悪手賭博のセオリー
憂馬が幼少期から断続的に所持している記憶を辿れば、過去に凄惨な事件や事故を目撃したことがあっただろうか。
或いは、悲惨で痛ましい事態に巻き込まれたことがあっただろうか。
いや――ない。
あるはずがなかった。
そもそも、そのような事態になることなど、想像だにしていなかった。
一片たりとも、頭の片隅にも予期していなかった。
不運を悔やめばいいのだろうか。
不幸を嘆けばいいのだろうか。
どうだろうか――憂馬にはわからかった。
しかし、わからないなりにも今すべきこと、今なすべきことは明瞭で明確であった。
背後からゆっくりと近づいてくる伊和里から逃れること。
背後から伸びてくる短刀を握った伊和里から逃れること、である。
胸倉を捕まれ、そのまま首を締め上げられた憂馬は必死さのあまり、宙に浮きそうになった右足で彼女の腹を思い切り蹴り飛ばしたのだった。
その瞬間、僅かに弛緩した腕を無理矢理に解いて難を逃れた。
まさに九死に一生を得る、ではないけれど、少なくとも絶息しかけた憂馬にとって文字通りの意味と同義であった。
「ありえねぇ、ありえねぇ……何だあの女、何者だよあの女……」
赤い瞳だった。
赤ワインのような瞳だった。
記憶している限り、彼女が元から異色の瞳を有していたわけではない――あれは明らかに、途中で変色した。
そして。
獣のような、鬼のような力。
人一人を、胸倉を掴んで宙に浮かせられるほどの腕力を、あの体格で、しかも女子がどうやって発揮できるというのだ。
女子の平均以上ではあろう背丈だが、線は細い。
その中に、体重六十キロの自分を腕一本で持ち上げるほどの筋力がどこにあるというのだ。
だから、憂馬にはわけがわからなかった。
現状の把握という意味でもそうだったし、伊和里の正体という意味でもそうだった。
ただ、非現実的な女が非現実的に襲ってくる、その程度の認識しかなかったのだった。
伊和里の魔の手ならぬ鬼の手から逃れ、廊下に出て二階へ。
二階には憂馬の自室、妹である憂香の部屋、両親の寝室、計三つの扉がある。
階段から一番奥に位置するところに自室があり、憂馬は部屋の戸を閉め、施錠した。
鍵を閉めたことから安心したのか、気が緩んだ憂馬は脱力するようにその場に座り込む。
「夢か? 現実か? 何がどうなって――」
膝が震えて立ち上がることができない。
人がどうやって二足歩行しているのか、それすらもわからなくなっていた。
二足歩行の仕方を、二足で立ち上がる方法を、科学的根拠のもと理論立てて説明してもらわないと立てそうになかった。
神経回路から電気信号まで、脳の仕組みから人体構造まで、一から百まで教授しなければいけないと、憂馬は思った。
まったく、笑えてくる。
可笑すぎて笑えてくる。
こんな珍劇が現実世界にあっていいものなのか、こんな異常が現実世界にあっていいものなのか――受け入れられないからこそ、笑えてくる。
立ち上がることさえできない。
逃げ出すことさえできない。
わけがわからないまま、意味も理解できないまま殺されるのだろう。
簡単に殺されるのだろう。
父さんみたいに、母さんみたいに、まるで人形ごっこをするかのように殺されるのだろう。
首を切り落とされ、皮を剥がれ、腹を裂かれ、関節を捻り、腸を引きずり出して目玉を抉り、杭を打ち込んで槍を突き刺し、絶望と失望の中、快楽と愉悦に塗れた鬼に殺されるのだろう。
まったく、笑えてくる。
冗談もほどほどにして欲しい。
笑える冗談の一つすら思い浮かばない。
冗談のような小話の一つすら思いつかない。
「……へっ、へへへへ…………はは、ははははっ……」
とんとんとん、と三度。
吐息の混ざる笑い声が聞こえたのか、その瞬間、部屋の扉が丁寧にノックされた。
ドアノブは回らない。
施錠されたドアノブが回るはずない――憂馬はまだ安堵していた。
けれど。
がこっ。
まるで最初から開錠されていたかのように、まるで施錠なんてされていなかったように、まるで鍵なんて存在していなかったように、ドアノブは回すものであると言わんばかりに――億劫もなく彼女は現れた。
ゆっくりとした様子で、ゆったりとした仕草で、おっとりとした容姿で――赤い瞳を覗かせながら伊和里は現れた。
「逃げても無駄」
伊和里は言う。
左手に握った短刀の切っ先を憂馬に向けて言う。
「逃げられるはずがない、逃げられるわけがない。だからあんたも逃げるな、自分から逃げるな」
彼女の瞳は冷酷で、冷徹だった。
温かさも感じられないほど、冷めて冷え切った眼差しだった。
同情しているのか、哀れんでいるのか、喜んでいるのか楽しんでいるのか――何一つ読み取ることができない。
「まず、腹を刺す。そして胸を刺す。顔を刺す。もう一度腹を刺して引き裂く。さらに顔を刺して引き裂く。目玉を抉り取って、鼻を切り落とす。皮を削いでから耳を切り落とす――」
一歩。
一歩、と伊和里は足を進めた。
「手足の爪を剥いで、歯を砕く。舌を二つに割いて引き千切る。関節を逆に折り曲げる。手足の指を折り曲げてから切り落とす。口を頬まで裂いたらそこに爪と指を詰め込む。首を開いて脊髄を折って、神経を抜く――」
さらに一歩。
もう一歩、と伊和里は確かな足取りで憂馬に迫った。
「最後に頭をかち割って頭蓋骨を砕く。そこから脳髄を引きずり出して、脳味噌をかき混ぜる。ぐちゃぐちゃになったスープを裂いた口の中に注ぐ。空っぽになった頭には鼻と耳を詰めて血を注ぐ。頭に手を突っ込んで、またかき混ぜる。そして――」
「へへへへっ、はは、ははははっ……」
短刀を握った伊和里を眼前にして、憂馬は笑った。
笑わざるを得なかった。
この冗談のようで絵空事のような状況に笑う以外他なかった。
「笑えるの、あんた」
伊和里は憂馬の引き攣った笑みを見て、無表情に問うた。
「あーあ、何でこんなことになってんだろーな。実は俺ってさ、こんなナリしてても優等生なんだぜ? しかも学年一位二位を争うほどなんだぜ? 今まで一度も悪いことをしたことがねぇってわけじゃないけどよ、それでも、これでも真っ当に生きてきたつもりなんだよ」
「…………」
「それが、それなのに、どこをどう間違ったらこんなことになるんだろーな。親は殺されるし、俺は親をさらに殺したし、こうやって殺されそうになるし――天罰が下るほど悪いことなんて何もしてねーんだよ。そりゃ、それとこれとはまた別の話だってこともわかってる。悲劇はいつも唐突だし、惨劇はいつも不運だ」
「あんた、何が言いたいの」
「……はぁ、わかってくれねーか。俺が言いたいことがわからねーか」
そりゃそうだよな、と憂馬は独白するように呟いた。
「いつまで経っても悲劇を嘆くほどに俺は子供じゃねぇ。割り切ることも振り切ることも、吹っ切れることも覚えた大人だ――まぁ、まだ高校生だけどな」
「命乞いなんて聞かない。もう止めなよ」
脱力もあった。
全身の筋肉も弛緩していた。
けれど、憂馬はそれ以上に緊張していた。
強張っていたのかもしれない、神経質になっていたのかもしれない――けれど。
「命乞い……俺が?」
憂馬は立ち上がった。
立膝をついてから、ゆっくりと立ち上がった。
「はははっ、はは……ふざけんじゃねーよ、伊和里ちゃん。こちとら女にモテモテの学生生活を送ってんだ、女の扱い方はよーく知ってるっての」
「……?」
「まずは手始めに懐かせてやるよ、ライオン娘」
「――――っっ!!」
伊和里の表情が僅かに歪んだ瞬間、彼女はたまらず憂馬に飛び掛った。
文字通り、短刀を片手に飛び込んだ。
そして憂馬も同様に飛び込んだ。
短刀を片手に握る伊和里に向かって飛び込んだ。
自殺行為だったろう。
浅はかだったろう。
知慮に欠ける行為だったろう。
リスクとリターンがまるで見合わない賭けだったろう。
勝算があったわけではない。
それ以外に最善の手がなかったわけではない。
それでも、憂馬は伊和里に向かって体を投げ出した。
投げ込んでいた。
一秒に満たない一瞬の出来事。
刹那の出来事だった。
「……………………」
ほとんど同時に飛び込んだ二人は体を密着させて、停止した。
伊和里の左手首を握る形で、まるで抱擁するかのように停止した。
外から見れば、社交ダンスでもしているかのような図だった。
「――えっ」
思わず声を漏らしたのは伊和里だった。
まさかそのような行為に及ぶとは思ってもいなかった、想像だにしていなかったのだろう。
伊和里はまるで緊張した糸が切れたように、頬を赤らめて表情を緩めた。
「なぁ、伊和里ちゃん……」
憂馬は彼女の心臓の鼓動を腹部で感じながら言う。
「俺の心臓はちゃんと動いてるか?」
憂馬の問いに伊和里は小さく頷いた。