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魔法の「とろり」

作者: みふらしがゑ

『今度の病院はちょっと遠いけど、頑張って病気をやっつけるの!」。』

 4年生の春、僕は家から遠く離れた病院のベッドにいた。今日から3日間、僕はここで一人で過ごす。ママもパパも面会には来ない。

 数日前、僕は二人の喧嘩で目を覚ました。『しゅんを3日も一人にさせたくない』と泣きながら言うママの声。『少しでも多く働かなきゃ、最高の治療はさせてあげられないじゃないか!』と押し殺したパパの声。

 今度は一人ぼっちだ…。怖くて心細くて、膝を抱えて泣き出してしまったその時、カチンカチンと音が聞こえた。涙を拭きながら音の方へ近づくと、みつばちが激しくガラスにぶつかっているのが見える。ベランダをのぞくとそこには鮮やかなピンク色をしたれんげの花が3鉢ちょこんと置いてある。みつばちはこの花に誘われて迷い込んでしまったに違いなかった。「カチンカチンカチン」みつばちは激しく窓に体をぶつけ続けている。                                                       

 「それじゃ、怪我しちゃうよ。」

 とうとう僕が窓を開くと、みつばちはものすごい勢いで病室に飛びこんで来た。そして僕の目の前にぴたりと止まるとこう言った。

 「僕、ブン。今日から君のお世話係だ。これからしばらくよろしくな。」

 その日の夜、ブンは僕の枕に座ってこんな話をしてくれた。その昔、ブンのおばあさんが、この部屋に迷い込んでしまった時、入院していた小さな女に子に助けてもらった。そのお礼におばあさんは時々ここを訪れて、その子がひとりぼっちの時は話しをしたり本を読んであげたりしたそうだ。そのうちにその子はいなくなってしまったけれど、おばあさんも亡くなったけれど、それ以来ブンの家族はそれを誇りに思って、この仕事を続けているという。

 「ブンは何人のお世話をしたの?」

 その質問を遮る様にブンは言った。

 「さぁもう寝よう。明日は朝から検査だ。ぐっすり眠ろよ。僕がここにいるから。」

 優しい羽音を聞きながら、僕は知らないうちに眠りについていた。

 翌日目が覚めると、沢山の先生や看護師さんが僕を取り囲んでいた。慌ててきょろきょろとブンを探したが、ブンはどこにもいなかった。開きっぱなしのガラス窓に目を向けたまま、僕は固く目を閉じた。両目から涙がこぼれた。

 「ごめんな。ちょっと痛かったかな。」

 血管に刺してあったちょっと太めのチューブを抜きながら先生が言った。

 その後、僕は何度も何度もガラス扉へと足を運んだが、ブンを見つける事はできなかった。僕がようやく羽音を聞いたのは、丁度夕食が終わった頃だった。

 「遅いじゃないか!」

 「ごめんごめん。忙しくて。」

 「ブンの仕事は僕のお世話係だろ?待ってたんだぞ、ずっと。もう来ないかと思ったじゃないか。ひどいよ!」

 泣き始めた僕にブンは近づくと

 「これ、舐めてみな」

 と僕の右手に針の先ほどの黄色いしずくを落とした。

 「さぁ。」

 甘い様なちょっと苦い様な。花畑の匂いがぱっと口中に広がった。

 「はちみつと、れんげの花のエッセンスを加えて作るんだ。僕たちはこれを『とろり』と呼んでいる。みつばちの両手いっぱいの『とろり』を飲めば、どんな病気も治るんだ。おばあちゃんは『とろり』採りの名人で女の子に沢山飲ませる事ができたんだ。」

 ブンは僕の腕に静かに止まると僕を見上げた。

 「ねぇしゅん。失敗した事、ある?」

 「失敗なんてした事ないよ。僕は病気のせいで幼稚園だってほとんど行けなかったし、小学校に入学したと思ったらまた入院だし。失敗する程、僕は色んな事していない。パパとママは僕が小学校に行く頃までには病気は治るって言ったんだ。でも見てよ。」

 僕は両腕に刺さっている2本のチューブをブンに見せた。

 「きっとこれからだって僕はこうさ。失敗する事もなく、友達と笑ったり喧嘩したりする事もなく、僕はこうやって生きて行く。」

 僕はブンを見て小さく笑った。ブンは何も言わずに、今度は僕の肩にとまった。

 「あの大きな煙突が見えるだろ?あの向こうには一面のれんげの花畑が広がってるっておばあちゃんが言ってた。あそこまで行けば、両手一杯のはちみつが採れるんだ。」

 僕は背中を伸ばして窓を見つめた。遥か遠くにブンの言う煙突が見える。

 「あそこに行ってみようと思う。」

 ブンは窓を見たまま静かに言った。

 「しゅんに『とろり』を飲ませるんだ。」

 僕は驚いてブンを見た。

 「しゅんの手術はあさってだ。パパとママはそれに間に合う様に戻ってくるだろう。それまでには僕も戻るよ。両手いっぱいのとろりを持って。」

 ブンはふわりと浮かびあがった。

 「今度は失敗しない。絶対に。」

 その日の夜、僕はほとんど眠れなかった。あんな遠い所に、あんなに小さいブンが行けるはずがない。怪我をしたら?死んじゃったら?怖くてガタガタと震えながら、枕元の灯りを点けた。暗くてもブンにここがわかる様にと。

 翌日僕は、一日中窓際に座り込んで、さらさらと風に揺れるれんげの花を見ていた。心配した看護師さんが「明日にはママが来てくれるからね」と何度も僕の頭を撫でた。僕はご飯も食べられず、ベッドの上では遥か遠くの煙突を眺めた。羽音は全く聞こえなかった。

 翌日はばたばたとした朝だった。パパとママが飛び込む様に病室に入ってきて、僕をしっかりと抱きしめた。

 しばらくすると、僕の点滴の袋が何か違う袋に代えられる。そうすればあっという間に眠くなる事を僕は知っている。そして僕は手術台へと向かう事も。

 ぼんやりとしてくる頭の中で、もう一度しっかりと目を開けてあのガラス扉を見つめた。

 『ごめんねブン。悪い事しちゃった。』

 ブンがあの遠い煙突の下で泣いている様な気がした。


 「血圧が安定しません。」

 慌ただしい気配と、何よりも、僕は自分の荒い呼吸で目が覚めた。喉の奥まで入れられた太いチューブがとても痛い。胸も重くて、まるで誰かが僕の上に乗っかっている様だ。

 「しゅん、しっかりして!」

 ママの泣いている声。

 『ごめんねママ。もう心配はかけないつもりだったのに。ずっと僕の事で心配かけてごめんなさい。でも、僕はもうこんな苦しい思いはごめんだよ。もう嫌だ…。」

 ゆっくりと目を閉じようとした時、あの羽音が聞こえた。僕は慌てて目を開けたが、上手く見る事ができない。

 「しっかりするんだ、しゅん。」

 激しく息をしながらも、耳元で確実に聞こえるブンの声に耳を澄ました。

 「『とろり』だ。僕はやったよ!さぁ…。」

 チューブを伝って『とろり』が流れ込んでくるのがわかる。その途端、身体中にぱっと花畑の匂いが広がった。身体中が光に包まれた様だった。

 「これからは失敗だってするんだろ。」

 ブンのその声を聞くと、僕はぐっすりと眠りに落ちた。


 次に目を覚ました時、僕はママとしっかりと目を合わせた。チューブは外れていたけど、喉が痛くて声が出ない。

 「もう大丈夫よ。もう大丈夫。」

 ママは大声で泣きながら僕を抱いた。その隣でパパが泣いているのが見える。

 僕はゆっくりと頭を動かすと、例のガラス窓に顔を向けた。窓はしっかりと閉められている。

 「開けて、開けて。」

 『これ以上しゃべらないで』と言う様に、ママは急いで窓を開けた。


 それから数日すると、僕はベッドの上で起き上がれるくらいになった。僕は相変わらず、例のあの窓からブンが入って来るのを待っていた。

 手術が終わってからあまり話さなくなった僕にママは色々と話しかけたけど、僕の気持はそれどころではなかった。

 「それはそうと、しゅんは偉かったわね。3日間も一人ぼっちで過ごせたんだもの。」

 ママのこの言葉が、僕の心の壁を壊した。

 「一人じゃなかったもん。ブンがいたんだもん。」

 そして僕は泣き崩れた。驚いたママは「落ち着いて、落ち着いて…」と言いなら僕の話を聞いてくれた。

 「それじゃぁ、ママからもブンにお礼を言わないとね。」

 話を聞いたママは、ガラス窓に近づくと下に置かれたれんげの花に目を向けた。

 「信じてくれるの?」

 僕は少し驚いてママを見た。

 「れんげの花の匂いがしたの。目が覚めたしゅんから、れんげの花の匂いがしたわ。」

 そう言うとママも一緒に泣き出した。

 それから退院までの数日間、ママと僕は交代でガラス扉に向かいブンを探したが、とうとうブンを見つける事はできなかった。

 そして迎えた退院の日、病室を出る前に、僕はもう一度あの場所へと向かった。

 「ブンはきっと、次の子のお世話をする準備をしているのよ。」

 ママはそう言って僕を抱きしめた。

 「先に行ってて。ママはちょっとやる事があるから。」

 そうして僕らは病院を後にした。


 

 「ママ!こんな所にれんげの花が咲いてるよ。」

 青白い顔をした少女の顔が一瞬でほころんだ。

 「あら本当ね。4鉢ちょこんと置いてあるわね。」

 母は女の子を膝に抱くと、耳元で囁いた。 

 「今度こそは大丈夫よ…」

 

 どこかで優しい羽音が聞こえた。


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