々が広がるオーラクスの街並みが見える。建造物が破壊され、煙が上がっているだとか、人が辺りで倒れているだとか、そんな目に見える明らかな異変はない。
当たり前だ。それならば城壁の上から見てすぐにわかるはずだ。だが、何かがおかしいと本能的に感じた。出迎えがないというのもそうだが、それ以上に人の気配をほとんど感じない。
街を駆け、辺りを見回してみてさらなる異変に気付く。現時刻は夜七時。まだ寝静まるには早い時間だというのに、外を歩いている人間はおらず、家々の灯火はついているというのに、街は怖いくらいの静寂に包まれていた。まるで通夜のようだ。
——何だ……何が起こっている……いや、そうだ。城壁の上にいた兵に話を聞くか。
先程、城内に入るためにやり取りをしたばかりで違和感を覚えなかった。もしかしたら何かを知っているかもしれない。ナバは手近な城壁の上階につながる階段へと向かい、身体強化を駆使して一気に駆け上る。ゆっくりしている時間はない。
「何だ……何がどうなっている!?」
しかし、城壁に上がると信じ難い光景が広がっていた。とはいっても、望楼や物見櫓に火が上がっているだとか、兵の死体がそこら中に転がっているだとか、そんなあからさまな問題ではない。その逆だ。
「何故……何故誰もいない!」
城壁の上には誰もいなかったのだ。見渡す限り無人である。城壁は四方三キロに広がっており、その一角にいるに過ぎないが、ナバの視力は常時より良く、対面する城壁の上の細部までよく見えた。伊達に戦場を渡り歩き、常に遠くを見てはいない。
「そんなはずはない! 先程まで話していたというのに!」
だからこそ焦った。逸る気持ちを抑え、望楼の屋根まで跳躍し、オーラクスの全てを視界に収めてみても、状況はさらに絶望的だと知るだけである。
「何が……何があった……」
城壁の上や望楼や物見櫓に人がいないのも異常だが、それ以上にオーラクスの街を俯瞰してみても、誰一人外を歩いている者はいなかった。
「いや、なんだこの感覚は?」
しかし、そこでさらなる違和感を本能的に感じる。自分だけが世界から切り取られている……そんな感覚だ。眼下のオーラクスの街並みが、何故か偽りのように感じる。
——いや、偽りなのか? これは精神干渉術か? いや、それも違う。
ナバの長年の勘がそう告げる。勘というのは案外侮れない。勘によって命拾いしたことが一度や二度ではなく、片手の指を満たすほどあったからだ。それでも、勘という確かな根拠のないものを信じきることもできなかった。とはいえ、躊躇っている時間もあまりなさそうだ。
「試してみるか」
彼は腰に差した剣の柄頭を掴み、素早く抜き放つ。その剣は刀身が赤く、特に装飾はされていなかったが、一目で業物とわかるような長剣だった。魔力を練り、次に起こしたい現象を想い描く。剣が主の魔力に呼応し、薄い炎の膜が刀身を覆ってゆく。それから炎を纏った剣を大上段に構え、眼下に広がる街に向けて素早く振り抜いた。
炎の渦が巻き起こり、全てを焼き尽くさんと宙空を真っ直ぐに飛来する。だが、家々に直撃すれば甚大な被害を生み出すであろう猛り狂った炎は、目先八メートルほどで不自然に止まり、その炎渦は火の粉を残して消えた。——不自然な時空の歪みを残して。
「やはりか……」
剣を立て続けに振り抜き、炎渦が次々と現れては時空の歪みへと消えてゆく。その歪みは炎渦が当たる度に次第に大きくなっていき周囲の時空が歪み始め、やがて、そのすべてが掻き消えた。
「なっ……!?」
その瞬間、ナバは目を疑うような光景を目の当たりにする。
望楼の上から見渡したオーラクスの街並み——つい先ほどまで異常のない穏やかな風景だったはずが、建物こそ健在でありながら、そこかしこに凄惨な死体が転がっていた。
上半身と下半身、あるいは左右で切断された遺体。
肉が引き裂かれ、骨が粉砕され、頭部が潰された者もいる。
街は焼けていないのに、焼死体までもが見られる——まるで悪夢のような歪な地獄絵図が広がっていた。
この凄惨な光景に、さしものナバも心を揺さぶられる。
強烈な負の感情が込み上げ、一瞬、冷静さを失いかける。
しかし、歯を食いしばり、感情を押し殺す。
いま成すべきは嘆くことではない。状況の把握が先だ。
ナバは逸る心を抑え、望楼から城壁へと飛び降りると、身体強化術を発動して一気に駆け抜ける。
目指すは街の中央——オーラクス城。その城塞へ向かって、階段すら使わず垂直に駆け上がる。
逃げるという選択肢もないではなかった。
だが、それは決して選べない。
街に倒れているのは、ほとんどが一般の民であり、兵士たちは幻術で操られている可能性がある。
術者さえ突き止めて倒せば、まだ救える命があるかもしれない。
オーラクスに駐屯していたのは、ナバの直属の精鋭部隊だ。
彼らすべてを失えば、もはや自身の明日はない。
冷静を保ったまま、ナバは変わり果てた街を駆け抜けながら、状況を分析する。
城壁の上で交信していた兵たちが、わずか一分足らずで忽然と消えたこと——
そして街全体を包んでいた空間操作術。
恐らく、街の異変を悟らせぬように時間を稼ぐための術だったのだろう。
まんまと罠にはまった自分を悔やむ。
しかし、空間そのものを偽る魔術の存在など、ナバ自身もこれまで知らなかった。
そして、自身の離城が敵に察知されていたことも、致命的だった。
情報戦において、完全に後れを取っていた——
それが、いま最も悔やまれることかもしれない。
だが、過去を悔やむのは後にすべきだ。
今は、いかに行動するかを考えるべき時だ。
まず、敵の正体を突き止めねばならない。
可能性として最も高いのは、隣国アルグアが、ナバの留守を突いて攻め込んできたというものだ。
だが、それはナバが最も警戒していた危険でもあった。
サキルたちの救援に赴くにあたり、ナバは情報の統制と選別を徹底し、常にアルグアの動向に目を光らせていた。
慎重に機をうかがい、ギリギリの段階で出撃したのもそのためだった。
——それでも、これほどの事態を見抜けなかったことに、なお違和感が残る。
——いや、「軍」にこれほどの隠密行動が可能なのか?
兵士千人を超えて初めて「軍」と呼ばれる。しかし、あの堅牢な城塞を落とすには、最低でも一万、いや一万五千の兵力は必要なはずだ。それでも尚、指揮官が優秀でなければ難しい。
ナバの直下軍は、それほどの戦力を誇っていた。自らが誇るに足る、歴戦の精鋭で構成された軍勢だった。
それを一瞬で屠るとなれば、もはや考え得る可能性は一つしかない。
「……『暗殺部隊』ってやつか」
「暗殺」と聞けば傭兵を想起する者も多いが、この異能が支配する時代において、それは国家も軍と並ぶ有力な戦力と認識していた。
各国がそれぞれに裏の部隊を擁しているという噂は、もはや公然の秘密だ。
ナバは正規軍の将ゆえ詳細は知らぬが、少なくともゼルグには裏部隊が存在し、彼自身もかつて合同作戦を行った経験がある。
であれば、隣国アルグアにも同様の部隊があって不思議ではない。
——だが、本当にそんなものが、ここまでやれるのか?
オーラクスの城壁の内側には街が広がり、その後方、ゼルグ本国寄りの位置に、煉瓦造りの巨大な城——オーラクス城がそびえている。
四方を守る四つの塔が威容を放ち、「聳え立つ」という表現が相応しい、威圧的な造形。
磨き上げられた煉瓦が夜目にも映える光を放ち、城そのものが威厳と権威の象徴として屹立していた。
だが今、その威容すらも、街と同じく異様な静寂に包まれている。
——ここまでやった奴らを、一人残らず消し炭にしてやる。
怒りを内に宿しながらも、ナバの表情は冷静そのものだった。
彼は、不自然なまでに開かれている城門を目前にし、罠と知りつつも後戻りはできないと悟る。
城壁の兵を幻術で操り、空間を偽って異常を隠し通していたのだ。今さら背を向けたところで、待つのは背後からの一撃だろう。
覚悟を決め、城の扉に手を掛ける。
鋭い目つきで息を整え、警戒しながら扉に力を込めると、それは驚くほどあっさりと開いた。
気を緩めることなく、静かに中へと足を踏み入れる。
途端、鼻をつく死臭が漂う。
ナバの紅の双眸が一層鋭く光り、全神経を集中させる。
戦友たちの安否が気にかかるが、今は不用意な行動が命取りとなる。
まずは警戒しつつ現状を把握しなければならない。
一階は広大な大広間となっており、ゼルグの使者や賓客を迎える正式な応接の場であると同時に、普段は兵たちが羽を休める憩いの空間でもあった。
舞踏会すら開けるほどの広さを誇り、常には屈強な兵たちが巡回し、あるいは駐屯している場所だ。
だが今、そこには誰の姿もない。
閑散とした空間に、血飛沫の跡が点在し、辺りにはただ死の気配と、呑み込まれるような沈黙が広がっていた。
——操られてもいい、だから皆、無事でいてくれ!
ナバは正確な状況把握を急ぎ、大広間から二階へ続く階段へと向かった。しかし、最初の一段に足をかけた瞬間、背後から無数の礫が彼めがけて降り注いだ。
瞬時に身体強化を発動し、ナバは左へ横跳びしてそれを回避。礫は地を穿ち、砂埃を巻き上げる。そして回避先にも間髪入れず追撃が飛んできた。
ナバは即座に長剣を抜き放ち、刀身に炎を纏わせた。右上から左下へと袈裟斬りで礫を切り払い、その軌跡に沿って炎が拡がる。さらに襲いくる礫も、炎の形状を変化させて全てを焼き払った。
すると今度は床から水が漏れ出し、それが針状に変化して飛来する。ナバは剣を横薙ぎに振るって炎渦を起こし、針を相殺。同時に水蒸気による視界不良を避けるため、左に跳び退いた。
——その先に、五人の兵がいた。
ナバは剣を構え、迎撃の態勢をとる。彼らの姿に胸が痛んだが、感情を殺し冷静に立ち向かうしかない。
まず一人目。左斜めからの袈裟斬りを体を捻って受け流し、横腹に右足の蹴りを叩き込む。手応えと共に相手が吹き飛ぶ。
二人目。右からの薙ぎ払いを剣で受け弾き、その隙に左拳で溝を撃ち抜く。背後からの三人目の斬撃も剣で受け止め、右脚の蹴りを返した。
残る二人は正面と背後から垂直に斬りかかってきたが、ナバは横へ回避しつつ左右の脚で素早く蹴り上げ、それぞれの動きを止めた。
こうして唐突に始まった戦闘はわずか数分で一区切りを迎えた。だがナバの表情は晴れない。唇を噛み締め、拳に怒りを込める。
——くそっ、最悪だ……。
今斃した五人は、数時間前までは共に城にいた仲間たちだった。殺すことなどできるはずもなく、幻術を解くことに望みをかけて加減したのだ。
だがその五人は、骨が砕けているはずの体で異様な動きを見せながら立ち上がる。瞳には光などなく、ただ闇が満ちていた。
次の瞬間、水蒸気に紛れて隠れていた数十人の部下たちが姿を現した。
空気はわずかに水気を帯びており、それが影響したのか、ナバの額にじっとりと汗が滲んでいた。いや、それだけではない。
不吉な何かが、確実に迫っている。