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一枚の絵  作者: 今居一彦
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遠景の幻

 翌日、私は新聞やテレビのニュースからその男の情報を少しでも多く手に入れようと躍起になっていた。しかし、日頃から数ある殺人事件の中で、男のニュースはもはやそれほど珍しいものでもなく、取り扱いは決して多くはなかった。

 

 それでもなんとかかき集めた情報によると、男は数年前に長年勤めていた印刷会社を急に退職し、その後は自称「小説家」として執筆活動をしていたようだ。しかし作品を世に送り出した実績はなく、そのため収入はなかった。大手貿易会社で仕事をしている妻がすべて家計を支えていた。まだ幼い二人の子供がいて、男はよく子供を公園で遊ばせていたらしく、近所の人達からは優しい子煩悩な父親と思われていた。妻が殺害されたのは仕事から帰宅途中の夜道で、背後からナイフで刺されたことによる出血死だった。普段から人通りの少ない裏道のため目撃者はいなかったが、付近の防犯カメラに男によく似た姿が映っていたことが容疑の決め手となった。男は「自宅に子供と一緒にいた」と供述しているが、子供が寝静まった後に外へ出て犯行に及んだと検察側は主張。男はそれ以上のことは黙秘を貫いている。凶器のナイフは見つかっていない。

 

 私はコーヒーを入れ、リビングのソファに腰を降ろしたまま、しばらくその状況に思いを馳せていた。しかし、昨日出会ったあの男と、この殺人容疑の男が同一人物だと私にはどうしても結びつけて考えることはできなかった。人を背後からナイフで刺すような男に、昨夜のような想像力豊かな、人を魅了する話ができるものだろうか。そう考えるのは単に私の稚拙な戯言だろうか。それともただ私は、そんな現実を認めたくないというだけなのだろうか。


 しばらくカーテンの下から床に差し込む明るい光を見つめていた。光と影が波を打って交錯する様子をみながら、私自身も昨日の記憶と今日の現実を行ったり来たりしていた。しかし考えることに少し疲れを感じた私は、明るい光に誘われるがまま、立ち上がってカーテンを開けた。外は久しぶりに穏やかに晴れ渡っていた。私は一度大きく伸びをすると、なんとなく晴れないこの胸の思いを少しでも紛らわすために、ドライブに出かけることにした。特にどこという目的もなく。着の身着のまま。そう、あの男も言っていたように。

 私は身支度を済ませると、財布と煙草とコーヒーだけを持って車に乗り込んだ。とにかく今まで行ったことのない見知らぬ土地に行ってみようと思った。元来出不精な私だが、少なからず男の「旅」の話に感化されたのかもしれない。知らない場所を目指してただひたすら国道を西へと車を走らせた。


 郊外を抜けると、田舎の風景に変わってきた。車の窓ガラスは全開にして、心地よい風を肌に受けながら、見知らぬ風景を漠然と眺めていた。

 信号待ちで煙草に火をつけた。煙草をふかしながらまた車を走らせた。すでにすっかり知らない土地へ足を踏み入れていた。左手には海が広がっていた。晴れ渡った水面は太陽の光を受けてキラキラ輝いていた。それはまるで、無数の白魚が餌を求めて飛び跳ねているように見えた。私は男が話していた老婆の言葉を思い出した。

「自分が蒔いた餌を、一つでも見つけて食べてくれる魚がいれば、それは幸運なことだよ」

 

 そして、半分ほど煙草を侵食した灰を窓から外に払った時だった。灰の飛んだ先の遠景に何かが目に写ったような気がしたのだ。すぐに通り過ぎた景色。しかも見るつもりもなくたまたま視界の片隅に入り込んだ景色。

 それは──広場のようなところに掲げられた大きな絵に人々が群がっている光景だった!

 あまりに一瞬の出来事だったので、本当にそういう光景だったのかすらすぐに定かではなくなった。ただの錯覚だったかもしれない。しかし私は、振り返ってもう一度確認しようとは思わなかった。車を止めて引き返すこともせず、ただそのまま車を走らせた。ただひたすら真っ直ぐに、国道を西へ向かって車を走らせるだけだった。そして、なぜか私は少し気が晴れたような気分で心は満たされていた。

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