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パラダイス・ロスト  作者: 三番茶屋
EpⅠ Paradise Lost
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 可視領域のディスタンス

 感覚は麻痺する。

 嗅覚もまた麻痺する。

 思い返せば、憂馬が小学生だった頃、蹴り損ねたサッカーボールが公園でたむろしていた高校生に当たり、ひどい脅迫を受けた記憶があった。

胸倉を捕まれ、軽々と宙に浮く自分と上背の大柄な高校生とでは見比べる必要もないほどに、圧倒的な体格差が存在していて、当時の憂馬は苦し紛れの抵抗に及んだ。

しかし、安らかな抵抗も空しく、高校生にとってそんなものは虫を潰す程度にあしらうだけだった。

 トラウマ。

 偶然なのか必然なのか、憂馬にとってその体験はトラウマに遠く、むしろ真逆のベクトルで作用したのは不幸中の幸いとも言えよう。

いや、幸い中の不幸と言える。

 窓ガラスを木っ端微塵に吹き飛ばして侵入してきた超大柄の男に一瞬、怯みはしたものの、憂馬は当時の記憶を思い出すように低い姿勢で対峙した。

 あの時――小学生だった頃は怯えながらも抵抗することに無我夢中だった。

 怖くないはずがない。

 恐れないはずがなかった。

けれど、感覚は麻痺している――経験すればするほど、それは憂馬にとっての日常へ帰化するかのようだった。

経験値はすでに達していた。

 それならば、そうであるならば――このような男を前にしても、恐怖を感じることはなかった。

それも、感覚が麻痺したせいなのだろう。


 眼前には、まるでガソリンのような強烈な臭いを発する男。

 黒いフード、黒いコート。

 黒の布手袋に黒のマスク。

 伊和里の黒髪に比べれば遥か劣る汚らしい黒色だった。

見るだけで嫌悪感が沸いてくるほどだった。

しかし、嫌悪感と恐怖感は遠いようで近い、曖昧なほどに酷似していて、煙のような線で画くされている。

その不透明さが余計に憂馬を混乱させていた。

 それでも、

 それでも憂馬は伊和里と並んで対峙する。

「…………」

 希望はお茶を啜りながら、そそくさと部屋の隅に座り直し、観戦体勢に入っていた。

僅かに目を疑った憂馬であったが、伊和里も黒い男も、それについて何かを言うことはしなかったので、希望の立場は一体どこなのかという疑問が渦巻いた。

そんなことを思考できる、憂馬は冷静さを自覚した。

「……あぁん?」

 黒い男は憂馬に視線を移し、高圧的に顎を上げた。

その姿勢は物理的にも相手を見下した様だ。

「お前ぇ……何者だ? 何だよ、その臭いはよぉ……気に入らねぇ臭いがぷんぷんしてやがる」

 そうだ、そうなのだ。

 あの時も、こんなシチュエーションだった。

 あの時と同じ――見下され、見下ろされ、高圧的に威圧的に、相手を蹴落とすために振り撒く圧倒的な暴力と脅迫的な横暴――全て、あの時と同じだ。

「へへっ……そっかぁ、そうなのかよぉ…………くくくっ、はははははははっ!」

 男は高らかに笑った。

くつくつと鼻につく笑い方だった。

「噂には聞いてんぜぇ、そういうことだったのかよ……何だよ何だよ、町屋のやつ、妙に意味深なことを言うと思ってはいたが――まさか、《連続殺人鬼》がお前ぇとはなぁ! どうりでノープランがわざわざその姿を現すわけだっ! ははははっ、こりゃ面白ぇ、面白ぇよお前ぇら……」

「……《連続殺人鬼》」

 憂馬はまただ、と思った。

皆が皆して自分のことをそう言う――それは一体何の名前だと言うのだ。

何の符号で、何のための記号だと言うのだ――憂馬には全く理解できなかった。

「ほぅ……もしかしてまだ目覚めてねぇのか」

 黒い男は額から嫌な汗を滲ませる憂馬の姿を凝視して言った。

その言葉の意味も、憂馬は理解することができなかった。

「あんた、逃げな」

「……えっ?」

 伊和里は視線を黒い男に据えたまま言った。

相変わらずの無表情で、何を考えているかわからない。

「逃げるって……どういうことだよ」

「あんた、まだこの状況をわかってないの? このままだと、このままだと、あんた――」

「……何だよ」

 ごくり、生唾を飲み込む憂馬。

 真冬の深夜だと言うのに、額から流れる汗は止まない。


「――殺される」


 わかっていた。

 最初からわかっていたのだ。

 この状況が何を示し、何を意味するのか――黒い男が現れてからではない、伊和里と出会ってからではない、希望と出会ってからでもない――それはきっと、あの時、自らの手で親の腸を引きずり出した時だ。

 あの時からすでに、破綻していたのだろう。

 すでに、崩壊していたのだろう。

 世界を動かす歯車はすでに――寸分なく狂い狂っていたのだろう。  

 日常などない。

 戻る世界などない。

 全ては異常で、全ては怪奇で――殺意と狂気だけが満ちた暗い世界。

 破綻した世界の異常の、崩壊した日常の裏側の、現実とはほど遠く偽物により近い本物――後ろを付きまとう影のような、歩む度に沈む底なし沼の中で何かを引き摺りながら進むような、そんな世界。

 いや、世界ではない。

 これは、『異世界』――裏表などない、側面など存在しない、一体ではない。

 それとはかけ離れて切り離された別次元のようだ。

 異次元の別次元。

 切断された世界――これが、現実。

 紛れもない、現実。

「殺されるって……何言って――」

 簡単に受け入れることができるはずがない。

 易々と見つめることができるはずがない。

 これが正真正銘、自分の現実だと向き合うことができるはずがない。

 逃避するには十分で、目を逸らすには十二分だった。

「逃げろ!」

 だから、憂馬は走り出していた。

 伊和里の発破を背に、玄関の扉を強引に開けて、軋む階段を滑り落ち、逃げ出した。

 アテなどどこにもない――ただがむしゃらに、力任せに走り出した。

 真冬の深夜、憂馬が吐く息は白くなる。

荒々しい呼吸のせいで、まるで口から煙草の煙が出ているかのようだった。

 上着は伊和里の部屋に置いてきたので長袖シャツ一枚である。

けれど、寒さは感じない。

肌寒さも感じない。

感じるのは背後から迫るような殺意と狂気だった。

 振り返る。

 追っ手はない。

 どれくらい走っただろう、憂馬は息切れながら足を止め、額と首に感じる粘着質の汗を袖で拭った。


 だっせぇ……。

 弱ぇ……。


 憂馬は自分に呆れて、脇に見えた公園のベンチに座った。

全速力で疾走したせいか、未だに呼吸は整わない。

むしろ、急に止まって座り込んだせいか、胸の中心を打つ音がより感じられた。

破裂するのではないかと思うくらいの速さで脈打つ心臓は、憂馬が冷静さを装っていたことを訴えているようで、それを感じ、余計に自分の弱さを自覚することができた。

 結局、自分は弱いままで――小学生だった頃と何ら変わっていない。

 人が簡単に変わらないのと同じで、人は簡単に成長しないのかもしれない。

強くなったと胸を張ることができる、そう考えていたわけではないけれど、少なくとも進歩はしているだろうと勝手に思い込んでいたということなのだろう。

「こうして現実が見えるのに、手に届かないような距離を感じるのはどうしてなんだよ……ったく」

 憂馬は苛立ちを発散させるべくベンチに拳を叩きつけた。





        ◆




「おいおい……ノープラァァァン、逃がしてどーすんだよぉ……」

「あんたには関係ない。目的はあたしでしょ」

「それもそうだが――いや、どうしよっかねぇ……」

「残念だけど、行かせないし生かせない」

「くくくっ、怖いねぇ……怖い顔は好みだぜ、ノープランよぉ。そんな気持ちの悪いクライアントなんざ無視して、俺んとこに来いよ。お前ぇだったら出世も間違いねぇ……何より、町屋が喜ぶだろうぜぇ、はははっ」

 伊和里と男は適度な距離を互いに取り、向かい合っていた。

 すぐ隣には相変わらずの様子で正座し、お茶を啜る希望がいたが、二人にとってそれはすでに些細なことに過ぎなかった。

 互いが互いを見つめ、 

 互いが互いを意識し、

 互いが互いを敵視し、

 互いが互いを殺そうとしていた。

「しかしなぁ――」

 男は言う。

 伊和里の殺意を感じながら、それでも余裕を見せる声調だった。

「作戦変更! 俺はお前ぇより、あいつに興味がある!」

「あ、おい――っ!」

 黒い男は伊和里の制止を背中で黙殺して、ベランダの柵に器用に乗った。

重い体重が柵を歪ませて、軋ませる。

「俺はあいつとやりてぇんだよ。勿論、お前ぇともやり合いてぇとこだが、依頼なんてどうでもいいくらいに興味をそそるぜ。まっ、俺が作戦無視することなんざ、専らよくあることだろ」

 と言って、黒い男はそのまま地面へと落ちて行った。

 高らかな笑い声が遠ざかっていき、伊和里は呆れた様子で溜息を吐いた。

殺人を楽しむ輩は少なくないけれど、あの男ほど趣味の悪いやつはそういない――溜息にはそんな意味も混じっていて、伊和里の様子を見ていた希望は、

「追いかけなさいッ」

 とやはり毅然とした態度で、動揺も混乱もせず、不気味な微笑みを見せた。

「えー……」

「これは依頼よッ」

「いくら」

「三百」

「乗った」

 伊和里は三本の指を立てて、

「後処理は任せます」

 と残して、冷風が入り込むベランダからではなく、スニーカーを履き、玄関の扉を開けた。

そして、厚手のダウンを羽織ながら、小走りで住宅街を抜けた。

 どこにいるかは皆目見当つかないけれど、遠くへは行っていないはず――《放火狂人(パイロマニアック)》、真野 梶(まのかじ)が追いかけているなら尚更、遠くへは行けないはず――伊和里は腰に装着したホルスターを揺らして、そう考えた。

 茶色のホルスターに花柄のワッペン。

 その中には装飾とは相反する無骨な短刀が、二本。


「お願いだから殺されないでよ」


 心の音が無意識の内に口から出たのはどれくらいぶりだっただろうか。


 



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