#14 彼の願
―――今から一年前。橘は若者から絶大な支持を受ける四人組バンド、”フォーカード”のギタリストとして活躍していた。
他の三人のメンバーと共に、己の価値観を歌い、提唱する、メッセージ性の高いグループと名高い評価を受けていた。
当然渡もバンド事態は知っていた。街に出ると都度流れて口ずさむ位だったが、メンバーの名前は知らなかった。いわゆる”聞いた事ある”程度の知識だったが、それは今は置いておく。
「今日のライブも最高だったな!」
フォーカード初の全国ツアーライブ終了後。汗を拭う橘の肩に体を腕を乗せて言うのは、フォーカードのボーカルであり、橘の親友―――剣咲 烈。
アンコールまで走り抜け、控室でライブの余韻に浸る彼は歯をむき出しにして笑う。それに応える様に橘は微笑む。
「俺達はまだまだイケるぜ! なあ!?」
剣咲が両腕を大きく上げて皆を煽る。その姿はライブでの彼そのままだ。
人を惹き付ける剣咲の熱さは橘を含むフォーカードのメンバーらをさらに高揚させる。
「フォーカードが目指す場所はもっと先、世界の頂点だッ!」
「ああ!」
四人が互いの肩を組み、顔を見合う。若いバンドグループの夢は大きく、潰える事は無い。
―――筈だった。
――
全国ツアーから約半年、その事件は突然起きた。剣咲とトラックとの衝突事故だった。
歩行中の剣咲と信号無視をしたトラックとの事故、その後の判決では無論トラック運転手に全責任が負わされた。剣咲には多額の慰謝料が支払われ、治療費に当てられた。
幸い命を取り留めた剣咲だったが、先端医療を駆使した手術を以てしても彼の体には後遺症が残ってしまった。
「―――何だ、これはっ!?」
剣咲は自らの”歌声”を失った。
生活には支障を来たさない物ではあったが、その声で以前の様に歌唱する事は不可能であった。
「俺は、もう歌えないんだ」
見舞いに訪れた橘に剣咲はしゃがれた声で問う。橘が首を傾げると、剣咲は手元にあった果物を彼に投げ付けた。まだ若く固い林檎を顔に食らった橘は左手で顔を覆う。
「何をするんだ、剣咲!」
「俺はもう歌えないんだよ!! 夢も! 世界も! 何も手に入れられない!」
ベッドの上から転がり落ちた剣咲は醜い声で鳴咽し始めた。
「何で俺だったんだ! どうして俺がこんな……」
それはまさしく神の悪戯。人に訪れる強大な試練。理不尽としか形容出来ない不幸。剣咲の元に降りかかった惨劇を前に、橘は涙が止まらなかった。
何故自分では無く剣咲が事故にあったのか。何故彼が歌を失わなければいけなかったのか。何度も、何度も、何度も。自分が代わってあげたいと橘は心の中で叫んだ。
手術から一カ月経ち、剣咲の歌声は戻らないとメンバーに告げられた矢先だった。
「俺はフォーカードで続けていけるとは思えない。抜けさせて貰う」
「正直調子に乗り過ぎなんスよ、剣咲先輩には申し訳無いけど、しょーがねーとしか言い様が無いでしょ」
「二人共、待ってくれ!」
メンバーの一員である鮎川と神代が脱退し、橘と剣咲だけがフォーカードに残ってしまった。その後も橘は二人を必死に引き留めたが、心無い言葉のみ言い放って音信不通となった。
「クソッ!!」
――
病室にて二人の脱退を伝えると、剣咲はそうか、とか細い声で囁くと、そっぽを向いて窓際を見つめていた。橘は彼のその背中を見るのが辛くて背を向け、家へ帰る。
昔はメンバーで賑わっていた橘の豪邸。今は彼一人が佇んでいる。そこにいる空虚な時間は橘を憔悴させていく。が、その度に橘は剣咲も孤独である事を思い出した。一人で苦しんでいるのは自分では無く、剣咲だ。その事が元より生真面目な橘の心を繋ぎ止めたのだ。
「今泣いているのは剣咲なんだ! 俺はまだ諦めない! 絶対にアイツの声を取り戻して―――」
決意のままに橘は剣咲の病室へ向かった。彼の元から皆離れて行った。現金で軽薄で残酷なこの世界。”アイツ”は誰より孤独を恐れていたのを思い出す。
(そんな事はどうでも良い…今は剣咲の所に行かなくちゃ!)
橘は走り出す。そして咲の歌声を取り戻す為に模索していく。そう決めたから。
「剣咲!」
病室には誰もいない。彼はいなくなったのだ。医師によれば退院したらしい。橘に言わず出て行った剣咲が何を考えているのか。ともかく彼を追わなければ。
だが、どれだけ連絡を試みても彼からの返事は来なかった。
様々な関係を辿って彼の行方を探りながら、彼の失くした”モノ”の治し方も傍ら調べていた。
「アイツは結局俺さえも置いて行った……何でそんな事をしたのかは知らないがいつか、また会える筈だ。それまでに……アイツの孤独を拭う為に俺に出来る事をやるんだ!」
それから早五カ月、つまり現在から一カ月前。
依然としてパソコンの画面に食らい付いて情報を漁り続ける橘だったが、有益な情報は得られない。苛立ちは募り、テーブルに手をつき、大きな溜め息と共に顔を落とす。
「どんな手でも良い、剣咲を―――救う、手立てをッ!」
橘の中で混沌と化していた多くの思いが結実し、感情が爆発した。そして、それに呼応する様にパソコンの画面には一通のメールが届いていた。
『あなたの願、叶えます。是か否かお答え下さい』
「願を…叶える……何だこれ……」
唐突に送られた一つの問い。恐らくスパムと思えるその怪文書に橘は思わず眼震する。が、それと同時に彼はメールの内容に惹き付けられていた。
”願を叶える”。その言葉は、今の橘の強い思いに響いたのだ。
「願を叶えて、くれるんだな? 俺の、剣咲の願を…」
指先を小刻みに震わせながら橘はメールに返信する。その返答は―――。
「―――”是”。これで良いんだな。俺は、どんな手でも良いって言ったんだ。剣咲の声を治す為ならどんなモノでも使ってやる覚悟は決めた、から……」
これは、疲労だろうか。彼の体から急に力が抜けて行く。そのまま橘は睡魔に誘われるまま眠ってしまった。
――
「親父! どこ行くんだよ!」
「ジュン坊、俺ァ負けちまったよ、戦いに。そしたらよ、俺ァ死んじまうんだ」
「死ぬって何だよ!?」
親子の言い争いが聞こえる。否、これは橘と父親の問答だ。こんな覚えがあったのか、と戸惑う暇無く話は続く。
「俺ァ死ぬのが怖ェんだよ! だから逃げてやる、そしたら”ゼム”も追いつけねェさな」
みずぼらしい服を着た橘の父親は一週間振りに帰って来てこんな事を言っている。一家の働き手だった母を失くした橘にとってはたった一人の家族だった。そんな父親が逃げる、と言い放って本当に家を放りだして去ろうとしている。
「待てよ親父! 俺は、俺は、一人じゃ生きていけないんだよ!」
心の奥底から湧き出て来る言葉。その言葉に橘は気付かされる。本当に孤独を嫌っていたのは自分なのでは、と。
孤独では生きていけない、伝えなくては。人と人とを繋げる言葉を、持たなくては―――。
「悪いジュン坊。父親を生かすと思ってくれ、金は置いてくから」
「それともう一つ、これが遺言になるかも知れねェんだ…聞いてくれ」
橘の父親は息子の肩をしっかり掴んで静かに言った。
「お前の思いを、お前の言葉を、生きる糧にしろ」
「親父」
そう言い残すとじゃあな、と足早にそのあばら家を後にした。
「俺の思い、言葉を、生きる糧に……」
伝えなくては。ぶつけなくては。
「俺は―――」
歌声が響く。それはまるで天使の歌声。
「歌、か……」
――
と、橘が目を覚ます。体を起こすとおぼろげな夢の記憶が薄れて行くのを感じる。頭に痛みに悶えているとすぐにその記憶は消えて行く。
「そう言えば、昨日のあのメール、あれももしかして」
「夢じゃないわ」
天使の歌声! 夢で聴いたあの声が脳裏に蘇る。橘が辺りを見回すと、部屋のソファに赤いジャケットを着た麗人が足を組んでくつろいでいた。
「お、お前は一体誰なんだ!?」
麗人は口元を引き上げ、得意気に微笑む。
「私? 私はあなたの夢を叶えるエンジェルフェン、リオ・ベリー・フュンフよ」
「よろしくね、エルフェン」