現実逃避のサイコロジー
「で、俺がその《連続殺人鬼》だっていうのは一体どういう意味なわけ?」
鬼が笑うほどの予想外な結末の後、暫くの間、伊和里は口を開こうとしなかった。
その場にしゃがみ込み、どうしてかわからないが頬を赤らめ、もじもじと手遊びに耽っていた。
ようやく顔を上げたかと思うと、憂馬の視線が気になるようでまたすぐに俯くのであった。
背の低い丸いテーブルを囲んで二人。
ついさっきまで凄惨な殺人が行われそうになったとは思えない空気が漂っていたけれど、憂馬はとくに気に留めず、質問を続けた。
「伊和里ちゃん、自分のことは《通り魔殺人鬼》だとか言ってたけど、それって今女子高生の間で流行ってる遊びみたいなもんなわけ?」
「違う……」
「つーか、なんかさっきから様子がおかしくねーか?」
「おかしくない……」
「……ふぅん、ならいいけど」
「おかしくない!!」
「えっ、お、おう……わかったって……」
深呼吸にも似た溜息を吐いた伊和里はおもむろに口を開いた。
神妙な面持ちで、意味を深めるように間を空けて言う。
「あんたはまだ自分に気付いていない――いや、自分を知らないんだと思う。知らないと言うか、隠していると言うか――それこそ、画していると言うか」
「……?」
その言葉の意味は憂馬には理解することができなかった。
疑問系の適当な相槌を打つだけである。
「そのにきびのない綺麗な顔の裏に何が潜んでいるのか、あたしは気になる。その内側で不気味に蠢く『何か』が一体『何』なのか、あたしは気になる」
「俺の内側……?」
「そう、覚えてるでしょ――」
伊和里は放り投げられた短刀を拾い上げ、電光を反射する刀身を鏡に前髪を整えた。
左に流れた艶やかな髪に、憂馬は一瞬を目を奪われて想起する。
覚えている。
思い出している。
あの瞬間の感覚――手に残るあの瞬間の触感を――
憂馬は自分の手のひらを確認した。
両親の土手っ腹を裂いたあの時の感覚を思い出しながら、血に塗れた手のひらを思い返しながら、乾燥して白く浮き上がった皺を見つめる。
不思議と冷静だった。
震えもない、嫌な汗も感じなかった。
それはすでに、わけもわからないままに取った行動を自覚して自認している証拠だったのかもしれない。
過ちも、後悔も。
すでに憂馬は受け入れて、受け止めていたのかもしれなかった。
「あれが、本当の俺……?」
憂馬は独白した。
誰に聞かせるつもりでもない、心の声が漏れたように呟いた。
「だったら」
伊和里は短刀を太ももの位置に備えたホルスターに収納して、
「だったら、どうする?」
と無表情に、しかし凄みを増した雰囲気を醸して言った。
「どうするって……わからねーよ、そんなもん。これからどうすればいいのかもわからねー。こんな状況じゃ、学校にも通えねー」
「妹――いたんだっけ」
「……ん、あぁ、どこに行ったのかねアイツは」
「気になってたんだけどさ、あんたの両親を殺したのって、妹じゃないの?」
「…………」
憂馬は沈黙して俯いた。
その可能性は確かにあるだろう。
現に、妹――憂香の消息は不明である。
連絡もつかず、どこにいるのかさえわからないのだから、その疑念を晴らすことは難しいと言えるだろう。
勿論、兄の立場からすれば、妹が家族を殺すなんてするはずがない、と否定するべきなのだろうが、憂馬にとってそのような根拠もない信頼を置くことはたとえ家族が相手だったとしても不可能だった。
理想よりも現実。
客観的に見た現実の事実は、妹に容疑をかけられても何ら不思議ではないのだから。
しかし、それでも、やはり兄としては否定するべきなのだろう。
根拠もない、証拠もないけれど、易々と家族に容疑をかけられて肯定できるほど赤の他人ではない。
「……いや、母親にベタベタしてる憂香がやったとは思えねぇけど……どうだろ、わかんねーな。殺したのは確かに俺以外の誰かだろうけど、けれど、俺も確かに殺したんだ――この手で、親を……」
「自覚してるんだ」
「まだ夢のような気分だけどな。でもよくわからねぇ、わからねーんだが、実感がまるでない……」
「実感?」
「実感というか、罪悪感だな。不思議と後悔してねーんだよ、ほんとに。いや、違うか――後悔はしてるし罪悪感もあるかもしれねぇ、けど、何と言うか冷静なんだよな」
ふぅん、と伊和里は相槌を打った。
話半分に聞いているのか、それ以上相槌を打つことはなかった。
憂馬は自室を見渡して、何とも言い難い感傷的な気分に襲われた。
もう二度とこの家には戻ってくることができないのだろうか、と思った。
両親を亡くし、妹も見つからず、わけがわからないまま分裂した家族を、家庭を取り戻すことはもう二度とできないのだと実感した。
学校にもいつものように通うことすらできないかもしれない、クラスメートと話すこともできないかもしれない、受験もできなければ進学することもできないかもしれない――そんな不安が憂馬をひどくセンチメンタルにさせる。
ちっぽけだなぁ、と。
弱い人間だなぁ、と憂馬は自虐的な気分に陥った。
「警察が捜査してるはずだけど、あんたも見つからないようにしないとマズイかもね」
「……だな」
たとえ自分が殺していないからと言って、死体を傷つけたことでも罪に問われることを憂馬は知っていた。
潔白とは言えない自分を認識していた。
ならば、妹の憂香と同様、行方を暗ます必要があるようで、
「けど、警察から逃げれるとは思えねーな」
その一方で不安は募る。
警察も血眼になって捜査していることだろう――殺された両親の他に、息子娘が二人して行方不明ということになれば、自ずと事件の関連性が高いと判断されることだろう。
そうなれば、憂馬が逃げ切れる保証などどこにもない。
憂香が消息を絶っている理由はわからないけれど、それでも警察は必死に捜索するに違いない。
「なら、自首して捜査に協力すれば?」
「……それもアリっちゃアリだな。親が殺されてるって言うのに、逃げる必要も本来ないのかもしれねー」
けれど、
けれど、
「あの時の俺が――あの瞬間の俺がもしも本当の自分だったなら、俺みたいな狂った人間が表に出ていいとも思えねぇんだよ」
「それはつまり、自首するってこと?」
「はははっ、自首って言い方は悪いな。別にそもそも逃げる必要がないってことさ。自分のやったことは消えねーんだから、知ってる事情を全部話した方が楽だろ? それに、その方が犯人も早く捕まるかも」
伊和里は無表情の中に悲愴を漂わせて、
「……そう」
と頷いた。
本人の意見を尊重する上で、これ以上の干渉は野暮だと判断したとも言えるが、しかし、互いの距離がまだ遠いということもあり、言いたいことが中々口にできなかった。
引き止めるための資格が、伊和里にはなかった。
「どこか適当に時間を潰して、朝になったら警察に行くとするか。それにいつまでもここに留まるってのも駄目だろ。俺はいいけど、伊和里ちゃん、あんたに余計な面倒はかけたくない」
「……面倒?」
「ここにいるのがバレて、疑われるかもしれねーってこと……あ、そうだ、そうそう、一つ訊きたいことがあったんだった」
憂馬は横になりそうだった体を上げて、伊和里と向き合った。
「……え、何」
「伊和里ちゃん、どうやってこの家から俺を運んだんだ? 俺の記憶が正しければ、一階のリビングで無様な格好で意識失ってたはずなんだけど」
伊和里は思い出したかのように、あぁ、と答える。
「希望さんから連絡を受けてね……あんたが《連続殺人鬼》かもしれないってことは事前情報として入ってたらしいよ」
「希望さん……?」
憂馬と伊和里は忍び足で家を出て、暗がりの町中を並んで歩いた。
どこか目的を持って歩いていたというわけではなく、自然と伊和里が住むアパートを目指してゆったりと歩みを進めた。
人の目を気にする仕草は依然として変わらず、まるで隠密任務を遂行中の忍者のようで、せっかくの灯りをわざわざ避ける様を見ると余計に不審者と勘違いされそうだった。
そんなことを思いながらも、少し前を行く伊和里の後を憂馬はついて行った。
まだ猶予はある――憂馬は考えていた。
警察に自首するべく、と言うとまるで重犯罪者のような言い方になってしまうけれど、しかし、それでもやってはいけないことをしたのは事実だ。
決して赦されないことをしたのだ。
自らの手で握った包丁も、恐らく警察機関は回収済みだろう――そうなれば、指名手配されても何らおかしくはない。
それに。
逃げたところで、逃げ回ったところで、遅かれ早かれ捕まるのは目に見えている――
「空乃 希望――あたしやあんたみたいなどうしようもない連中を雇って、どうしようもない仕事を依頼する変人……」
伊和里の表情は暗がりで確認できないが、口調から感じるにあまり紹介したくない人物のようで、
「それなりの報酬は用意してくれるけど、まっとうな依頼ではないよ。だって、依頼主そのものがまっとうじゃないから」
と、声調を一段低くして言った。
どうやら剣呑な様子で、伊和里から発せられる空気がぴりぴりと緊張しているのが憂馬には感じられた。
「ほら、あたしやあんたみたいな異端者には、この世界の日常を過ごすことなんてできなから。ううん、あたしにとってはこれが日常――この世界の裏側に住まうことが日常なんだと思う」
「裏側、ねぇ……ってことは、俺がその――《連続殺人鬼》だっけか。そのよくわからねーだっせぇ称号を獲得したのは、その希望さんって人のせいなのか?」
「どーだろ」
「……ふぅん?」
「ネーミングセンスについてはどうかと思うけど、《連続殺人鬼》って呼び名は希望さんがつけたんだと思うよ。あたしのもそうだろうし。けれど、それはただの呼び名に過ぎない。あんたが本物だってことは、あたしたちが知るよりも前に、あんたが『そう』だったってこと」
「本物……俺が殺人鬼として本物ってこと?」
憂馬の問いに伊和里は小さく声を発して頷いた。
「それを隠していたのか、無意識の内に忘却していたのかは知らないけど、あんたが急に目覚めたってことは多分『そういうこと』なんだと思う」
目覚めた……ねぇ。
確かにそう言われれば、それに近い表現が適当だと憂馬には思えた。
自分のようで自分じゃない感覚は、今まで露見していなかった部分が露になっただけのことなのだろう。
隠していたものが、露になっただけなのだろう。
分厚い顔皮に覆われて見えなかった自分が、寸分の狂いもなく狂った鬼であることを認識した。
冷たい人間だと思った。
冷酷で残虐な人間だと思った。
両親を亡くし、その上で両親を痛めつけたというのにこんなにも冷静なのは、きっとそういうことの表れなのかもしれない。
狼狽は一瞬で、
後悔も僅かに、
懺悔はせず――笑っていた。
笑顔で親の腹を裂く自分をひどく認識していた憂馬は、それがきっと《連続殺人鬼》と呼称される所以なのだろうと考えた。
それにしても、その蔑称を素直に受け入れるだけの行為をしてしまったのだから反論の余地はなかった。
「表には表の生き方がある。裏も然り――表と裏は決して一体じゃない。だからこそ、あたしは表に手が伸びないし、彼らも裏には手が伸びない。ブラックボックスには誰も手が出せない」
「それは伊和里ちゃんが殺人鬼だからか?」
「表の世界に、鬼が住む場所なんてどこにもない」
「……そっか」
ならば、きっと自分もそうなのだろうと憂馬は思った。
自分もすでに時遅し、表の世界で白昼堂々と歩くことができないのだ、と自覚させられた。
「警察に自首するって言ったけど」
伊和里は住居の古びたアパートを目の前にして立ち止まった。
つられて、憂馬もすぐ後ろで停止する。
「やめときなよ、意味ない」
「なんで?」
「あんたがそれでいいって言うなら構わないけど、別にそれ以外に方法がないわけじゃない」
それに、と伊和里は続ける。
「別の生き方がないってわけじゃない」
その言葉は、憂馬を闇中に引きずり込むものだった。
まるで地中から伸びた手に足首を捕まれたかのような感覚を覚えた後、僅かな胸の高鳴りが奥底で感じられた。