森の中の嬌声
佐々木昇は、草原から鬱蒼とした森の中へと入り、後悔をした。
「夜が明けるのを待ったほうがよかったかな」と、立ち止まっては何度も自問自答している。
草原へと戻るには、行きと同じだけ時間が掛かるだろう。しかし、今から戻っても、草原に戻る頃には朝となるだろう。それに、目の前の茂みを少し歩けば、森の途切れが見えるのではないか…… そう考えると、どうも後戻りすることができないのだ。
「アンコールワットのように、石が積み上げられていたり、形跡くらいは残っていると思ったのにな。それにしても生傷が絶えない。靴ズレもしたな」と、大木の根っこに腰をかけ、休息を取りながら佐々木昇は途方に暮れる。
佐々木昇が森の中へ入ったのは、この世界が、アスパラトス・オンラインの世界より後の時代ではないかと推測したからだ。この辺りはアスパラトス・オンラインの世界では、森ではなく街であったはずだ。石畳が続き、ギルドや武器屋、防具屋からパン屋など、店が建ち並んでいた。そしてそれらは石造りの建物であった。ピラミッドだって、数千年残っているのだから、街の形跡くらい残っているだろう、と安易に考えて森に入ったが、街があったような形跡は見つけられない。安易に森の中に入ったことを後悔した。
佐々木昇は靴を脱いで、足裏をマッサージする。ズリむけた皮膚が、この世界はリアルだということを十二分に伝えてくれる。ゲーム感覚が抜けておらず、安易に森に入ったと後悔をした。
佐々木昇は、GMであるけれど、無敵ではない。物理攻撃無効、魔法攻撃無効、状態異常無効などは、プレイヤーの仲裁に出かけるGMが持っているステータスであって、佐々木昇のようにガチャの確率を操作するGMは、当然ダメージも受けるし、場合によっては戦闘不能、つまり死んでいた。それにより、周辺プレイヤーからGMと分からないように擬態していたのだ。
「GM襲撃事件、懐かしいな」と、こんな状況になり、無敵だったGMを羨ましく思い、佐々木昇は呟く。
GM襲撃事件とは、「GMは本当に無敵であるのか?」ということを確かめようとした検証組が起こした事件だった。アスパラトス・オンラインが、サービスを開始した初期の頃の話だ。
プレイヤー間のトラブルがあるというGMコールがあり、現場に急行したGMに待っていたのは、プレイヤー集団による強襲であった。毒矢、麻痺、イカスミ、巻き菱など、状態異常を付与するアイテムをひたすら投擲してくるプレイヤー。物理攻撃を仕掛けるプレイヤー。魔法攻撃、聖霊魔法、召喚獣による攻撃など、検証組からの各種攻撃をGMが一斉に浴びたのだ。
もちろん、GMは無傷であり、襲撃に参加したプレイヤーは、虚偽のGMコールを行ったという名目で、1週間ログイン禁止というペナルティーが課せられたのだ。
木の根元で休んでいる内に、眠気が佐々木昇を襲ってくる。アスパラトス・オンラインでは、眠気はステータス異常として扱われる。生身の人間のように、眠気が自然と襲ってくるというのは、ゲーム上あり得ない。状態異常を付与された時のみ、睡眠という一定時間行動不能状態になる。もっとも、攻撃を一撃受けると、行動できるようになるが……。
森で寝る時、木の上で体をロープで縛って寝ていた気がするなぁ、と何処かで見た映画を思い出す。しかし、これ、登るの無理だよなと、自分が身を預けている大木、神社のご神木のような太い幹の木を見て佐々木昇は思った。
森に入ってから、モンスターに遭遇したりした訳じゃないし、このまま寝よう、と目を閉じる。
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目を閉じると、視覚を閉じた分だけ、聴覚が敏感になる。
「あ。あっ。んんっ。胸、もっと。そ、そこっ。あっ。っ。あっぁ。」
佐々木昇の耳にどこからともなく、女性の嬌声が響く。
これって、喘ぎ声だよな? と、甘ったるい声を聞いて佐々木昇は確信する。
人がいるっていう事だよな? と、佐々木昇は体を起こす。目を開けても、耳に意識を集中すると微かに聞こえる。
夜中に、森の中で逢い引きしている? そうだとしたら、この近くに集落でもあるのだろうか? 行為中だとしたら、邪魔するのは失礼か? いや、でも、この世界の手がかりを一刻も早く手に入れたい。森というのは、公共の場だ。ラッキースケベも、森の中なら公共の福利を享受したとしても、それは咎められるはずはない……。佐々木昇は、好奇心を抑えきれず、声のする方向に、音を立てないように忍び近づくのであった。