2.
……
私は気絶していたらしい。頭が痛かった。
目がチカチカする。いや、これは蛍光灯が点滅しているのだ。
それで自分のいた場所を思い出した。目の前に自分の財布が落ちていた。
ゆっくりと手を動かし中を確認すると、現金はそのままあったが、あのバルンガ紙幣が無くなっていた。
起き上がろうとすると、頭に響いた。痛むところに手を当ててみたが出血はしていなかった。
胸に穴の開いた男は、同じ場所に倒れていた。先刻よりも皮膚が白くなっているようだった。脈をとるまでもなく、死んでいることは明らかだった。
机の上に『アクロ王試論』という本があった。手に取ってカバーの折り返しを見た。そこに載っている写真で、床の死体がこの本の著者・原耕研であることがわかった。
本を戻そうとした時、ページの間に小さな封筒が挟まっていたことがわかった。中身は空だが、表面の下の方に印刷屋のロゴと住所が刷り込まれていた。
社名は《ラビット印刷》、住所は三鷹市牟礼1-22-9となっていた。
牟礼1229! 城島の部屋にあったメモはこの印刷屋の住所だったのだ。
その時、パトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえた。私は痛む頭を抱えながら、急いで部屋を出た。
スカイラインに乗り込むと、ゆっくりとブロックに沿って一周し、パトカーの行き先を確かめた。それは案の定、原耕研の家で、警官はインターフォンを押しドアを叩いて、応答がないとみると中へ駈け込んでいった。
警官らの様子だと家の中で殺人が行われたと通報を受けたようだ。
通報したのは、当の殺人者だろうか。死体の傷痕からすると、四暗刻が。
私を逮捕させるためかもしれないが、現場に凶器がなければ犯人とはみなされない。しばらく足止めするのが目的か。
ともかく警官の到着前に意識が戻ったのは幸いだった。敵の尻尾をつかむチャンスかもしれない。
私はアクセルを踏み込み車のスピードを上げた。
三鷹市牟礼のラビット印刷は、雑木林と駐車場に挟まれ、周囲から孤立したような木造の小さな工場だった。
夕闇の迫る頃合、印刷機の回る音がかすかに響いていた。入口は開け放たれていて、奥に一人だけ灰色の作業服を着た初老の工員が見えた。あるいは社長かもしれないと思いながら声をかけた。
「こんにちは」
「どうぞ、入ってきて」手招きをしながら男は言った。
私は、積み上げられた紙やインクの缶の隙間を通って近づいて行った。
男は熱心に印刷機の方を見ていた。
「あなた、社長さん?」私は尋ねた。
「そうだよ」
「他の社員の方は?」
「いや、最近は仕事もなくてね。私と事務をやってる妻と、二人だけで」
「ああ、そうですか」
「で、何か用?」
「いや、ちょっと聞きたいことがありまして……」
そう言いながら、社長が見ている先の、印刷機からぞくぞくと吐き出されてきている紙が目に入った。それは、紛れもなくあのバルンガ紙幣だった。
「あれっ、これは!?」
「ああ、偽札ってわけじゃないんだよ。遊園地のイベントで使うクーポン券なんだって」
「クーポン券、これが?」
「うん、凝ってるよね」
「一枚、見ていいかな?」私は印刷機から出てくる札を手に取ろうとした。
「あーっ、だめだめ」と社長はあわてて止めた。「これ一枚づつナンバーが入ってるんで、順番が狂うと大変なことになるんだよ」
「へえ、ナンバーが……よく見ると、ふつうの数字じゃない文字が混ざってるね」
「そうなんだよ、わざわざ特注品のカウンター取り付けてね」
私はこの印刷を発注したのが誰か聞き出せないか試してみたかった。
だがその時、工場の中へ一人の男が入ってきた。ごつい体格で、髪は短く刈っており、目つきが鋭かった。服は上下ともモスグリーンの野戦服のようなものを着ていた
男は私を小突いて言った。「ここで何している?」
「ん、いや、ちょっと同人誌の印刷でも頼もうかと思って」
「この人は今いそがしいんだよ」
「じゃあ、出直してくるかな」
私は外へ向かって歩いて行きつつ、背後で二人のやり取りに耳を澄ましていた。
「まだ出来ないのか?」
「あと十分ぐらい。そっちのやつはもう持ってっていいよ」
工場の前には茶色いボルボのステーションワゴンが止められていた。
車の中からしばらく見ていると、野戦服の男は梱包された荷物を持ってきて、ボルボの後部へ積み込みはじめた。
しばらくして最後に刷り上がった分まで荷台に納めるとハッチを閉じた。社長は男から現金を受け取ったが、伝票は交わさなかった。男は車に戻り、出発した。私はぎりぎりまで間を置いてエンジンをかけた。幸いすでに日は暮れて、辺りは尾行にはおあつらえ向きの闇に覆われていた。
ボルボは井の頭通りから環七を南下した。とくに尾行を警戒している様子もなく順調に進んだ。
大森辺りで後ろにハマーがついてきているのに気づいた。もともと軍用車両で、横幅のある黒い車体だった。
平和島に入り、周囲に民家がなくなり、倉庫ばかりになると、ハマーがスピードを上げ追い越しにかかった。私は先へ行かせようとスカイラインを減速させた。前へ出たハマーは徐々にスピードを落とし車間距離が詰まった。さらにもう一両、側面から別のハマーが迫ってきた。ハマーは二両連なっていたのだ。
私の車は道路際に追い詰められる形で停車させられた。
側面のハマーの助手席から一人、男が路上に降り立った。こちらへ近づいてくる。街路灯に照らされたその姿は、あの殺し屋四暗刻だった。
殺し屋は、指の動きで私に車から降りるよう指示した。もう一方の手には、例の鎖の先に円錐のついた武器が握られていた。
車に立て籠もっても簡単にガラスを割られてしまうだろう。そう思って私は車から出た。
すると、四暗刻の乗っていた方のハマーは走り去り、入れ替わりにダッジのラム・バンが前進してきて停止した。
四暗刻がバンの後部ドアを開き、私に乗るよう指図した。
バンの中には、書類やパソコンの置かれた机があり、まるでそこが長年使っているオフィスだといった格好で、ミステル矢崎が座っていた。奥には大きな無線機らしきものが設置されているのが見えた。
「手荒なことをして申し訳ありません。何ぶんこちらは非常事態なものでね」矢崎は穏やかに微笑みながら言った。「ささ、どうぞおかけになって」
私が向かい側の椅子に腰かけると、四暗刻が背後に立ってドアを閉めた。
矢崎が合図をするとバンは走り出した。私のスカイラインを道路脇に残したままで。
「この人はCIAに雇われてるって聞いたよ」後ろに立っている男をちらりと見て私は言った。
「ほほう、さすがは探偵サン、耳が早いですな」
「じゃあ、あんたもCIAだったのか」
「ま、臨時雇いと言ったところですがね」
「珍しい貨幣のコレクターだと思っていたが」
「あー、お金のコレクションしていることは本当です。最近も一枚手に入れました」
矢崎は机の上にあったファイルから、血の付いたバルンガ紙幣を取り出して見せた。
「おれの財布から抜いたものだな」
「言ったでしょう、金は天下の回り物ですって」
「金か。しかし印刷屋は遊園地で使うクーポン券だって言ってたぜ」
「それは嘘です。日本の印刷屋サンみな腕がいい。それにワープロやコピー機が普及して仕事減ってる。でも偽札刷ってくれとくれと頼んでもみな断りますね。そこでクーポン券ということにして仕事してもらったというわけです」
「それをCIAが依頼したのか?」
「いえいえ、米国はバルンガの安定を望んでいます。大量の偽札を持ち込んで、経済混乱を引き起こそうとしているのは旧王党派。それでクーデターを起こしやすくしようとしているのです。今、日本中の小さな印刷屋サンで刷られた偽札が、ある場所に集められているところですよ」
「アメリカは民主化した新政府を支援して、見返りに核兵器製造に必要な地下資源を得るってわけか」
「あー地下資源の話はデマですよ。あの国の地面掘り返しても、出てくるのは古代遺跡だけ」
古代遺跡……という言葉を聞いて私は、殺された城島と原、双方の部屋にその資料があったことを思い出した。
「そろそろこちらからも質問させてもらいましょうか」矢崎は言った。
「何だ?」
「アナタの依頼人は誰です?」
「同業者が殺されたんでね。誰が犯人か、それを突き止めようと思ったまでさ」
「同業者……つまりミスター・ジョージマですね。しかし、アナタ、マダム・ローザのクラブへ行きましたね」
「ああ、マダムも城島のことを気にかけていたようだがね。だが、この件はとにかくおれ自身の動機で調べてる」
「それで犯人はおわかりですかな?」
「もちろん、城島達朗、それに原耕研という学者も同じ凶器で殺されていた。その傷跡の形状から察するに、犯人はこの四暗刻氏だ。そしてその指示を下したのは、ミステル矢崎、あんただ……ということになるのかな?」
「ほほう、しかし感謝して欲しいですな。ワタクシが止めなければこの男、アナタも殺してしまうところでした」
「なぜだ? おれを殺させなかった理由は」
「ワタクシたち、必要以上に人殺さない主義ですから」
「城島と原は殺す必要があったってわけだ」
「ま、やむを得ずですよ。あの二人は、アナタと違いバックに大物がついてましてね」
「大物……?」
「日本のとある政治家グループです。その人たちはどうやらバルンガの旧王党派を支持しているようでして」
「日本の政治家が、そいつらの目的は?」
「さあ、貴重な地下資源の話を信じているのか、あるいは他の理由かも……」
「他の理由ってなんだ?」
「フフフフフッ」矢崎は不気味な含み笑いを漏らした。
その時、信号にでも引っかかったのか、バンが急停車した。
「おっと、目的地に近づいたようだ。残念ながらアナタとはここでお別れです。で、ですな、アナタにはこの件からキッパリ手を引いてもらいたいのです」
「断る、と言ったら?」
「ワタクシはアナタの身を案じて言ってるのです。この先はデッドゾーン、長生きしたければ引き返すことです」
「オレがどこへ行くかは自分で決める」
「そうですか……では、これをお持ちなさい」と矢崎は血の付いたバルンガ紙幣をこちらへ差し出した。
「これは?」
「バルンガには、死者に紙幣を一枚持たせるという風習がありましてね。まあ日本で言えば“三途の川の渡し賃”ですかな」
私は札を受け取って車を降りた。後部ドアが閉じられるとバンはすぐ走り去った。
そこは大井埠頭の倉庫街のようだった。引き返せと言った矢崎の言葉に従うつもりはなかったが、ともかく乗り捨てた自分の車のある方向へ歩き出した。
夜、あたりに人の気配はなかった。車も、たまに大型トラックが走っていくぐらいだった。
前方から乗用車が近づいてきた。白いシトロエンDSで、運転しているのは若い女だった。
車は私の横で止まると、ドライバーが「ハーイ」と明るく言った。顔を見るとそれはクラブ・カリオストロの用心棒エリカだった。「乗っていかない」
後にはマダム・ローザの姿もあった。私は後部座席に乗り込み、トレンチ・コートを着たマダムの隣に座った。
「どうしてここに?」
「私にも情報網があるのよ。CIAほどではないけど」
「あなたは何者なんだ? ただのナイトクラブの経営者じゃなさそうだ」
「私はただのクラブ経営者……でも常連のお客さんがいろいろ問題を抱えていて、それで自然と、ね」
「ふうん、よくわからんが、まあいいや」
「で、城島の背後について、何かわかった?」
「CIAの男は、バックに日本の政治家グループがいると言ってたけど、それ以上のことは……」
「ミステル矢崎がそう言ったの?」
「ああ」
「そう……やはり……」
「いったい何が起こってるんだ? 彼らは偽札を追って行ったようだが」
「あれは偽札ではないわ。紙幣ですらない。王国時代のバルンガの紙幣には通しナンバーに特殊な文字が使われているのよ」
「ああ、それは知ってる」
「そして、その文字には魔術的なパワーが宿っている。五枚十枚なら大したことはないけれど、一定以上の量が集められるとその力は絶大なものになる」
「魔術的な……パワー……」
「CIAが恐れているのはそれよ。城島の背後の政治家グループというのも、その力を手に入れようとしているのでしょう。使い方によっては核兵器以上にもなる力……」
「本当にそんなものが!?」
「ええ、それを確かめに来たのだけど。あなたもいっしょに来る?」
私は行くと答えた。身の安全は保障できないとマダムは言ったが、私の答えは変わらなかった。
車は海沿いの大きな倉庫へ近づいて行った。
出入口を取り囲むように三両のハマーとダッジ・ラム・バンが止められていた。
暗闇にストロボライトのような閃光が走った。兵士が展開して銃撃戦が行われているのだった。
「誰と誰が撃ち合っているんだ?」
「CIAの戦闘部隊とバルンガ王の決死隊よ」とマダムが答えた。
ある程度まで接近したところで車を止めた。
マシンガンの銃声が響き渡っていた。さらにヘリコプターの爆音まで聞こえてきた。
倉庫の間に見える夜空を一瞬、対地攻撃ヘリのシルエットが横切るのが見えた。
「奴らコブラまで持ち出してきた」
私が言うと、暗視双眼鏡を覗きながらエリカが「ありゃコブラの発展型でAH1Zヴァイパーだね」と訂正した。
ヘリはホバリングしながら機関砲で倉庫の屋根を撃ち始めた。派手に破片が飛び散り、ゲートが倒れ大きく口が開いた。
「あー、いるいる。見てみなよ」とエリカが双眼鏡をこちらへよこした。
ボディアーマーをつけたCIAの戦闘員と応戦する迷彩服の黒人兵たち。その背後の倉庫内部ではバルンガ兵が、梱包を解いた紙幣をつぎつぎと床にばら撒いていた。広い倉庫の床がほとんどバルンガ紙幣で埋め尽くされているような状態だった。
「何だろう、札を床に撒いてるぞ」
「その奥を見て」
「んん、妙な奴がいる」
そこには場違いな人物の姿が見えた。痩せこけた老人で、鳥の羽で作った衣装を身にまとい、黒い皮膚には全身迷路のような線が描かれていた。木の杖を振りながら一心に何かを呟いているようだった。
「あれはバルンガ王家に代々仕えてきた伝説の呪術師ンギ=ドルヌゥよ」マダムが見るまでもなく、よくわかっているという調子で言った。
「呪術師だって!?」
「そう、唱えているのはノロンガの呪文……」
呪術師は杖を激しく振り、短く何かを叫んだ。
すると床を覆っていた紙幣が一斉に舞い上がった。つむじ風に吹かれたように渦を巻いた。
渦は回転をつづけながら伸長し、やがて大小いくつかの筒に分かれたかと思うと、合体し人の形になった。それは倉庫の屋根より高い巨人だった。まるでミイラ男のようだが、包帯の代わりに紙幣で身体を覆っていた。
「『グ=ハーン断章』に記されたノロンガの巨人……CIAが恐れていたものよ」
「偽札の巨人か」
「本来は魔術文字を書いたフダを使うんだけど、秘密裏に印刷させるため紙幣に偽装したのね」
ヴァイパーが巨人の周囲を旋回しながら攻撃を始めた。機関砲では効き目がないとみると、ロケット弾を連射した。
巨人は炎に包まれたが、ダメージは受けていないようだった。口の部分に光が集まり、光線が発射された。
ヘリは一撃で爆発四散した。
さらに巨人は両手で地上のハマーを一台づつ拾い上げ、海へと投げ捨てた。逃走しようとした三台目は光線で破壊され、ダッジ・ラム・バンも捕まえられ海へ投げ込まれた。ミステル矢崎や四暗刻もあれに乗っていたのだろうか。
CIAの残りの戦闘員も、勢いのついたバルンガ兵にみな撃ち殺されたようだった。
鬼火のような巨人の目がシトロエンに向けられた。口に光が集まっていた。
「おい、こっちを向いてるぞ」
エリカが車を急発進でバックさせた。光線が目の前のコンクリートを抉った。車はそのまま切り返し、倉庫の裏へ回りこんだ。とりあえず敵の死角に入りこんだらしく、巨人はゆっくりと歩き回っていた。
「どうするんだ、いずれ見つかるぞ」
「スピードで逃げ切れるかも」とエリカ。
「君、運転は得意なんだろうな?」
「国際B級ライセンス持ってます」
「あ、B級なの……」
「下手に動くと被害を広げてしまうわ」とマダムが言った。
「被害ったって、このままじゃあ」
「あれの目的が何かが問題よ」
「目撃者を始末したいとか」
「そう、でも……」
私の上着のポケットの中で何かが震えていた。取り出して見るとそれは、あの血の付いたバルンガ紙幣だった。手を放せばそのまま飛んで行ってしまいそうだった。
「それは?」
「別れ際にミステル矢崎から渡されたものだ」
「あれの狙いはそれよ」
「じゃあ、これを捨てれば……」
「いえ、いい方法があるわ」
マダムは、札を私に押さえているように言うと、エリカから口紅を借りた。口紅で紙幣の上に線を引きはじめた。正方形の上に十字を重ね、細かく記号のようなものを描きこんだ。
「巨人がこっちに来ます」エリカが言った。
「いいわ、放して」
私が手を放すと、紙幣は車の窓を飛び出した。群れに戻ろうとする魚のように、一直線に巨人へ向かった。
巨人は口を光らせこちらを狙っていた。
エリカが車を出した。巨人が大股で走るように追ってきた。
「くっ、逃げられない!」
その時、紙幣の最後の一枚が巨人の胸のあたりに合流した。胸から稲妻のような電光が走り、巨人の動きが止まった。発射直前だった口の発光が消えた。
「ウウゥ……ゥオオオオォォー」
巨人が呻り声をあげた。全身が震えだし、その後、紙幣の体が崩壊し始めた。
倉庫から呪術師ンギ=ドルヌゥがあらわれ、頭上に杖を掲げ何かを叫んだ。
するとバラバラになった紙幣は、流れるように倉庫へ戻っていった。
シトロエンでスカイラインを乗り捨てた場所まで送ってもらい、マダム・ローザとはそこで別れた。
翌日の報道では、埠頭の出来事は、倉庫での謎の爆発としてのみ伝えられていた。
マダムによると、呪術師とバルンガの兵たちは異次元トンネルを通って本国へ帰ったのだろうとのことだった。そこで紙幣の巨人を使い、王国を取り戻すのだとか。
そんなことが本当にできるのか、私にはわからない。




